瞼の裏の恋人
 放課後のチャイムの音を聞いて、周囲がざわめきだす。私はそれらの雑音を背に、静かに歩き出す。
 好きな人に、会うために。

 私の通う中学校には、図書館棟がある。本校舎とは渡り廊下で繋がっているものの、一度外に出なければならないこともあり、ほとんど人が来ない。うるさい場所が苦手な私の避難場所だった。
 私は昔から読書が好きだった。本を読んでいる間は、空想の世界に没頭できる。煩わしい現実を全て忘れて、私だけの世界が広がる。そのせいか、親や先生からはよくぼうっとしすぎだと注意された。
 特に好きなジャンルはファンタジーだ。ここではないどこか、空想の中にしかない世界。文章を読んで、私の頭の中に広がる景色は、他の誰にも侵されることがない。
 今日も私は、お気に入りの一冊を手に取る。布張りの装丁は古びており、擦れてところどころ破れている。しかし草色のそれからは、草原の香りがするようだった。
 その本を抱えて、一番奥の隅の席に座る。古くなった本を傷つけないよう丁寧に、そっと開いた。

 物語の主人公は、妖精の国の王子様だ。彼が、妖精の国を壊そうとする悪魔と戦って、国を守る話。児童文学なので、話は至って単純だ。
 それでも、私はその物語の虜になった。
 美しい妖精の国。いつでも変わらずに暖かく、柔らかな陽射しが降り注ぐ。森の木々は青々としていて、葉の隙間から光がきらきらと零れ落ちる。あたり一面には季節を問わず花が咲き誇り、妖精たちはその蜜を吸って生きている。何も殺さないし、何も傷つけない。全ての生き物は手を取り合い、仲睦まじく暮らしている。
 王子様は蜂蜜を零したような髪に、琥珀色の瞳をしている。羽は薄い硝子細工のようで、すうっと透き通った若葉の色。いつでも皆に優しく、どんな悩み事も聞いてくれる、頼もしい妖精。
 
 彼が、私の好きな人。

 本の登場人物に恋をするなんて、馬鹿げていると思うだろう。それでも、彼の姿を思い浮かべると、胸が甘く痺れる。唇の端が自然と持ち上がって、目がとろんとしてくる。一度考えだすと、もうそれ以外は浮かばなくなって、四六時中彼のことを考えている。
 初めは、単純に物語に熱中しているだけだと思っていた。だけど、彼が出てくると途端に心臓がどきどきして、ずうっとその場面を読んでいたくなる。これが恋だ、と気づくのに時間はかからなかった。
 以来、私は彼に会うために、足繁くこの図書館に通っている。
 そんなに好きなら買えばいいのに、と思われるだろうが、私もそのつもりだった。お小遣いを貯めて、いざ購入しようと思ったら、どこにも売っていなかった。調べて分かったことだが、この本は絶版していたのだ。
 知った時には非常にショックだったが、限られた条件下でしか会えないというのもなかなか悪くない。私は学校が嫌いだったが、彼に会うためだと思えば、嫌なことでも頑張れた。

 下校時刻を知らせるチャイムに、意識が引き戻される。中学校の下校時刻は早い。息を吐いて本を閉じ、棚に戻して、私は図書館を出た。
 頭の中はまだ本の世界だ。ぼうっとしたまま、日暮れ時の道を歩く。
 真っ赤な夕日は、悪魔の瞳のようだった。妖精の国を壊そうとする悪魔。私の日常も、壊してくれればいいのに。
 帰宅して、制服を脱ぐ。お風呂に入って、ご飯を食べて、宿題をして。いつも通りの日常を終えて、ベッドの中で目を閉じる。
 瞼の裏に鮮やかに蘇るのは、あの輝かしい妖精の国。私は妖精の国では他の皆と同じように小さな妖精で、羽を広げて空を飛んでいる。お腹が空いたら花の蜜を吸って、満腹になったら草のベッドで寝ころんでうたたねをする。
 王子様は、私に向かって柔らかく微笑んでいる。琥珀の瞳を嬉しそうに細めて、お砂糖をたくさん溶かしたミルクみたいな甘やかな声で私の名前を呼ぶ。
 彼は決して私を傷つけないし、いつでも私に優しくしてくれる。私の理想の恋人が、そこには居た。
 そうして私は優しい気持ちで眠りにつく。彼の細くてしなやかな手が、私の髪を撫でてくれていると思って。

***

 翌日は、小テストの返却日だった。クラス中が「できなかった」だの「勉強しなかったし」だのうるさい中、私は黙って用紙を受け取って、席に戻った。

「うっわ、満点じゃん!」

 後ろから覗き込んだ男子が声を上げた。うるさい、と私は眉を顰めた。

「さっすがガリ勉」

 嫌味ったらしいその言葉を、私は無視した。このくらい当然だ。何せ、私の恋人は王子様なのだ。王子様の隣に立つのに、馬鹿じゃ話にならない。

「無視すんなよ、感じ悪いな」

 ちぇ、と言いながら男子は私の座っている椅子を蹴った。がたりと体が揺れて、思わずきっと睨みつけた。

「こえー」

 にやにやと笑いながら、男子は席についた。私はまだ心臓がばくばくしていた。これだから、クラスの男子なんて嫌いだ。うるさくて、無神経で、暴力的。王子様とは全然違う。
 私は早く放課後になることを願って、ただじっと耐えた。

 放課後になって、私はほんの少しだけ早足で図書館へ向かった。廊下を走るようなはしたない真似はしない。だって、王子様に会いに行くんだから。
 図書館について、扉に手をかけて、張り紙に気づいた。それを読んで、私は愕然とした。

「どういうことですか!?」

 私は図書館にいた先生に食ってかかるように聞いた。張り紙には、この図書館を取り壊すと書かれていた。

「ここ、あんまり人が来ないでしょ。だから潰して、コートにするんですって。でも、代わりに本校舎内に図書室を作ることになってるから」
「図書室って、ここの本、全部は入らないですよね」
「そうねえ。だから、ほとんどの本は他の学校や図書館に寄贈することになってるの」

 他の学校に置かれたら読むことは不可能に近い。図書館だって、歩いて行ける一番近いところじゃない限り、そうそう頻繁には寄れない。
 私はいったんその場を離れ、いつものお気に入りの本を抱えて、先生のところに戻った。

「あの、これ、この本。どうなるか、決まってますか。もし良ければ、私、買えませんか」
「えーっと……ちょっと待ってね」

 先生は手元のファイルを捲った。おそらく蔵書のリストだろう。

「ああ、ごめんなさいね。その本は希少だから、県の図書館に寄贈するんですって」
「そんな……」

 県の図書館は電車に乗らないと行けない場所にある。私のお小遣いでは、そんなに頻繁に行けない。それに、県の図書館に置かれたら、きっとすぐ貸し出されてしまう。
 私は本をぎゅっと抱え込んだ。

「あなた、それいつも読んでたものね。ごめんね、今月末までは置いてあるから」
「はい……」

 所詮私はただの中学生だ。学校の決定にどうこう言える立場ではない。それでも、大切な人と引き裂かれてしまう胸の痛みに、涙が滲んだ。
 図書館の奥の隅。いつもの席で、本を開く。もう何度も何度も読んでいて、内容はほとんど覚えている。それでも、会えなくなることは悲しい。
 本を涙で汚さないように、唇を噛んでこらえながら、ページを捲った。

 帰宅して、のろのろと制服を脱ぐ。呆然とお風呂に入って、ご飯は喉を通らず、宿題は手につかず。それでも何とか日常を終えて、ベッドの中で目を閉じる。
 王子様は、悪魔を倒した光の魔法で、いじわるな男子をやっつけてくれた。それから、図書館を壊そうとする悪い大人たちも追い払ってくれた。
 それでも泣きじゃくる私を、王子様は優しく慰めてくれた。可哀そうにと言って、涙を拭ってくれる。王子様。もうすぐあなたに会えなくなるの。そうしたら私、なんのために生きればいいの。
 王子様はぎゅっと私を抱きしめてくれる。温かい。現実では私の感じる温かさは布団なのだけれど、今は王子様に抱きしめられていると思いたかった。

***

 それから私は月末までの間、暇さえあれば図書館に通った。少しでも長く、あの世界に触れていたかった。ぼうっとする時間は更に増えて、親も先生も呆れていた。それでも、別に授業態度が悪いわけじゃないし、成績も悪くなかったから、そんなに怒られることはなかった。

 その時はあっと言う間に来た。月末、最終開館日。下校時刻のチャイムを聞きながら、私はそっと呟いた。

「さようなら」

 さようなら。私の初恋の人。
 こんなに人を好きになったのは初めてだった。あなたのためならどんなことでも頑張れた。あなたと出逢えたから、毎日が楽しかった。
 ありがとう。きっと、ずっと、忘れない。
 この先誰を好きになったとしても、あなただけは特別だから。

 惜しむようにそうっと表紙を指で撫でて、私は本を棚に返した。

 帰宅して、制服を脱ぐ。お風呂に入って、ご飯を食べて、宿題をして。いつも通りの日常を終えて、ベッドの中で目を閉じる。
 瞼の裏に王子様を思い描いて、私は目を開けた。起き上がって、机に向かって、ノートを開く。
 忘れない。忘れたくない。あの世界を。あの人を。
 そう思って、私は覚えている限り、本の中身を書き出した。一晩ではとても時間が足りなかったから、何日もかけて書き上げた。

「できた……」

 ようやく最後まで書き終えた私は、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。目を閉じると、瞼の裏に王子様が現れた。彼は陽だまりのような笑顔で、ありがとう、と言った。

***

 記憶の物語は書き終えたけれど、私は翌日からも物語を書き続けた。本を読むのではなく、自分のノートに物語を書いて、思ったのだ。この瞼の裏の世界をノートに書き出せば、いつでも彼に会えるのだと。物語の王子様ではなく、私の理想の恋人である王子様に。
 最初は、なんだか悪いことをしているような気さえした。けれど私の書いた恋人は、いつでも私を励ましてくれて、慰めてくれた。私の心の支えだった。それなら、誰に迷惑をかけているわけでもないからいいじゃないか、と開き直ることにしたのだった。
 瞼の裏の世界を書き出すことに慣れた私は、だんだんと別の世界を作り上げるようになった。妖精の国は、今でも憧れだ。けれど、それとはまた違った自分だけの世界も持ってみたくなった。
 例えば、兎族の国。そこの住人は皆兎のようにもふもふしていて、兎のように跳ねることができ、長い耳で小さな音も拾えるのだ。もふもふとした毛はたくさん抜けてしまうけれど、その毛で服を作ったり、固めて家を作ったりする。長い耳は好きな人の声に反応してぴこぴこと動く。だから、誰が好きなのかすぐに分かってしまう。その代わり、好きな気持ちをまっすぐ伝えてくれる。兎の彼は、「君の声が一番好きなんだ」とはにかんだ笑顔で言ってくれるのだ。

 中学生の間はノートに書き綴っていたそれを、高校生になって、ネットに投稿してみた。スマホを持てるようになったからだ。読者数は全然伸びなかったけれど、ある日コメントが一件ついた。

『兎の彼かわいいです! 私もこんな彼氏が欲しいです』

 私はそれを見て、飛び上がるほどに興奮した。私の世界を、初めて、誰かと共有できた。私の理想の彼を、他の誰かも、好きだと思ってくれた。あの日の私と同じように。私にとっての王子様のように。他の誰かに、あの感情を、伝えられたら。
 それから私は小説を書き続けた。相変わらず読者数は全然伸びなかったけれど、それでも良かった。あの頃の私と同じ思いをしている人に、届けばいい。
 他の誰に理解されなくても。あなただけの世界がある。あなたの瞼の裏にだけ、あなたに見えるものがある。それがきっと、あなたを強くする。今日を生きる理由になる。

 さあ、目を閉じて。
 瞼の裏の恋人に、会いに行こう。
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