創痕の花嫁と冥府の王
「そういうわけでな、ラビア、そなたに死の神、冥府の主クジャト神の花嫁になってもらうことにした」
腹違いの長兄がのほほんと言い放った言葉に公爵令嬢ラビアは文句を言うことも忘れて唖然とした。開いた口が塞がらないとはこのことである。何が「そういうわけで」だ、ふざけるな! 冥府神クジャトの花嫁とはつまるところ生贄、人身御供ではないか!
あまりに堂々とした「死んでくれ」発言に呆れて物も言えないラビアの反応をどうとらえたのか、長兄は手元の茶に非常識な量の砂糖をぶち込みながらぺらぺらと話を続ける。
「我らが父上が病床の身であらせられ、医者たちが懸命に看病しておるのは知っての通りだ。おりしも明日は年に一度、冥府の神に特別の礼拝を捧げる日。父上の魂を冥府から遠ざけるようにクジャト神にお願い申し上げるには丁度良い機会だとは思わぬか? そして出来れば、その旨を直接クジャト神に奏上するのが良い。そなたにはその役目を頼みたいのだ」
花嫁衣装は用意してある、などと言いながら淡い桃色の絹で出来た豪奢な衣装を使用人に持ってこさせて長兄は丸い顔に満面の笑みを浮かべた。それを見た公爵家の末娘は、化粧で隠しきれない派手な傷のある左頬を覆って首を横に振り、ため息をついた。
(あんな大層なものをいつの間に。……つくづく私は蚊帳の外だ、妾腹の子だからと言われればそれまでだけど)
わくわくした表情で最高級の花嫁衣裳の感想を待っている兄を冷めた目で見つめて、公爵家の第5子ラビアはようやく第一声を発した。
「このことはティエナ姉さまも了承しているのですか?」
それは平素であれば鋭い指摘となって、次期当主の肩書を誇示する長兄の動きを鈍らせただろう。しかし彼は何食わぬ顔をして優雅にカップを持ち上げて中身をすする。その甘さを想像してラビアはすこし顔をしかめ、兄の返答を聞くと眉間の皺をいっそう深めた。
「ティエナは既に了承済みだ」
目論見は大きく外れた。次期当主の座を狙って長兄を追いやるべく日々策を弄する公爵家の第二子、長女ティエナの名が牽制にならないのでは、ラビアはこのまま大人しく冥府の主人、死の神クジャトへの生贄として死ぬしかない。何せ第三子の次兄はティエナ派だから頼りにならないし、唯一味方をしてくれる第四子の次女リパは軍人として昨年から地方の駐留部隊長をやっていて今すぐ頼ることができない。現当主である父親は重い病に臥せっていて、医師たちは言いたがらないが実際のところ危篤状態であるから、これをたよるなどもってのほかだ。
公爵家の末娘、妾腹の子であるラビアは奥歯をかみしめた。
(長兄殿も長女殿も、この家の当主の座を巡ってお互いを排除するより前に、確実に潰せるところから潰すことにしたわけだ。……なんという身勝手!)
ぶるぶると手が震え、脳みそが茹だるように熱い。気を抜けば持ち前の魔法で長兄に襲い掛かりそうだった。けれど血が出るほどに強く左手を拳に握って、いつかの母の姿を思い出すことでなんとかその衝動をこらえる。大きく深呼吸したラビアは掠れた声で「そうですか」とだけ返事して、出されていた甘ったるい香りの茶を一気に飲み干し長兄の部屋を後にした。
大きな傷のある顔に怒りをみなぎらせて、赤茶の髪をなびかせ自室に戻る彼女を分かりやすく避ける使用人はいるが、その怒りをなだめようとする者はいない。昔からのことだった。
国一番の貴族と謳われる公爵家のだだっ広い屋敷で、ラビアはほとんど一人きりだった。
10年前、公爵家の当主である父は第二夫人の妨害を押し切って何とかラビアとその母をこの屋敷に住まわせることに成功したが、ラビアの母の専属使用人になりたがる者はいなかった。世間の目を憚って第三夫人の肩書を貰えなかった元踊り子に仕えても出世が見込めない。それに、第一夫人を殺したという噂のある第二夫人がどんな嫌がらせをしてくるか分からない。結果、母親には数人の年老いた使用人があてがわれたが、幼いラビアの遊び相手としては不十分だった。
亡き第一夫人の息子として次期当主の座を持つ長兄が末の妹ラビアに構うことはほとんどなかった。次期当主の座を奪おうと躍起になる長女ティエナとそれを信奉する次兄は突然湧いて出た末妹に過敏に反応し、必要以上に彼女を敵視した。唯一、第四子リパだけが妾腹の子であるラビアの遊び相手になってくれた。
だがそれも昔のことだ。この屋敷に来て5年目に母は亡くなり、引きずられるように第二夫人も死んだ。聡明なリパは早々に実家に見切りをつけて軍人として宮廷に出仕する道を選んだ。母親の束縛から逃れた長女はより一層長兄との対立を深めた。平和ではあるがラビアはもうずっと独りだ。否、その平和もついさっき過ぎ去った。
(当主の座など欲しくも無いし、興味のある素振りを見せずにいたら安全かと思ったけど。父様譲りのこの魔力と、父様が倒れる前に私を可愛がっていたのが原因か……)
長兄と長女の争いは水面下のものだったが、現当主である父親はそれに気づき、表には出さないもののそれに辟易していた。だからこそ、彼らの対立にこれっぽっちも首を突っ込まない末娘のラビアをひどく可愛がった。そのうえ彼女は父親から強大な魔力を受け継いでいる。魔力は神からの授かりものであり、それが強ければ強いほど高貴であるとされる。それを考えれば、権力欲も警戒心も強い長兄たちがラビアを警戒するのも自然なことだった。
ラビアはため息をついて、傷のある頬を撫でながら自室の棚に積まれている神話を描いた巻物を引っ張り出す。
冥府の主、死の神クジャト。巨大な身体と4本の腕、黒い目に金の瞳を持ち、巨大な鎌を携えた美しい男神。神々の女王たる海神の弟。生まれてすぐに兄弟姉妹と共に牢屋に閉じ込められたが、彼らと共に反乱を起こし、生みの親である古き神々を殺して新たなる神話時代を築いたとされる強力無比なる神。そして、時に地上に「幸運をもたらす花嫁」を送り出すともいう。
そんなクジャト神の逸話を読むたび、彼女は手を止めて母の冥福を祈ったものだった。
(その私が、まさか生贄に選ばれるとは。とりあえずこういう時には……)
公爵家の末娘はぐるりと部屋を見渡し、自身の財産である宝石類の入った箱を開ける。決して数として多くはないアクセサリーの形をしたそれらを身に着けると、簡素な服に着替えて腰にナイフを装備した。
(逃げるのが最善! 他人を思い通りに操ろうとする人たちの言いなりなんぞになるもんですか)
父親と次女のリパ、それから使用人たちには恩があるが、自分に構いもしなかった兄たちに対して払うべき礼儀などない。
そうと決めたらラビアの行動は素早い。頬傷が少しでも隠れるように口元にスカーフを巻き、フード付きのマントをかぶった。
(宝石はスラムの質屋で銀貨に換えて資金にして、乗合馬車で王都を出て向かうなら……港町か。長兄殿たちが追っ手を出しても、人の出入りが激しい場所ならそう簡単には捕まらないはず。落ち着いたらリパ姉さまには手紙を出そう)
鏡に映った自分の顔を見つめ、左頬に走る刀傷をなぞる。
10年前までラビアは場末の踊り子だった母と共に、この王都の片隅のスラムで暮らしていた。だが、それを父親であるこの公爵家の当主が探しだし、貴族として暮らすことになったのだ。
貴族の暮らしはあまりラビアに馴染まなかった。第二夫人に遠慮していつも困ったように、あるいは哀しそうに笑う母を見るのが嫌だった。どんな悪漢もなぎ倒す、父親譲りの自慢の魔法は、平和な王都貴族街に住む人々にとって無用の長物どころか恐怖の対象だった。
(あとで髪も切って売ろう)
それだけ決めると、窓からだだっ広い庭園を見渡した。この昼時、警備はややゆるくなるし、使用人たちも忙しくしている。
ラビアは窓からそのまま外に出たが、窓枠の左右を掴んでいた手から力が抜けて地面に転がり落ちる。目を白黒させて立ち上がったが、バランスを崩してアラベスク模様のタイルが敷かれた床にへたり込んでしまう。視界が歪み、滲み、ぼやけ、すぐそこにあるはずの芝生を踏むことすらままならない。ラビアは顔をしかめて己のうかつさを呪った。
(しまった、長兄殿の部屋で出された茶に薬か何か入ってたのか! 多分、細工をされていたのはカップのほう)
立ち上がろうともがくが身体に力が入らず、冷たいタイルに頬をこすりつけてしまう。なんとか腕に力を込めて体を起こすことに成功するも、ついに意識が途切れて床の上に力なく倒れこんだ。
腹違いの長兄がのほほんと言い放った言葉に公爵令嬢ラビアは文句を言うことも忘れて唖然とした。開いた口が塞がらないとはこのことである。何が「そういうわけで」だ、ふざけるな! 冥府神クジャトの花嫁とはつまるところ生贄、人身御供ではないか!
あまりに堂々とした「死んでくれ」発言に呆れて物も言えないラビアの反応をどうとらえたのか、長兄は手元の茶に非常識な量の砂糖をぶち込みながらぺらぺらと話を続ける。
「我らが父上が病床の身であらせられ、医者たちが懸命に看病しておるのは知っての通りだ。おりしも明日は年に一度、冥府の神に特別の礼拝を捧げる日。父上の魂を冥府から遠ざけるようにクジャト神にお願い申し上げるには丁度良い機会だとは思わぬか? そして出来れば、その旨を直接クジャト神に奏上するのが良い。そなたにはその役目を頼みたいのだ」
花嫁衣装は用意してある、などと言いながら淡い桃色の絹で出来た豪奢な衣装を使用人に持ってこさせて長兄は丸い顔に満面の笑みを浮かべた。それを見た公爵家の末娘は、化粧で隠しきれない派手な傷のある左頬を覆って首を横に振り、ため息をついた。
(あんな大層なものをいつの間に。……つくづく私は蚊帳の外だ、妾腹の子だからと言われればそれまでだけど)
わくわくした表情で最高級の花嫁衣裳の感想を待っている兄を冷めた目で見つめて、公爵家の第5子ラビアはようやく第一声を発した。
「このことはティエナ姉さまも了承しているのですか?」
それは平素であれば鋭い指摘となって、次期当主の肩書を誇示する長兄の動きを鈍らせただろう。しかし彼は何食わぬ顔をして優雅にカップを持ち上げて中身をすする。その甘さを想像してラビアはすこし顔をしかめ、兄の返答を聞くと眉間の皺をいっそう深めた。
「ティエナは既に了承済みだ」
目論見は大きく外れた。次期当主の座を狙って長兄を追いやるべく日々策を弄する公爵家の第二子、長女ティエナの名が牽制にならないのでは、ラビアはこのまま大人しく冥府の主人、死の神クジャトへの生贄として死ぬしかない。何せ第三子の次兄はティエナ派だから頼りにならないし、唯一味方をしてくれる第四子の次女リパは軍人として昨年から地方の駐留部隊長をやっていて今すぐ頼ることができない。現当主である父親は重い病に臥せっていて、医師たちは言いたがらないが実際のところ危篤状態であるから、これをたよるなどもってのほかだ。
公爵家の末娘、妾腹の子であるラビアは奥歯をかみしめた。
(長兄殿も長女殿も、この家の当主の座を巡ってお互いを排除するより前に、確実に潰せるところから潰すことにしたわけだ。……なんという身勝手!)
ぶるぶると手が震え、脳みそが茹だるように熱い。気を抜けば持ち前の魔法で長兄に襲い掛かりそうだった。けれど血が出るほどに強く左手を拳に握って、いつかの母の姿を思い出すことでなんとかその衝動をこらえる。大きく深呼吸したラビアは掠れた声で「そうですか」とだけ返事して、出されていた甘ったるい香りの茶を一気に飲み干し長兄の部屋を後にした。
大きな傷のある顔に怒りをみなぎらせて、赤茶の髪をなびかせ自室に戻る彼女を分かりやすく避ける使用人はいるが、その怒りをなだめようとする者はいない。昔からのことだった。
国一番の貴族と謳われる公爵家のだだっ広い屋敷で、ラビアはほとんど一人きりだった。
10年前、公爵家の当主である父は第二夫人の妨害を押し切って何とかラビアとその母をこの屋敷に住まわせることに成功したが、ラビアの母の専属使用人になりたがる者はいなかった。世間の目を憚って第三夫人の肩書を貰えなかった元踊り子に仕えても出世が見込めない。それに、第一夫人を殺したという噂のある第二夫人がどんな嫌がらせをしてくるか分からない。結果、母親には数人の年老いた使用人があてがわれたが、幼いラビアの遊び相手としては不十分だった。
亡き第一夫人の息子として次期当主の座を持つ長兄が末の妹ラビアに構うことはほとんどなかった。次期当主の座を奪おうと躍起になる長女ティエナとそれを信奉する次兄は突然湧いて出た末妹に過敏に反応し、必要以上に彼女を敵視した。唯一、第四子リパだけが妾腹の子であるラビアの遊び相手になってくれた。
だがそれも昔のことだ。この屋敷に来て5年目に母は亡くなり、引きずられるように第二夫人も死んだ。聡明なリパは早々に実家に見切りをつけて軍人として宮廷に出仕する道を選んだ。母親の束縛から逃れた長女はより一層長兄との対立を深めた。平和ではあるがラビアはもうずっと独りだ。否、その平和もついさっき過ぎ去った。
(当主の座など欲しくも無いし、興味のある素振りを見せずにいたら安全かと思ったけど。父様譲りのこの魔力と、父様が倒れる前に私を可愛がっていたのが原因か……)
長兄と長女の争いは水面下のものだったが、現当主である父親はそれに気づき、表には出さないもののそれに辟易していた。だからこそ、彼らの対立にこれっぽっちも首を突っ込まない末娘のラビアをひどく可愛がった。そのうえ彼女は父親から強大な魔力を受け継いでいる。魔力は神からの授かりものであり、それが強ければ強いほど高貴であるとされる。それを考えれば、権力欲も警戒心も強い長兄たちがラビアを警戒するのも自然なことだった。
ラビアはため息をついて、傷のある頬を撫でながら自室の棚に積まれている神話を描いた巻物を引っ張り出す。
冥府の主、死の神クジャト。巨大な身体と4本の腕、黒い目に金の瞳を持ち、巨大な鎌を携えた美しい男神。神々の女王たる海神の弟。生まれてすぐに兄弟姉妹と共に牢屋に閉じ込められたが、彼らと共に反乱を起こし、生みの親である古き神々を殺して新たなる神話時代を築いたとされる強力無比なる神。そして、時に地上に「幸運をもたらす花嫁」を送り出すともいう。
そんなクジャト神の逸話を読むたび、彼女は手を止めて母の冥福を祈ったものだった。
(その私が、まさか生贄に選ばれるとは。とりあえずこういう時には……)
公爵家の末娘はぐるりと部屋を見渡し、自身の財産である宝石類の入った箱を開ける。決して数として多くはないアクセサリーの形をしたそれらを身に着けると、簡素な服に着替えて腰にナイフを装備した。
(逃げるのが最善! 他人を思い通りに操ろうとする人たちの言いなりなんぞになるもんですか)
父親と次女のリパ、それから使用人たちには恩があるが、自分に構いもしなかった兄たちに対して払うべき礼儀などない。
そうと決めたらラビアの行動は素早い。頬傷が少しでも隠れるように口元にスカーフを巻き、フード付きのマントをかぶった。
(宝石はスラムの質屋で銀貨に換えて資金にして、乗合馬車で王都を出て向かうなら……港町か。長兄殿たちが追っ手を出しても、人の出入りが激しい場所ならそう簡単には捕まらないはず。落ち着いたらリパ姉さまには手紙を出そう)
鏡に映った自分の顔を見つめ、左頬に走る刀傷をなぞる。
10年前までラビアは場末の踊り子だった母と共に、この王都の片隅のスラムで暮らしていた。だが、それを父親であるこの公爵家の当主が探しだし、貴族として暮らすことになったのだ。
貴族の暮らしはあまりラビアに馴染まなかった。第二夫人に遠慮していつも困ったように、あるいは哀しそうに笑う母を見るのが嫌だった。どんな悪漢もなぎ倒す、父親譲りの自慢の魔法は、平和な王都貴族街に住む人々にとって無用の長物どころか恐怖の対象だった。
(あとで髪も切って売ろう)
それだけ決めると、窓からだだっ広い庭園を見渡した。この昼時、警備はややゆるくなるし、使用人たちも忙しくしている。
ラビアは窓からそのまま外に出たが、窓枠の左右を掴んでいた手から力が抜けて地面に転がり落ちる。目を白黒させて立ち上がったが、バランスを崩してアラベスク模様のタイルが敷かれた床にへたり込んでしまう。視界が歪み、滲み、ぼやけ、すぐそこにあるはずの芝生を踏むことすらままならない。ラビアは顔をしかめて己のうかつさを呪った。
(しまった、長兄殿の部屋で出された茶に薬か何か入ってたのか! 多分、細工をされていたのはカップのほう)
立ち上がろうともがくが身体に力が入らず、冷たいタイルに頬をこすりつけてしまう。なんとか腕に力を込めて体を起こすことに成功するも、ついに意識が途切れて床の上に力なく倒れこんだ。
< 1 / 2 >