続・泣き虫の凛ちゃんがヤクザになっていた2
17話
三上さんと別れた後、俺は反田組の事務所へと向かった。
応接室へ向かうと、反田組の構成員が数人待機していた。
部屋の中心には、宮永さんと組長代行が並んでソファに座っており、それを取り囲むように構成員が数人立っている。宮永さんの後ろには、市ノ瀬さんがいた。
俺が部屋に入るなり、六十歳前後の初老である組長代行が「怪我の具合はどうだ?」と訊いてきた。それに対して、「おかげさまで、すっかり良くなりました」と俺は返す。
「わざわざ俺と代行を呼び出して、話ってなんだよ?」
俺が二人と向き合うように座ると、宮永さんが腕組みをしながら尋ねてきた。
高圧的な様子の宮永さんの問いかけに、覚悟を決めてきたはずの俺は思わず冷や汗を流す。
下手すると、殺されるかもなぁ……。
目の前からの威圧に圧し潰されかけたが、俺は何とか意を決して真っ直ぐ前を見据えた。
そして、緊張で乾いた唇を舐めると、口を開いた。
「俺は、――今日で、極道から足を洗おうと思っています」
俺の言葉を聞いた一同は、市ノ瀬さんと代行を除いて、動揺した様子を見せた。
「おいおい、本気かよ?」
宮永さんは頭を抱えながら、落胆した様子で尋ねてくる。
「本気です。今日は盃を返しに来ました」
冷静な様子で俺をジッと見てくる代行の隣で、宮永さんは苛立ったように俺を睨みつける。
「お前が辞めるなら、お前の子分はどうするつもりだ?まさか、そのままほっぽり出すつもりじゃねぇだろうな?」
「もちろんです。うちの組員には、一人一人話はつけて来ました。そこで、一緒に足を洗うか、このまま極道の世界に残るかも聞きました。足を洗う奴らには、カタギの知り合いの仕事先を紹介しています。残ると選択した奴らは、市ノ瀬さんに面倒を見てもらうことになりました」
オヤジが倒れた直後、俺が忙しなくしていたのは、俺の子分たちに直接会ってヤクザを辞めると説明していたからだ。
――あの件、どんな調子?
市ノ瀬さんが言っていた「あの件」というのは、子分たちに「一緒に足を洗う」か「極道の世界に残る」かの選択を迫っていた件だ。
俺の組には、新米のチンピラしかいないため、俺がいなくなったら組織は潰れるだろう。あいつらは全員、俺がこの世界に引き入れたようなものなので、無責任に放り投げるわけにはいかない。だから、俺がヤクザを辞めた後、「どうするのか」と訊いていた。
市ノ瀬さんには、事前に「極道の世界に残る」と選択した奴らを市ノ瀬会に迎え入れてほしいと頼んでいた。そして、彼はこれを了承してくれた。
市ノ瀬さんは「カタギに戻れる人間は戻るべき」という思想を持っている。だから、この件について相談するのに、打ってつけの人間だった。
正直、市ノ瀬さんは俺の五十倍は怖い人だと思うのだが、理不尽に癇癪を起すような人ではないし、人望も厚い人なので、子分を悪いように扱ったりしないだろう。
――すみません、まだ何人かゴネてる奴がいて……。もう少し時間が掛かりそうです。
子分たちは、俺がヤクザを辞めるという話をなかなか受け入れてくれなかった。十人もいない少数だというのに、全員に納得してもらうまで一か月以上掛かってしまった。
中でも一番ゴネたのが、一番新米の舞島だ。
舞島は「オヤジが足洗うんだったら、俺はここで死にます」と言って、事務所に隠してあった拳銃を自分のこめかみに宛てようとした。俺は止めるために「お前に拳銃は百年早ぇよ、バカ」と言って一発殴った。
最終的に大半の奴が「足を洗う」と言い、市ノ瀬さんの元へ行くのは二人だけだ。
元々俺は近いうちにヤクザを辞めるつもりでいた。しかし、具体的に「いつ」辞めるかまでは決めていなかった。
そんな中、オヤジが病で倒れ、俺は「潮時だ」と何者かに言われているような気がした。そこで、俺は足を洗う覚悟ができたのだ。
床に伏していたオヤジには、「足を洗おうと思っています」と俺のほうから直接伝えていた。それに対して、オヤジは嫌な顔一つせず笑って許してくれた。
――俺は「去る者は追わず来る者は拒まず」っていう主義なんだよ。それに、お前は若いから、いくらでもやり直せるだろうさ。代行には俺のほうから伝えておいてやるよ。けどな、シゲには自分から直接言うんだぞ。あいつは、特別お前に目を掛けてるんだ。
どうせならオヤジが生きているうちに、感謝を述べて盃を返したかったが、結局間に合わなかった。
「組長には生前、話は聞いているよ。俺は組長の意思を尊重して、酒々井が抜けることを認める」
代行は含みを持たせたような言い方をすると、チラッと横目で宮永さんのほうを見る。
「……けど、シゲ、お前は納得がいかねぇ様子だな?」
代行は呆れたようにため息を吐く。
「当たり前でしょう。俺ぁ、今、恩を仇で返された気分なんですから」
宮永さんは不敵な笑みを浮かべながら、貧乏ゆすりを始める。
やはり、鬼門は宮永さんのようだ。
「オヤジはともかく、市ノ瀬には相談するくせに、俺には何の断りもなしか?」
「……カシラに相談したら、あんた邪魔したでしょ」
「そりゃあな。野良犬同然だったお前をここまで育てたやったのは、誰だと思ってるんだ?」
宮永さんは続けざまに「お前もだぞ、市ノ瀬」と吐き捨てる。
「こんな大事なことを、俺に黙ってたってのか?」
怒りを露わにする宮永さんに対し、市ノ瀬さんは冷静な表情を全く崩さない。宮永さんがこんなふうに激怒していたら、他の組員ならもっと震え上がるだろう。
やはり、市ノ瀬さんの肝の据わり方は尋常じゃない。
おそらくこの人は、宮永さんに銃口を向けられても冷静でいられるだろう。
「申し訳ありません、兄貴。今回の件について、如何なる処分でも甘んじて受け入れるつもりです」
市ノ瀬さんは深々と頭を上げる。
市ノ瀬が宮永さんを恐れないのは事実だが、彼が宮永さんを敬愛しているというのもまた事実だ。
宮永さんに「自分の目玉を抉れ」と言われれば、喜んで目玉を差し出すだろう。
「ふん。処分っつったって、今更お前に失って惜しいもんなんかねぇだろ」
宮永さんの厭味に対し、市ノ瀬さんは「確かに、そうですね」と真っ黒なビー玉のような目をしながら、抑揚のない平坦な口調で答えた。
「お前が足を洗いたいなんて、どういう風の吹き回しだ?まさか女が原因ってわけじゃねぇだろうな?」
「……そのまさかですよ」
そのまさか、俺は幸希のためにヤクザを辞めるのだ。
「俺がこれ以上極道の世界にいたら、彼女に迷惑が掛かります。今回の件だって、俺がヤクザだったせいで起きた事件です。これ以上、彼女を危険な目に遭わせるわけにはいきません。これは彼女への俺なりのケジメなんです」
俺は真っ直ぐ宮永さんの目を見て言った。
「俺が一番大事なのは、彼女です。死んだオヤジでも、カシラでもなく、彼女が一番なんです。そんな中途半端な気持ちで組に居続けたら、次期組長である宮永さんにも迷惑が掛かってしまいます」
ヤクザというものは、親分のために全てを投げ出す覚悟がなければ務まらない。しかし、俺にはその覚悟がない。幸希のために、俺はその覚悟を捨ててしまった。
宮永さんの目には、怒りと失望が滲んでいる。
「……なるほど。つまり、俺はあのお嬢ちゃんに負けたってわけか」
宮永さんはスッと立ち上がると、自分たちの後方にあるデスクの引き出しを開けた。そこから何かを取り出すと再び俺の前へ来て、目の前のローテーブルの上にそれを置く。
それは、――小刀だった。
「それなら、俺に対してもきちんとケジメをつけてもらおうか」
俺は宮永さんの行動に、率直に「マジか」と思った。それはこの場にいる他の人間も同様だったらしく、代行も焦った表情をしている。
しかし、市ノ瀬さんだけは呆れたようにため息を吐いている。
正直、宮永さんのことだから、こういうことをするだろうなという予想は付いていた。しかし、実際に目の当たりにすると流石に面食らう。
俺は深くため息を吐いてから、腹を括る。
「上等ですよ」
俺は立ち上がると、小刀を手に取った。
応接室へ向かうと、反田組の構成員が数人待機していた。
部屋の中心には、宮永さんと組長代行が並んでソファに座っており、それを取り囲むように構成員が数人立っている。宮永さんの後ろには、市ノ瀬さんがいた。
俺が部屋に入るなり、六十歳前後の初老である組長代行が「怪我の具合はどうだ?」と訊いてきた。それに対して、「おかげさまで、すっかり良くなりました」と俺は返す。
「わざわざ俺と代行を呼び出して、話ってなんだよ?」
俺が二人と向き合うように座ると、宮永さんが腕組みをしながら尋ねてきた。
高圧的な様子の宮永さんの問いかけに、覚悟を決めてきたはずの俺は思わず冷や汗を流す。
下手すると、殺されるかもなぁ……。
目の前からの威圧に圧し潰されかけたが、俺は何とか意を決して真っ直ぐ前を見据えた。
そして、緊張で乾いた唇を舐めると、口を開いた。
「俺は、――今日で、極道から足を洗おうと思っています」
俺の言葉を聞いた一同は、市ノ瀬さんと代行を除いて、動揺した様子を見せた。
「おいおい、本気かよ?」
宮永さんは頭を抱えながら、落胆した様子で尋ねてくる。
「本気です。今日は盃を返しに来ました」
冷静な様子で俺をジッと見てくる代行の隣で、宮永さんは苛立ったように俺を睨みつける。
「お前が辞めるなら、お前の子分はどうするつもりだ?まさか、そのままほっぽり出すつもりじゃねぇだろうな?」
「もちろんです。うちの組員には、一人一人話はつけて来ました。そこで、一緒に足を洗うか、このまま極道の世界に残るかも聞きました。足を洗う奴らには、カタギの知り合いの仕事先を紹介しています。残ると選択した奴らは、市ノ瀬さんに面倒を見てもらうことになりました」
オヤジが倒れた直後、俺が忙しなくしていたのは、俺の子分たちに直接会ってヤクザを辞めると説明していたからだ。
――あの件、どんな調子?
市ノ瀬さんが言っていた「あの件」というのは、子分たちに「一緒に足を洗う」か「極道の世界に残る」かの選択を迫っていた件だ。
俺の組には、新米のチンピラしかいないため、俺がいなくなったら組織は潰れるだろう。あいつらは全員、俺がこの世界に引き入れたようなものなので、無責任に放り投げるわけにはいかない。だから、俺がヤクザを辞めた後、「どうするのか」と訊いていた。
市ノ瀬さんには、事前に「極道の世界に残る」と選択した奴らを市ノ瀬会に迎え入れてほしいと頼んでいた。そして、彼はこれを了承してくれた。
市ノ瀬さんは「カタギに戻れる人間は戻るべき」という思想を持っている。だから、この件について相談するのに、打ってつけの人間だった。
正直、市ノ瀬さんは俺の五十倍は怖い人だと思うのだが、理不尽に癇癪を起すような人ではないし、人望も厚い人なので、子分を悪いように扱ったりしないだろう。
――すみません、まだ何人かゴネてる奴がいて……。もう少し時間が掛かりそうです。
子分たちは、俺がヤクザを辞めるという話をなかなか受け入れてくれなかった。十人もいない少数だというのに、全員に納得してもらうまで一か月以上掛かってしまった。
中でも一番ゴネたのが、一番新米の舞島だ。
舞島は「オヤジが足洗うんだったら、俺はここで死にます」と言って、事務所に隠してあった拳銃を自分のこめかみに宛てようとした。俺は止めるために「お前に拳銃は百年早ぇよ、バカ」と言って一発殴った。
最終的に大半の奴が「足を洗う」と言い、市ノ瀬さんの元へ行くのは二人だけだ。
元々俺は近いうちにヤクザを辞めるつもりでいた。しかし、具体的に「いつ」辞めるかまでは決めていなかった。
そんな中、オヤジが病で倒れ、俺は「潮時だ」と何者かに言われているような気がした。そこで、俺は足を洗う覚悟ができたのだ。
床に伏していたオヤジには、「足を洗おうと思っています」と俺のほうから直接伝えていた。それに対して、オヤジは嫌な顔一つせず笑って許してくれた。
――俺は「去る者は追わず来る者は拒まず」っていう主義なんだよ。それに、お前は若いから、いくらでもやり直せるだろうさ。代行には俺のほうから伝えておいてやるよ。けどな、シゲには自分から直接言うんだぞ。あいつは、特別お前に目を掛けてるんだ。
どうせならオヤジが生きているうちに、感謝を述べて盃を返したかったが、結局間に合わなかった。
「組長には生前、話は聞いているよ。俺は組長の意思を尊重して、酒々井が抜けることを認める」
代行は含みを持たせたような言い方をすると、チラッと横目で宮永さんのほうを見る。
「……けど、シゲ、お前は納得がいかねぇ様子だな?」
代行は呆れたようにため息を吐く。
「当たり前でしょう。俺ぁ、今、恩を仇で返された気分なんですから」
宮永さんは不敵な笑みを浮かべながら、貧乏ゆすりを始める。
やはり、鬼門は宮永さんのようだ。
「オヤジはともかく、市ノ瀬には相談するくせに、俺には何の断りもなしか?」
「……カシラに相談したら、あんた邪魔したでしょ」
「そりゃあな。野良犬同然だったお前をここまで育てたやったのは、誰だと思ってるんだ?」
宮永さんは続けざまに「お前もだぞ、市ノ瀬」と吐き捨てる。
「こんな大事なことを、俺に黙ってたってのか?」
怒りを露わにする宮永さんに対し、市ノ瀬さんは冷静な表情を全く崩さない。宮永さんがこんなふうに激怒していたら、他の組員ならもっと震え上がるだろう。
やはり、市ノ瀬さんの肝の据わり方は尋常じゃない。
おそらくこの人は、宮永さんに銃口を向けられても冷静でいられるだろう。
「申し訳ありません、兄貴。今回の件について、如何なる処分でも甘んじて受け入れるつもりです」
市ノ瀬さんは深々と頭を上げる。
市ノ瀬が宮永さんを恐れないのは事実だが、彼が宮永さんを敬愛しているというのもまた事実だ。
宮永さんに「自分の目玉を抉れ」と言われれば、喜んで目玉を差し出すだろう。
「ふん。処分っつったって、今更お前に失って惜しいもんなんかねぇだろ」
宮永さんの厭味に対し、市ノ瀬さんは「確かに、そうですね」と真っ黒なビー玉のような目をしながら、抑揚のない平坦な口調で答えた。
「お前が足を洗いたいなんて、どういう風の吹き回しだ?まさか女が原因ってわけじゃねぇだろうな?」
「……そのまさかですよ」
そのまさか、俺は幸希のためにヤクザを辞めるのだ。
「俺がこれ以上極道の世界にいたら、彼女に迷惑が掛かります。今回の件だって、俺がヤクザだったせいで起きた事件です。これ以上、彼女を危険な目に遭わせるわけにはいきません。これは彼女への俺なりのケジメなんです」
俺は真っ直ぐ宮永さんの目を見て言った。
「俺が一番大事なのは、彼女です。死んだオヤジでも、カシラでもなく、彼女が一番なんです。そんな中途半端な気持ちで組に居続けたら、次期組長である宮永さんにも迷惑が掛かってしまいます」
ヤクザというものは、親分のために全てを投げ出す覚悟がなければ務まらない。しかし、俺にはその覚悟がない。幸希のために、俺はその覚悟を捨ててしまった。
宮永さんの目には、怒りと失望が滲んでいる。
「……なるほど。つまり、俺はあのお嬢ちゃんに負けたってわけか」
宮永さんはスッと立ち上がると、自分たちの後方にあるデスクの引き出しを開けた。そこから何かを取り出すと再び俺の前へ来て、目の前のローテーブルの上にそれを置く。
それは、――小刀だった。
「それなら、俺に対してもきちんとケジメをつけてもらおうか」
俺は宮永さんの行動に、率直に「マジか」と思った。それはこの場にいる他の人間も同様だったらしく、代行も焦った表情をしている。
しかし、市ノ瀬さんだけは呆れたようにため息を吐いている。
正直、宮永さんのことだから、こういうことをするだろうなという予想は付いていた。しかし、実際に目の当たりにすると流石に面食らう。
俺は深くため息を吐いてから、腹を括る。
「上等ですよ」
俺は立ち上がると、小刀を手に取った。