雷乙女と狼公の結婚 王子の元恋人が婚約破棄を3回食らった公爵と結婚するとこうなる

 バラント家の馬車に、その家の長女とフセルフセス家の当主が座っていた。
「フセルフセス公よ、どうしてあの場で拒否なさらなかったのですか。陛下といえど(こう)ほどの(かた)の言葉であればお聞き入れなさるでしょうに」
 トリエルノがため息をつくと、正面に座っていた公爵はニコリとあの子供っぽさのにじむ顔で笑う。癖のある長い髪と相まって、八重歯の覗くその姿は実際にあだ名の通り狼を思わせる。
 否、狼公(おおかみこう)というのはただのあだ名ではない。このディプス王国において、狼は建国神話に登場する勇猛かつ聡明な神獣である。それを呼称に冠するというのは、魔獣を前にしてひるむことなく人間相手に戦って現状負けなしのこの若く美しい公爵に対しての、周囲の人々からの畏怖と敬意の表れであった。
「嫌だったか? トリエルノ嬢」
「それはこちらの質問です」
「では答えるが、俺は嫌ではないぞ!」
 公爵は照れもせずに、実に堂々とした仕草と口ぶりで答えた。
「5年前の審議会で貴女が魔獣を相手にただ一人で大立ち回りして見せたと聞いた時点で、俺はあなたをどんな形であっても出来るだけ早く我が領に誘おうと決めていた。我が領にとって魔獣退治は一大任務、手数は多いに限る!」
「私をフセルフセス領に? 任官の誘いは喜ばしいですが、しかし公爵閣下、今回は夫婦になれと言われているんですよ?」
 トリエルノに言われると「同じことだ」と狼はまた笑う。
「フセルフセス領において、領主の伴侶は平時、領主名代として前線に立ち騎士たちと共に戦うことがその役目の一つになる。貴族という身分は民を背に守りながら魔獣と戦うことで成立した。それができねば貴族という立場はただ民を搾取するだけのモノに成り下がる」
 人懐っこい笑みは、王都貴族街のレンガ造りの街並みを眺めて語るうちに真面目腐った表情に塗り替わり、声もまた厳しさが滲む。
(……さすがに国内で唯一魔獣が出るダンジョンのおひざ元の領主は覚悟が違うというわけか)
 トリエルノはそんな狼公をじっと見据えて、提示された立場を吟味する。
「領主名代、ですか」
「そうだ。領主本人は領首府で書類仕事に追われるのでな、その代わりだ」
 なるほど、と彼女は座席の背もたれに体重を預けた。
 これまでのフセルフセス公爵の婚約破棄も、その立場に耐えかねてのことだったのだろうというのは容易に想像がついた。天下泰平のこの国で、戦わなくてはいけない場面は極めて稀であり、平素から戦う覚悟ができている貴族令嬢などほとんどいないのだ。
 それにな、とフセルフセス公は言う。
「あなたは審議会の間、証言台に立って国家重鎮王家のお歴々を前に、一つもひるまなかったと聞く。そして魔獣が出れば迷いなく外に飛び出してこれを撃退しに行った。俺はあなたのそういうところがとても好ましい」
 シルハーン・フセルフセスの言葉によどみは無い。
「……あなたはまだ殿下のことがその心の真ん中に置いているかもしれないが」
 狼は思慮深い目でルノー王子をたぶらかした悪女を見つめる。ただ傍若無人で粗野なだけでは辺境領を一つ預かることなどできないのだ。
 金色の狼の瞳に見つめられ、トリエルノは首を横に振った。
「自分でも薄情とは思うのですが、もうルノー殿下のことはあまり気にしておりません。5年も離れていたからかもしれませんが……」
 それが悪女の本心だった。狼はピンと背筋を伸ばし、目を丸くして彼女を見つめている。
「殿下との恋を大切に思い返す気持ちはあれど、よりを戻せれば、ということは考えていません。……浮気な女だと思います?」
「俺にはそれを言う気も権利もない。俺にも10年ほど前に恋人がいたからな、彼女は俺の最初の婚約者だった」
 シルハーンはいたずらっぽく笑って首をすくめ、何気ないふうに続ける。
「それがある日突然、新しくできた好きな男と駆け落ちすると言う。幼いころに親が取り付けた婚約だったが、俺は本気で彼女が好きだった。駆け落ちすると言われた当時はさすがにショックだったが、まあ半年も経てば平気になった」
「よく駆け落ちなど受け入れましたね」
 呆れつつも感心したようにトリエルノが言うと、婚約破棄を3回突きつけられた若き公爵は穏やかに笑う。
「俺への義理を通すため、わざわざ相手の男を伴って俺に面と向かって婚約破棄を言い渡したのだ。その覚悟を呑まぬほど俺は見苦しい男ではないよ」
 それに、とシルハーン・フセルフセス公爵は新しい婚約者に微笑みかけ、実に堂々とした声で言い切った。
「誰もが初恋の相手を大人になってまで愛し続けるわけではあるまい。それと同じことだ」
 シルハーンは淡々と言い切った。馬車は既にトリエルノの実家、バラント伯爵邸に到着していた。

***

「お父さま、早く姉さまを追放にでもなんにでもして! 姉さまがルノー王子をたぶらかしたせいで私も浮気者なんだろうなんて言われて私は2回も婚約破棄を食らったんだから!」
 バラント伯爵邸は騒がしかった。上階から聞こえてくる妹の怒鳴り声に、玄関ホールに立ったトリエルノは身をのけぞらせて顔をしかめる。その後ろに立つフセルフセス公が興味深そうに彼女の顔をのぞき込むと、バラント家の長女は肩をすくめた。
 末娘の激情に応えるバラント伯爵の声が近づいてくる。
「分かっている、私もアレには手を焼かされた。真面目なお前が被害を(こうむ)(よし)もない。だからこうして正式な書状を作った」
「姉さまが暴れて家を壊すから妹の私まで揶揄されて、貴族学校の初等部時代からどれだけ苦労したことか!」
「トリエルノが修道院に行ったおかげで我が家の信頼もガタ下がりだ。我が家の商取引にも影響があったからな。これ以上あの娘を我が家に置くにはいかん」
 怒りもあらわな父娘の声に、不意に朗々とした笑いが応えた。笑い声の主は階段の上から降りてくる二人組を見上げ、狼のような八重歯をのぞかせながら人懐っこい顔で笑って言った。
「なに、婚約破棄されたからと言って人生が終わるわけではない。このあいだ3回目を食らったばかりの俺が言うのだから本当だぞ」
 バラント伯爵家とその末娘は階下を見てぎょっとした。貴族の中の貴族、フセルフセス公爵が我が家の玄関にいるのだからその反応も当然だった。バラント家の長女は眉間にしわを刻みながらも、階段に立ち尽くす父に堂々とした声で問うた。
「私を廃嫡すると?」
 返事は重々しい「いかにも」だった。
「修道院行き、といえば穏やかに聞こえるが、平民でいうところの刑務所行きと同じ意味だ。そんな前科持ちを我が家に置いていてはバラント家の恥のみならず、妹にまで害が及ぶ」
 父親が一枚の書状を取り出した。
「故に、バラント家当主の名をもってここに宣言する。長女トリエルノを廃嫡……バラント家から除名とする」
 途端にトリエルノの顔から表情が抜け落ちた。それに気づいているのかいないのか、バラント家の家長は続ける。
「トリエルノ、お前は母方の祖父母からダズリン家の伯爵位を受け継いでいる。廃嫡しても貴族の地位はそのままだ。今後の生活には問題なかろう」
 差し出された書状は既に当主の署名と宰相府紋章官の署名が成され、既にその効力を発揮している。トリエルノがぐっと黙り込んだところで、その父が思い出したように客人に問うた。
「して……フセルフセス公爵閣下ほどのお方がなぜ当家に?」
「うむ、念のため貴殿に伺いをたてに来たのだ。実はこのたび陛下から」
 事情を説明しようとするが、それはトリエルノの鋭い声にさえぎられた。
「シルハーン・フセルフセス公よ、これ以上の問答は無用!」
 言うや否や、彼女はバラント家当主から書状をひったくって言い放った。
「今この瞬間より私はトリエルノ・ダズリン女伯爵! バラント家とは縁もゆかりもないただの女貴族。故に、こちらにいらっしゃるバラント家当主に私たちの結婚伺いをする必要はありますまい!」
 その場にいた者が揃って目を丸くした。バラント伯爵とその末娘は己の失策を自覚しながら。そしてシルハーン・フセルフセスは喜色満面にしながら。
「本当か、レディ・トリエルノ! 本当に我がフセルフセス領に来てくれるか」
「陛下の推薦ですから。断るのも恐れ多いことで」
 トリエルノが苦笑すると、我慢しきれないとばかりに、銀髪の巨漢は幼子にする「たかいたかい」の要領でひょいと彼女を抱き上げ人懐っこく笑い、良く通る声で言った。
「うむ、うむ、貴女のような方が伴侶とは心強い! さあ、善は急げだ。王宮に婚姻届けを提出次第さっそく我が領にご案内しよう」
 トリエルノは玄関の端に縮こまっていたメイドに自分の部屋から旅行カバンを持ってくるように頼む。運ばれてきた二つの地味なそれは、修道院に持っていき、荷解きされぬままになっていた。
 鞄の持ち主がそれを持ち上げるより前にフセルフセス公爵家の御者が鞄を抱えてさっさと馬車に積み込んでしまう。
 お騒がせした、とさわやかに笑ったフセルフセス公爵が伴侶を抱きかかえたまま、堂々とした足取りでバラント邸を出ていった。
「では、我が領についたら早速結婚式を挙げるぞ」
 嵐のように来て嵐のように去って行く人々を見つめ、バラント伯爵とその末娘は開いた口が塞がらない。フセルフセス公爵が屋敷に来た理由を聞くよりも前にトリエルノをバラント家から除名する書類を作り本人に提示してしまったばかりに、自分たちが貴族の中の貴族、国王からの信も厚い公爵家との縁を結び損ねたことを知りながら、唖然と若い夫婦の背を見送るしか無かった。
  
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