凄腕パイロットは12年越しの溢れる深愛を解き放つ

 伊織さん。伊織くん。伊織――。

 付き合い始めた頃、ひとりで呼ぶ練習をしたことがある。でもなんだか気恥ずかしくてタイミングを逃したら、半年経った今でも高科さん呼びのままだ。


「まあ、静菜らしいっちゃ、らしいけど」


 会社のビルに向かって歩きながら、もうすっかりクリスマスムードになった気配を感じる。等間隔で並ぶ木々にはいつの間にか電飾が巻き付いていて、帰宅するころにはイルミネーションが通りを彩っていた。

 あまりの寒さにマフラーへ首をうずめながら、上着のポケットに両手を突っ込む。鼻をすすりながら、声を出すたびに白い息が漏れだした。


「朝倉さん、ちょっといい?」


 ランチから戻ると、珍しく部長に呼ばれた。まだ期末の評価面談は始まっていないし、呼び出しには全く心当たりがなく少し身構えた。

 ミーティングルームに入り、部長と対面するように席についた。


「いやあ、仕事はどう?」


 すんなりと本題には入らず、漠然とした質問に私は曖昧に笑った。特に話すこともなく、「忙しいですね」とそれらしいことを返す。

 すると、「うん」と一度飲み込んだように頷いた部長が、机の上で両手を組んで私を見た。


「朝倉さんさ。入社のとき、ゆくゆくは海外で仕事したいって言ってたんだって?」


 エントリーシートに書いた、海外勤務の夢。

 大学生の頃、留学したホームステイ先の家で海外での生活に憧れを持った。ずっとやりたいことが見つからなくて、これという仕事も思いつかず、就職先に希望はなかった。だから、ボブズへの就職を進められた時も、すんなりいいかも、なんて思ったんだ。

 でも、どこの会社に就職したとしても、海外で勤務できるようになりたいと思ってはいた。だから短期間ではあったけれど、ロンドンで仕事ができていい経験になったと思っている。実際に一年半の間、とても充実していた。


「行ってみない?」
「え……っと」
「朝倉さんにニューヨーク支社への異動の話が上がってる。ロンドンでの経験がかわれて、上からも是非にと」


 まるで、予想もしていなかった。


< 86 / 96 >

この作品をシェア

pagetop