あなたのことが好きだから
「好きです。付き合ってください!」
野球部らしい坊主頭を下げた俺に、クラスメイトの木村明日香は少しの間沈黙して、照れた様子もなく「いいよ」と言った。
高校生の興味のあるものなんて、限られている。特に男子高校生なんて、半分以上は女のことを考えているんじゃないだろうか。俺、高橋隼人も例にもれず、高校生になったからには彼女を作って青春したいという夢を持っていた。
ところが、だ。一年生の間は、慣れない部活動がキツすぎて、あまり恋愛に取れるような時間がなかった。それでも果敢にマネージャーや先輩やコンビニのお姉さんにチャレンジしてみたりしたが、言うまでもなく玉砕した。まだ身長も低く、ダサイ坊主頭で顔にそばかすを作っているような男にはハードルが高かったようだ。同級生でレベルの高い女子は、早々にイケメンが持っていった。こうなれば、残りから選ぶしかない。
二年生になり、勉強にも部活にも余裕ができた頃。俺は本格的に彼女作りに力を入れることにした。高望みはもうやめだ。接点がそれなりにあって、あんまり男といるところを見なくて、見た目が地味なやつ。
俺は学んだ。第一印象で好意を持たれるほどの顔面がないと、接点の少ない女子とお近づきになるのは無理だ。声をかけた時点で警戒される。となれば、一番手近なのはクラスメイトだ。
クラスの女子はいくつかのグループに分かれている。カースト上位のグループは無理だ。ほとんど彼氏がいる。男と仲が良すぎるグループも無理だ。一見話しかけやすそうに見えるが、友達以上になるのが難しい。あまりべたべたしているグループも無理だ。話しかける隙がないし、あれやこれやと噂されて何もかも筒抜けになることが目に見えている。けどぼっちもダメだ。妥協した感が強すぎるし、俺まで変に思われるかもしれない。
ない頭を使って昼休憩中のクラスメイトを観察していると、一人の女子が教室から出ていくのが見えた。俺はそれを目で追って、椅子から立ち上がった。
「木村!」
廊下で呼びかけると、前を歩いていた木村が振り返った。
「なに?」
「あ、えっと……木村、日直だよな?」
「うん。だから次の準備に行くんだけど」
急いでるから早くして、と言外に匂わされて一瞬怯むも、これは都合がいい。日直にかこつけて何か用事でも頼もうかと思っていたが、意図せず予定を聞き出せた。
「手伝うよ」
「……なんで?」
「え、あ、や、ほら。次、世界史だろ? 荷物多いしさ、女子一人じゃ大変だろ」
「別にそんなに多くないけど」
「いいからいいから」
押し切る形で、俺は一緒に資料室に行くことに成功した。
木村明日香。見た目は中の中、成績は中の上。部活は美術部で、おとなしく目立たない。ゆるい文系女子のグループに属しており、たまに一人でいるところも見る。男がいるとは思えないし、男慣れしているようにも見えない。このくらいなら、ちょうどいいだろう。
打算的な考えだが、俺はとにかく彼女が欲しかった。
「木村って世界史得意?」
「得意ってほどじゃないけど……普通かな」
「俺苦手なんだよな~。この前の小テストなんか二十点でさ、定期テストじゃないから部活には影響なかったけど、このままだと試合やばいって」
「ああ……運動部は定期テスト赤点だと、試合出られないんだっけ?」
「そうそう。でも野球部の先輩も馬鹿ばっかだからさ、わかんねぇとこ聞いても、誰も教えらんねぇの」
ここからが本題だ。俺は緊張を気づかれないように、平静を装って声を出した。
「良かったら木村、勉強教えてくんない?」
俺の提案に、木村は軽く眉を顰めた。さっそくダメージを食らうが、このくらいでへこたれていられない。だてに何度も玉砕してきていない。
「なんで、私?」
「木村頭いいじゃん」
「頭がいい、友達に頼めば」
「俺の友達に頭いいやつなんかいるかよ~。な、頼む!」
手を合わせて頭を下げる。木村のようなやつは、押しに弱いはずだ。断る労力より、とりあえず引き受けてしまう。
俺の予想通り、とまどいながらも頷いた木村に、俺は内心ほくそ笑んだ。
そこからの展開は早かった。一緒に勉強をするという口実を得た俺は、木村との距離をぐいぐい詰めた。あまり時間はかけていられない。三ヶ月ルールというものがあるらしい。三ヶ月もたつと、『友達』などの関係性にカテゴライズされてしまい、そこから恋愛対象に持っていくのは難しいそうだ。つまり、初動が勝負となる。そうでなくとも、高校生の青春は短い。学生恋愛を謳歌したいのなら、むしろ三ヶ月もかけていられない。
だから俺は積極的に話しかけて、目的が曖昧にならないように勉強もちゃんと教わって、無事定期テストで赤点を回避した後、木村に告白をした。
「好きです。付き合ってください!」
特に好きだという感情はなかった。けれど、俺のようなタイプに小手先のテクニックは使えない。直球勝負でいくしかない。それに、暫く一緒にいるうちに、木村のことはなかなか悪くない女だと思い始めていた。よく見れば可愛いと言えなくもないし、控えめな態度で俺の意見を優先してくれるし、簡単に押し切れそうな雰囲気がある。彼女になってくれれば、好きになれる気がする。
彼女が欲しい。とにかく、彼女が欲しい。高校生のうちに、色々したい。青春は今しかないのだ。
必死の思いで頭を下げる俺を、木村は感情の読めない顔で見ていた。それは今まで俺をあしらったお姉さんとも、嫌悪を示したマネージャーとも、馬鹿にした美人な先輩とも違っていた。俺は焦りから、じんわりと手に汗をかいた。
なんでだ。喜ぶと思ったのに。そうでなくとも、少しくらい照れたりとか、動揺したりとか。どう見たって木村は男にモテそうにない。告白に慣れてなんかいないはずだ。だったら、相手が俺でも、告白されたら嬉しいだろ。
期待した反応と違うことに、苛立ちすら覚えていた。しかし、ここで追撃するわけにはいかない。じりじりと返事を待っていると、木村が小さく口を開いた。
「いいよ」
肯定の返答に、俺は隠すことなく拳を握って「よっしゃー!」と声を上げた。できれば「私も好き」みたいな返答が聞きたかったが、高望みはすまい。とにかく、彼女だ。彼女ができた!
俺はすっかり浮かれていて、木村がどういう顔をしているのかは気にしなかった。
「えっ高橋カノジョできたの!?」
「マジかよ~! お前だけはぜってーないと思ってたのに!」
「いやぁ~、俺にかかればこんなもんスよ!」
部活終わりに着替えながら、先輩にまで羨ましがられて、俺は鼻高々だった。彼女がいるということは一種のステータスだ。自慢しない手はない。
着替えが終わってもあれやこれやと聞かれながら校門に向かうと、木村が待っているのが見えた。
「あ、すんません! 彼女が待ってるんで、ここで!」
「くっそお前、これみよがしに!」
ヤジを受けながらも、俺は木村に駆け寄った。
「お待たせ、明日香。帰ろっか」
「うん」
明日香。これは、付き合い始めた日にすぐ許可を貰った。なんせ彼女だ。他とは違う呼び方をしたい。俺だけが特別なのだという実感が欲しかった。
「悪いな、帰り待たせて」
「ううん、私の部活がある日だけだし」
野球部の終わりは遅い。さすがに毎日待たせるのは申し訳ないので、月水金の美術部の活動がある日だけ一緒に帰ることにした。
朝練があるから朝も一緒に登校できないが、同じクラスなので話すチャンスはいくらでもあるし、昼食も一緒に食べられる。これからは休日に一緒に出かけてもいい。今後を考えると、俺は顔がニヤけた。
いかんいかんと首を振って邪念を払うと、木村が大きめの荷物を持っていることに気づいた。
「あれ? 朝そんなん持ってたっけ」
「ちょっと週末に進めたい作業があって。画材持って帰ることにしたの」
「へー」
週末に作業したい、ということは遊びに誘うのはダメだろうか。言うだけ言ってみようか、でもまだ付き合い始めてすぐだし、と思いながら、俺は自分の鞄を背負い直して手を出した。
「ん」
「え?」
木村は目をしばたたかせて、自分の手を重ねた。
「ばっちっげーよ! 荷物!」
「あ、そっか」
木村はすぐに手を引っこめた。どうやら、手を繋ごうとした、と思われたらしい。反射的に訂正してしまったが、黙っていたら手を繋いで帰れたんじゃないだろうか。くそう。
「ありがとう」
はにかんだように礼を言う木村は、可愛く見えた。思わずどきりとする。
「体力だけは自信があるからな」
「だけ、じゃだめでしょ高校生」
「うっせ」
照れ隠しの軽口に、笑いまじりで返されて、そのまま会話が続いていく。
ああ、やっぱ、いいな。木村と話すのは、なんか落ち着く。
彼女を作るために色々勉強したが、なかなかうまくいかなかった。木村と話す時は、あれこれ頭を使わなくても、普通に話せる気がする。
結構いいチョイスしたんじゃねぇの、なんて。俺は浮かれていた。
明日香との付き合いは順調だったと思う。不純な動機で告白したものの、明日香と俺の相性は結構良かったんじゃないだろうか。付き合ってみれば可愛い面も多々見えて、俺の「好きになれそう」という予感は当たっていた。
明日香で経験を積んだ俺は、もうワンランク上の女が狙えるんじゃないか、とちらっと邪心が過ぎったこともあった。ダメだった。結果として未遂で終わったので浮気にはならなかったが、俺は反省し、二度と浮気はしないと誓った。もちろん、明日香はこのことを知らない。
進路を決める時期になって、当然のように俺は明日香と同じ大学へ進学するつもりでいた。しかし、学力が違い過ぎた。さすがに俺のために志望校を下げてくれとは言えない。だからせめて、会える範囲の大学にしようと決めた。
「明日香は地元の大学に進学するんだよな?」
「うん、そのつもり」
「じゃぁ俺も実家から通えるところで適当に決めるかー」
同棲も夢ではあったが、地元の大学に進学するなら、わざわざ一人暮らしというのも変だろう。俺の実家はそれほど裕福ではないし、通える範囲なのに仕送りをしてくれとは言えない。
今までと大して変わらない日々が続くのなら、それも悪くない、と思った。
変わらない日々を過ごして、大学にも何とか合格し、卒業式を終えて。
明日香は、姿を消した。
***
『別れよう。今までありがとう、楽しかった。さよなら』
それだけのメッセージを残し、後は全てブロックされた。全く連絡が取れず、しびれを切らして実家に行くと、既に引っ越した後だった。引っ越し先までは教えてもらえなかったが、どうやら上京したらしい。
地元の大学に進学すると言っていたのに。あれは嘘だったのか。どうして。まとまらない考えが、ぐるぐると頭を巡る。
「ッあーーーーー!!」
イライラして、頭をかきむしった。野球部を引退してから坊主にする必要性がなくなり、伸びた髪がぐしゃぐしゃと絡まる。
もう、いいじゃないか。追いすがってまで取り戻したいほどの女じゃないだろ。向こうが一方的に切ってきたんだ。このまま忘れてしまえばいい。
大学に入学したら、今よりずっと出会う女は増える。俺ももう野球小僧じゃない。背も髪も伸びたし、昔よりはモテるはずだ。
ちらつく影を振り切って、俺は大学生活に思いを馳せた。
はずだった。
「…………」
仏頂面で、俺は東京の大学の前にいた。
春休みの間、俺は大学デビューに向けて色々忙しかった。美容院に行ったりとか、服を買いこんだりとか。その甲斐あって大学デビューは成功し、大量のサークル勧誘を乗り越え、テニスサークルなんていかにもな飲みサーに入った。友達もたくさんできたし、新歓ではなんと女にモーションをかけられた。そのままいい感じになれるかと思ったが、ダメだった。根本的なところで、俺は野球小僧のままだったのだ。何人もの女と交流して、気づいた。俺があんなに自然体で話せた女は、明日香だけだったことに。そしてそれは、俺の努力ではなく、明日香の力だったということに。
逃した魚は大きい。とまでは言わないが、なんだかんだで明日香を思い出すことが多くなり、悩むのが面倒になった俺は明日香を探すことにした。探すと言っても、そんなに難しいことじゃない。高校時代の友達を辿って、明日香の進学先を突き止めた。どこに住んでいるのか、いつ授業を受けているのかまではわからないので、朝から大学の前で張っていることにした。
「……隼人くん?」
耳に馴染む柔らかな声。視線を向けて、俺は一瞬息が詰まった。ストレートだった髪はゆるく巻かれていて、薄く化粧をしていた。服装は上品で女性らしく、膝丈のスカートが風に揺れる。俺の大学デビューなんて目じゃない。こいつ、こんなに、可愛かったっけ。
「……久しぶり」
うまく感情が処理できなくて、不愛想な声が出てしまった。それでも明日香は、困った様子を見せるでもなく、ただ微笑んだ。
「どうしたの?」
「どうしたのはなくね? あんな別れ方しておいてさ」
「ごめんね」
大して思ってもいなさそうな軽い謝罪に、俺は口をへの字に曲げた。
「授業終わったら、話したいんだけど」
「んー……いいよ、今から話そう」
「授業あるんじゃねぇの?」
「一回くらい大丈夫」
明日香の言葉に俺は驚いた。彼女は真面目で、とても授業をサボったりするようなタイプじゃなかった。大学生になって変わってしまったのか、それとも。
まだ時間も早く、周辺の店も開いていない。俺たちは自販機で飲み物を買って、大学構内のベンチに座った。明日香はホットミルクティーの蓋を開けずに、手を温めるように両手で握っていた。
俺がなんと切り出すか迷っていると、明日香の方から口火を切った。
「どうして会いに来たの?」
「……そりゃ、来るだろ。あんな一方的に別れるとか言われて、納得できるかよ」
「惜しむほど、私に執着してなかったでしょ。大学で彼女ができなかった?」
からかうような口調に、俺はむっとした。あながち間違っていないので、余計に。
「はぐらかすなよ。俺は、別れた理由を聞きに来たの。俺なんかした?」
思い返しても、何かをした記憶はない。けれど、もしかしたら明日香には不満があったのかもしれない。そうだとしたら、言って欲しい。言われなければわからない。察することは、得意じゃないのだ。
「何もしてないよ。私が、もういいかなって思ったの」
「いいかなって何だよ」
「もうおしまい、ってこと。いいじゃない。隼人くん、私のこと別に好きじゃなかったでしょ?」
俺は息を呑んだ。そりゃ、確かに、告白した時は嘘だったけど。それでも、付き合う中で、俺はちゃんと明日香のことを好きになった。それは伝わっていると思っていたのに。
傷ついた俺は、訂正するのではなく、傷つけ返すことを選んでしまった。
「明日香だって、俺のこと、そんなに好きじゃなかっただろ」
俺が告白した時、明日香は喜ばなかった。別に、俺のことを好きだったわけじゃないはずだ。断れなかったから受け入れた、それだけ。だったら、もういいという言葉も納得だ。付き合いきれなくなったのだろう。
けれど、明日香は傷ついたような顔をしていた。
「だったら、お互い、これ以上話すこともないよね。改めてお別れってことで。ばいばい」
明日香が席を立とうとした。思わず手を掴んで、引き留める。
「いや、そうじゃ、ねぇんだって!」
馬鹿か俺は。何しに来たんだ。明日香を、取り戻しに来たんだろ。
「俺は、ちゃんと明日香のこと好きだったよ!」
明日香が、驚いたように目を丸くした。
「そりゃ、白状すると、告白した時はそうでもなかったよ。でも明日香と付き合って、本当に好きになった。だからずっと一緒にいたかったし、いられると思ってた。俺がなんかしたなら、謝るよ。嫌なとこがあるなら、できるだけ、直すから。言えよ。なんも言わずに消えるなよ。俺どうしようもねぇじゃん」
縋るような言葉に、情けなさから俯いてしまう。でも、他にどうしようもない。俺は、捨てられた側なのだから。
「……そういう、まっすぐなところ、好きだったよ」
明日香の言葉に、顔を上げる。明日香は、泣きそうな顔で微笑んでいた。
「私を呼ぶ時、絶対名前で呼んでくれるところとか。いつも荷物持ってくれるところとか。美味しい物食べると、必ず一口くれようとするところとか。負けず嫌いなところとか。下心が隠せないところとか」
後半は悪口じゃねぇの、と思いながら、俺は黙って聞いていた。明日香は付き合っている間、俺に好きだと言ってくれたことはなかった。
「そういうところ、好きだった」
「なら、なんで」
「好きになったから、別れたの」
は? と俺は言葉を失った。
「告白してきた時、私のこと好きじゃないのはわかってた。だからOKしたの。お互い好きじゃないから、傷つけあうこともないと思った。ちょうどよく、私の寂しさを埋めてくれるんじゃないかって。私にとって、都合が良かったの」
告白を受けてくれた理由を、初めて知った。付き合い始めた頃に聞いていたら怒ったかもしれないが、今はどうでもいい。明日香の寂しさを俺が埋められていたのなら、嬉しいとさえ思う。
「でも付き合っていく内に、隼人くんのこと好きになった。好きになったら、怖くなった。私なんかに付き合わせていることに。私なんかじゃ、隼人くんのこと幸せにはできない。だから別れたの」
意味がわからなかった。だって告白したのは俺の方からなのに。なんで、明日香が付き合わせている、なんて。
「それ、俺の気持ちは置き去りじゃん。俺が、明日香とじゃ幸せになれないなんて、言った?」
「だって、隼人くん、告白の後は一度も好きだって言わなかったから。結局、私は練習台だったのかなって。女の子は、他の女の子のお墨付き、好きだもんね。それでも良かった。隼人くんを幸せにしてくれる、素敵な彼女ができるなら」
言われて、俺は初めて気づいた。明日香だけじゃない、俺だって一度も好きだと言っていなかった。告白の時は好きではなかったのだから、あれはノーカンだろう。これは、俺が気持ちを口にしてこなかったことの結果なのだ。
「さっきも言ったけど、俺は明日香のこと好きだよ。今まで、ちゃんと言葉にしなかったのは……ごめん。でもそれは明日香もだし、お互いさまってことでさ。ちゃんと両想いだったんだから、これからは何も気にすることないだろ」
俺の言葉に、明日香は首を振った。
「好きな人には、幸せになってほしいの。私、こんなだから。隼人くんのこと、不幸にする。今だって、わざわざこんなところまで来させて、こんな面倒なこと言って。もう振り回したくないの。だからごめん、帰って」
俺は大きく溜息を吐いた。確かに、面倒だ。なんで俺がここまでしないといけないんだ。勝手が過ぎる。
それでも。明日香がいい、と思ったから、俺はわざわざこんなところまで来たのだ。
「好きだよ」
泣き出す寸前の目と、視線を合わせる。
「俺は、明日香が好きだよ。不幸にするってんなら、俺だって大概だけどさ。明日香が隣にいてくれたら、俺はちょっとだけマシな男になれるから。俺のためにも、一緒にいてよ」
「でも」
「俺が、こう言ってるの。俺のことは俺が一番わかってる。俺の幸せについてなら、明日香より俺の言うことが正しい」
明日香が黙った。それを見て、俺は明日香を抱きしめた。久しぶりの感触だ。懐かしい、温かい、柔らかい。見た目は少し変わったけれど、香りは変わっていなかった。明日香だ。やっと、彼女に会えた気がした。
「――好きです。俺と、付き合ってください」
あの日の告白を、やり直そう。今度は、ちゃんと心から出た言葉だ。今度こそ。最初から、大切にしてみせるから。
腕の中で、明日香が泣き出した。
「返事くれないと俺帰れねーんだけどぉ」
あごで頭をぐりぐりと押すと、明日香が軽く笑った。
「私も、好きです。よろしくお願いします」
あの日望んだ答えに、俺は満足げに笑って、キスを一つ落とした。
野球部らしい坊主頭を下げた俺に、クラスメイトの木村明日香は少しの間沈黙して、照れた様子もなく「いいよ」と言った。
高校生の興味のあるものなんて、限られている。特に男子高校生なんて、半分以上は女のことを考えているんじゃないだろうか。俺、高橋隼人も例にもれず、高校生になったからには彼女を作って青春したいという夢を持っていた。
ところが、だ。一年生の間は、慣れない部活動がキツすぎて、あまり恋愛に取れるような時間がなかった。それでも果敢にマネージャーや先輩やコンビニのお姉さんにチャレンジしてみたりしたが、言うまでもなく玉砕した。まだ身長も低く、ダサイ坊主頭で顔にそばかすを作っているような男にはハードルが高かったようだ。同級生でレベルの高い女子は、早々にイケメンが持っていった。こうなれば、残りから選ぶしかない。
二年生になり、勉強にも部活にも余裕ができた頃。俺は本格的に彼女作りに力を入れることにした。高望みはもうやめだ。接点がそれなりにあって、あんまり男といるところを見なくて、見た目が地味なやつ。
俺は学んだ。第一印象で好意を持たれるほどの顔面がないと、接点の少ない女子とお近づきになるのは無理だ。声をかけた時点で警戒される。となれば、一番手近なのはクラスメイトだ。
クラスの女子はいくつかのグループに分かれている。カースト上位のグループは無理だ。ほとんど彼氏がいる。男と仲が良すぎるグループも無理だ。一見話しかけやすそうに見えるが、友達以上になるのが難しい。あまりべたべたしているグループも無理だ。話しかける隙がないし、あれやこれやと噂されて何もかも筒抜けになることが目に見えている。けどぼっちもダメだ。妥協した感が強すぎるし、俺まで変に思われるかもしれない。
ない頭を使って昼休憩中のクラスメイトを観察していると、一人の女子が教室から出ていくのが見えた。俺はそれを目で追って、椅子から立ち上がった。
「木村!」
廊下で呼びかけると、前を歩いていた木村が振り返った。
「なに?」
「あ、えっと……木村、日直だよな?」
「うん。だから次の準備に行くんだけど」
急いでるから早くして、と言外に匂わされて一瞬怯むも、これは都合がいい。日直にかこつけて何か用事でも頼もうかと思っていたが、意図せず予定を聞き出せた。
「手伝うよ」
「……なんで?」
「え、あ、や、ほら。次、世界史だろ? 荷物多いしさ、女子一人じゃ大変だろ」
「別にそんなに多くないけど」
「いいからいいから」
押し切る形で、俺は一緒に資料室に行くことに成功した。
木村明日香。見た目は中の中、成績は中の上。部活は美術部で、おとなしく目立たない。ゆるい文系女子のグループに属しており、たまに一人でいるところも見る。男がいるとは思えないし、男慣れしているようにも見えない。このくらいなら、ちょうどいいだろう。
打算的な考えだが、俺はとにかく彼女が欲しかった。
「木村って世界史得意?」
「得意ってほどじゃないけど……普通かな」
「俺苦手なんだよな~。この前の小テストなんか二十点でさ、定期テストじゃないから部活には影響なかったけど、このままだと試合やばいって」
「ああ……運動部は定期テスト赤点だと、試合出られないんだっけ?」
「そうそう。でも野球部の先輩も馬鹿ばっかだからさ、わかんねぇとこ聞いても、誰も教えらんねぇの」
ここからが本題だ。俺は緊張を気づかれないように、平静を装って声を出した。
「良かったら木村、勉強教えてくんない?」
俺の提案に、木村は軽く眉を顰めた。さっそくダメージを食らうが、このくらいでへこたれていられない。だてに何度も玉砕してきていない。
「なんで、私?」
「木村頭いいじゃん」
「頭がいい、友達に頼めば」
「俺の友達に頭いいやつなんかいるかよ~。な、頼む!」
手を合わせて頭を下げる。木村のようなやつは、押しに弱いはずだ。断る労力より、とりあえず引き受けてしまう。
俺の予想通り、とまどいながらも頷いた木村に、俺は内心ほくそ笑んだ。
そこからの展開は早かった。一緒に勉強をするという口実を得た俺は、木村との距離をぐいぐい詰めた。あまり時間はかけていられない。三ヶ月ルールというものがあるらしい。三ヶ月もたつと、『友達』などの関係性にカテゴライズされてしまい、そこから恋愛対象に持っていくのは難しいそうだ。つまり、初動が勝負となる。そうでなくとも、高校生の青春は短い。学生恋愛を謳歌したいのなら、むしろ三ヶ月もかけていられない。
だから俺は積極的に話しかけて、目的が曖昧にならないように勉強もちゃんと教わって、無事定期テストで赤点を回避した後、木村に告白をした。
「好きです。付き合ってください!」
特に好きだという感情はなかった。けれど、俺のようなタイプに小手先のテクニックは使えない。直球勝負でいくしかない。それに、暫く一緒にいるうちに、木村のことはなかなか悪くない女だと思い始めていた。よく見れば可愛いと言えなくもないし、控えめな態度で俺の意見を優先してくれるし、簡単に押し切れそうな雰囲気がある。彼女になってくれれば、好きになれる気がする。
彼女が欲しい。とにかく、彼女が欲しい。高校生のうちに、色々したい。青春は今しかないのだ。
必死の思いで頭を下げる俺を、木村は感情の読めない顔で見ていた。それは今まで俺をあしらったお姉さんとも、嫌悪を示したマネージャーとも、馬鹿にした美人な先輩とも違っていた。俺は焦りから、じんわりと手に汗をかいた。
なんでだ。喜ぶと思ったのに。そうでなくとも、少しくらい照れたりとか、動揺したりとか。どう見たって木村は男にモテそうにない。告白に慣れてなんかいないはずだ。だったら、相手が俺でも、告白されたら嬉しいだろ。
期待した反応と違うことに、苛立ちすら覚えていた。しかし、ここで追撃するわけにはいかない。じりじりと返事を待っていると、木村が小さく口を開いた。
「いいよ」
肯定の返答に、俺は隠すことなく拳を握って「よっしゃー!」と声を上げた。できれば「私も好き」みたいな返答が聞きたかったが、高望みはすまい。とにかく、彼女だ。彼女ができた!
俺はすっかり浮かれていて、木村がどういう顔をしているのかは気にしなかった。
「えっ高橋カノジョできたの!?」
「マジかよ~! お前だけはぜってーないと思ってたのに!」
「いやぁ~、俺にかかればこんなもんスよ!」
部活終わりに着替えながら、先輩にまで羨ましがられて、俺は鼻高々だった。彼女がいるということは一種のステータスだ。自慢しない手はない。
着替えが終わってもあれやこれやと聞かれながら校門に向かうと、木村が待っているのが見えた。
「あ、すんません! 彼女が待ってるんで、ここで!」
「くっそお前、これみよがしに!」
ヤジを受けながらも、俺は木村に駆け寄った。
「お待たせ、明日香。帰ろっか」
「うん」
明日香。これは、付き合い始めた日にすぐ許可を貰った。なんせ彼女だ。他とは違う呼び方をしたい。俺だけが特別なのだという実感が欲しかった。
「悪いな、帰り待たせて」
「ううん、私の部活がある日だけだし」
野球部の終わりは遅い。さすがに毎日待たせるのは申し訳ないので、月水金の美術部の活動がある日だけ一緒に帰ることにした。
朝練があるから朝も一緒に登校できないが、同じクラスなので話すチャンスはいくらでもあるし、昼食も一緒に食べられる。これからは休日に一緒に出かけてもいい。今後を考えると、俺は顔がニヤけた。
いかんいかんと首を振って邪念を払うと、木村が大きめの荷物を持っていることに気づいた。
「あれ? 朝そんなん持ってたっけ」
「ちょっと週末に進めたい作業があって。画材持って帰ることにしたの」
「へー」
週末に作業したい、ということは遊びに誘うのはダメだろうか。言うだけ言ってみようか、でもまだ付き合い始めてすぐだし、と思いながら、俺は自分の鞄を背負い直して手を出した。
「ん」
「え?」
木村は目をしばたたかせて、自分の手を重ねた。
「ばっちっげーよ! 荷物!」
「あ、そっか」
木村はすぐに手を引っこめた。どうやら、手を繋ごうとした、と思われたらしい。反射的に訂正してしまったが、黙っていたら手を繋いで帰れたんじゃないだろうか。くそう。
「ありがとう」
はにかんだように礼を言う木村は、可愛く見えた。思わずどきりとする。
「体力だけは自信があるからな」
「だけ、じゃだめでしょ高校生」
「うっせ」
照れ隠しの軽口に、笑いまじりで返されて、そのまま会話が続いていく。
ああ、やっぱ、いいな。木村と話すのは、なんか落ち着く。
彼女を作るために色々勉強したが、なかなかうまくいかなかった。木村と話す時は、あれこれ頭を使わなくても、普通に話せる気がする。
結構いいチョイスしたんじゃねぇの、なんて。俺は浮かれていた。
明日香との付き合いは順調だったと思う。不純な動機で告白したものの、明日香と俺の相性は結構良かったんじゃないだろうか。付き合ってみれば可愛い面も多々見えて、俺の「好きになれそう」という予感は当たっていた。
明日香で経験を積んだ俺は、もうワンランク上の女が狙えるんじゃないか、とちらっと邪心が過ぎったこともあった。ダメだった。結果として未遂で終わったので浮気にはならなかったが、俺は反省し、二度と浮気はしないと誓った。もちろん、明日香はこのことを知らない。
進路を決める時期になって、当然のように俺は明日香と同じ大学へ進学するつもりでいた。しかし、学力が違い過ぎた。さすがに俺のために志望校を下げてくれとは言えない。だからせめて、会える範囲の大学にしようと決めた。
「明日香は地元の大学に進学するんだよな?」
「うん、そのつもり」
「じゃぁ俺も実家から通えるところで適当に決めるかー」
同棲も夢ではあったが、地元の大学に進学するなら、わざわざ一人暮らしというのも変だろう。俺の実家はそれほど裕福ではないし、通える範囲なのに仕送りをしてくれとは言えない。
今までと大して変わらない日々が続くのなら、それも悪くない、と思った。
変わらない日々を過ごして、大学にも何とか合格し、卒業式を終えて。
明日香は、姿を消した。
***
『別れよう。今までありがとう、楽しかった。さよなら』
それだけのメッセージを残し、後は全てブロックされた。全く連絡が取れず、しびれを切らして実家に行くと、既に引っ越した後だった。引っ越し先までは教えてもらえなかったが、どうやら上京したらしい。
地元の大学に進学すると言っていたのに。あれは嘘だったのか。どうして。まとまらない考えが、ぐるぐると頭を巡る。
「ッあーーーーー!!」
イライラして、頭をかきむしった。野球部を引退してから坊主にする必要性がなくなり、伸びた髪がぐしゃぐしゃと絡まる。
もう、いいじゃないか。追いすがってまで取り戻したいほどの女じゃないだろ。向こうが一方的に切ってきたんだ。このまま忘れてしまえばいい。
大学に入学したら、今よりずっと出会う女は増える。俺ももう野球小僧じゃない。背も髪も伸びたし、昔よりはモテるはずだ。
ちらつく影を振り切って、俺は大学生活に思いを馳せた。
はずだった。
「…………」
仏頂面で、俺は東京の大学の前にいた。
春休みの間、俺は大学デビューに向けて色々忙しかった。美容院に行ったりとか、服を買いこんだりとか。その甲斐あって大学デビューは成功し、大量のサークル勧誘を乗り越え、テニスサークルなんていかにもな飲みサーに入った。友達もたくさんできたし、新歓ではなんと女にモーションをかけられた。そのままいい感じになれるかと思ったが、ダメだった。根本的なところで、俺は野球小僧のままだったのだ。何人もの女と交流して、気づいた。俺があんなに自然体で話せた女は、明日香だけだったことに。そしてそれは、俺の努力ではなく、明日香の力だったということに。
逃した魚は大きい。とまでは言わないが、なんだかんだで明日香を思い出すことが多くなり、悩むのが面倒になった俺は明日香を探すことにした。探すと言っても、そんなに難しいことじゃない。高校時代の友達を辿って、明日香の進学先を突き止めた。どこに住んでいるのか、いつ授業を受けているのかまではわからないので、朝から大学の前で張っていることにした。
「……隼人くん?」
耳に馴染む柔らかな声。視線を向けて、俺は一瞬息が詰まった。ストレートだった髪はゆるく巻かれていて、薄く化粧をしていた。服装は上品で女性らしく、膝丈のスカートが風に揺れる。俺の大学デビューなんて目じゃない。こいつ、こんなに、可愛かったっけ。
「……久しぶり」
うまく感情が処理できなくて、不愛想な声が出てしまった。それでも明日香は、困った様子を見せるでもなく、ただ微笑んだ。
「どうしたの?」
「どうしたのはなくね? あんな別れ方しておいてさ」
「ごめんね」
大して思ってもいなさそうな軽い謝罪に、俺は口をへの字に曲げた。
「授業終わったら、話したいんだけど」
「んー……いいよ、今から話そう」
「授業あるんじゃねぇの?」
「一回くらい大丈夫」
明日香の言葉に俺は驚いた。彼女は真面目で、とても授業をサボったりするようなタイプじゃなかった。大学生になって変わってしまったのか、それとも。
まだ時間も早く、周辺の店も開いていない。俺たちは自販機で飲み物を買って、大学構内のベンチに座った。明日香はホットミルクティーの蓋を開けずに、手を温めるように両手で握っていた。
俺がなんと切り出すか迷っていると、明日香の方から口火を切った。
「どうして会いに来たの?」
「……そりゃ、来るだろ。あんな一方的に別れるとか言われて、納得できるかよ」
「惜しむほど、私に執着してなかったでしょ。大学で彼女ができなかった?」
からかうような口調に、俺はむっとした。あながち間違っていないので、余計に。
「はぐらかすなよ。俺は、別れた理由を聞きに来たの。俺なんかした?」
思い返しても、何かをした記憶はない。けれど、もしかしたら明日香には不満があったのかもしれない。そうだとしたら、言って欲しい。言われなければわからない。察することは、得意じゃないのだ。
「何もしてないよ。私が、もういいかなって思ったの」
「いいかなって何だよ」
「もうおしまい、ってこと。いいじゃない。隼人くん、私のこと別に好きじゃなかったでしょ?」
俺は息を呑んだ。そりゃ、確かに、告白した時は嘘だったけど。それでも、付き合う中で、俺はちゃんと明日香のことを好きになった。それは伝わっていると思っていたのに。
傷ついた俺は、訂正するのではなく、傷つけ返すことを選んでしまった。
「明日香だって、俺のこと、そんなに好きじゃなかっただろ」
俺が告白した時、明日香は喜ばなかった。別に、俺のことを好きだったわけじゃないはずだ。断れなかったから受け入れた、それだけ。だったら、もういいという言葉も納得だ。付き合いきれなくなったのだろう。
けれど、明日香は傷ついたような顔をしていた。
「だったら、お互い、これ以上話すこともないよね。改めてお別れってことで。ばいばい」
明日香が席を立とうとした。思わず手を掴んで、引き留める。
「いや、そうじゃ、ねぇんだって!」
馬鹿か俺は。何しに来たんだ。明日香を、取り戻しに来たんだろ。
「俺は、ちゃんと明日香のこと好きだったよ!」
明日香が、驚いたように目を丸くした。
「そりゃ、白状すると、告白した時はそうでもなかったよ。でも明日香と付き合って、本当に好きになった。だからずっと一緒にいたかったし、いられると思ってた。俺がなんかしたなら、謝るよ。嫌なとこがあるなら、できるだけ、直すから。言えよ。なんも言わずに消えるなよ。俺どうしようもねぇじゃん」
縋るような言葉に、情けなさから俯いてしまう。でも、他にどうしようもない。俺は、捨てられた側なのだから。
「……そういう、まっすぐなところ、好きだったよ」
明日香の言葉に、顔を上げる。明日香は、泣きそうな顔で微笑んでいた。
「私を呼ぶ時、絶対名前で呼んでくれるところとか。いつも荷物持ってくれるところとか。美味しい物食べると、必ず一口くれようとするところとか。負けず嫌いなところとか。下心が隠せないところとか」
後半は悪口じゃねぇの、と思いながら、俺は黙って聞いていた。明日香は付き合っている間、俺に好きだと言ってくれたことはなかった。
「そういうところ、好きだった」
「なら、なんで」
「好きになったから、別れたの」
は? と俺は言葉を失った。
「告白してきた時、私のこと好きじゃないのはわかってた。だからOKしたの。お互い好きじゃないから、傷つけあうこともないと思った。ちょうどよく、私の寂しさを埋めてくれるんじゃないかって。私にとって、都合が良かったの」
告白を受けてくれた理由を、初めて知った。付き合い始めた頃に聞いていたら怒ったかもしれないが、今はどうでもいい。明日香の寂しさを俺が埋められていたのなら、嬉しいとさえ思う。
「でも付き合っていく内に、隼人くんのこと好きになった。好きになったら、怖くなった。私なんかに付き合わせていることに。私なんかじゃ、隼人くんのこと幸せにはできない。だから別れたの」
意味がわからなかった。だって告白したのは俺の方からなのに。なんで、明日香が付き合わせている、なんて。
「それ、俺の気持ちは置き去りじゃん。俺が、明日香とじゃ幸せになれないなんて、言った?」
「だって、隼人くん、告白の後は一度も好きだって言わなかったから。結局、私は練習台だったのかなって。女の子は、他の女の子のお墨付き、好きだもんね。それでも良かった。隼人くんを幸せにしてくれる、素敵な彼女ができるなら」
言われて、俺は初めて気づいた。明日香だけじゃない、俺だって一度も好きだと言っていなかった。告白の時は好きではなかったのだから、あれはノーカンだろう。これは、俺が気持ちを口にしてこなかったことの結果なのだ。
「さっきも言ったけど、俺は明日香のこと好きだよ。今まで、ちゃんと言葉にしなかったのは……ごめん。でもそれは明日香もだし、お互いさまってことでさ。ちゃんと両想いだったんだから、これからは何も気にすることないだろ」
俺の言葉に、明日香は首を振った。
「好きな人には、幸せになってほしいの。私、こんなだから。隼人くんのこと、不幸にする。今だって、わざわざこんなところまで来させて、こんな面倒なこと言って。もう振り回したくないの。だからごめん、帰って」
俺は大きく溜息を吐いた。確かに、面倒だ。なんで俺がここまでしないといけないんだ。勝手が過ぎる。
それでも。明日香がいい、と思ったから、俺はわざわざこんなところまで来たのだ。
「好きだよ」
泣き出す寸前の目と、視線を合わせる。
「俺は、明日香が好きだよ。不幸にするってんなら、俺だって大概だけどさ。明日香が隣にいてくれたら、俺はちょっとだけマシな男になれるから。俺のためにも、一緒にいてよ」
「でも」
「俺が、こう言ってるの。俺のことは俺が一番わかってる。俺の幸せについてなら、明日香より俺の言うことが正しい」
明日香が黙った。それを見て、俺は明日香を抱きしめた。久しぶりの感触だ。懐かしい、温かい、柔らかい。見た目は少し変わったけれど、香りは変わっていなかった。明日香だ。やっと、彼女に会えた気がした。
「――好きです。俺と、付き合ってください」
あの日の告白を、やり直そう。今度は、ちゃんと心から出た言葉だ。今度こそ。最初から、大切にしてみせるから。
腕の中で、明日香が泣き出した。
「返事くれないと俺帰れねーんだけどぉ」
あごで頭をぐりぐりと押すと、明日香が軽く笑った。
「私も、好きです。よろしくお願いします」
あの日望んだ答えに、俺は満足げに笑って、キスを一つ落とした。