わたしだけの王子様〜狂い咲き令嬢の愛は重く危うく〜

第1話

 名残り雪は嫌いだ。往生際が悪い。
 元来、雪とは潔ぎいいものだ。冬は地上を蹂躙すれど、桜雨であっさり清水となる。
 それなのに日陰の名残り雪ときたら。
 土汚れで黒くなり、陰で死にながら生き続けるのだ。

「──ねえ刺客さん、聞いてる? 刺客さん? あら……少しやりすぎたかしら」
 釣責めで失神した男の口から、雪解けのように血が滴つ。
 その様子を見上げる娘──アリア・ロックブラドの、真っ白なシュミーズに血が垂れた。
 いそいそと縄を弛めれば、重力で男の巨体が五体投地する。
 アリアは華奢な体を後ろに傾斜させ、男を力一杯引き摺った。そして地下室の最奥へ進み牢へ運び込む。
 散らばった拷問具を片付けてアリアは反省した。
 明日はきちんと謝罪しよう。そして、今日より優しく拷問しよう。刺客の意識が飛んでしまっては元も子もないのだから。
 渡り廊下を進むアリアの視界に、日陰の名残り雪が見えた。
 春の夜風でシュミーズがひらりと靡く。
 裾に赤いシミが見え、鉄臭さが運ばれた。

 ──汚れている。

 雪は土で、自分は血で。
 どちらも汚れながら生き長らえている。
 だから名残り雪は嫌いだ。
 まるで、自分を見ているようだから。

 ◇◇◇

 暗い寝室の窓を開け、アリアは丸い青月を見上げた。
 窓辺のテーブルには心許ない様子でホールケーキが置かれている。
 アリアが19本の蝋燭を3回に分けて吹き消すと、色とりどりの蝋燭達が白煙を燻らした。
 
 今日はアリアの19歳の誕生日である。とはいえ、何が特別という事もない。
 生まれた瞬間がまた1年遠のいただけの事で、外出しがちな父親は例に漏れず不在だ。
 別に、今更寂しいとも思わない。
 母親はアリアが10歳の時に儚くなった。
 父親である公爵は、アリアの母親が存命の頃から外に愛人をこさえていた事も知っている。
 アリアと公爵の間に親子の恩愛は一欠片もなかった。
 使用人達は暗黙の了解のもと、この公爵家に仕えている。その中にはアリアを幼少期から知っている使用人もいるわけで。
 強いて言うならば、アリアの誕生日は使用人達に同情される日かもしれない。その結晶こそが、この豪勢なケーキである。
 ケーキのデコレーションは年々上品になっていく。
 おそらくアリアの成長に合わせたもので、今年は淡い水色のバタークリームとバラの繊細な飴細工が飾り付けられていた。実に見事な出来栄えで、崩すのは忍びない。そう思いつつ、アリアはケーキに入刀した。
 食欲はないが1口でも食べて感想を言わねば。
 こんな自分のために、ここまでしてくれたのだから。そうだ、お礼に何かプレゼントでも──

「──動くな」
 後方から若い男の声がした。同時にシャキリと刃物が擦れる音がして、部屋の空気が張り詰める。
 ケーキに向かい合ったまま、アリアは後方の男に問うた。

「ごきげんよう。どちら様かしら」
「しっ……刺客だ。立て! それから……えっと、腕を上げて、ゆっくりこっちを向け」
 徐々に近づいてくる足音。
 アリアは指示通り立ち上がり、声の方向へ振り向いた。──そして感嘆した。

「まあ……」
 高く通る鼻梁、薄い唇、憂いを帯びた大きな瞳……美しい面立ちの青年がそこにいたのである。
(昔持っていた絵本の王子様にそっくりだわ)
 すらりとした長身は、刺客として人目を忍ぶのに大きなハンデだろう。ブロンドの髪は月影で輝き、長い睫毛は扇のようだ。青瞳は悪事をするには皮肉なくらい澄み切っている。
 よくよく見れば全身は震えていた。
 強張った表情から察するに、武者震いではなく──恐怖か。

「ぷっ! ふっ……ふふっあははっ!」
「……なっ何を笑ってる!」
 咄嗟に両手で口元を覆い、アリアは久しぶりに声を出して笑った。
 自ら「刺客だ」などと名乗り、己の容姿全容を晒すなど、相当のやり手かただのバカ。
 青年のウブな反応を見るに、おそらく後者だろう。
 ああそうだ、捨て駒という線も否めない。
 手の内側でアリアの口角が上向いた。
(だったら、貰っていいわよね?)
 ジロジロと検分される青年は苛立ちを隠せず、アリアにナイフの切先を突き合わせる。

「最後に言い残すことは?」
「ええ、1つ。あなた殺しは初めて?」
「──!? そんなわけっ……」
 自身が纏うマントに足を取られ、青年は尻もちをついた。端正な顔は歪み急激に青褪めていく。
 ああ、なんて分かりやすく正直な人間だろう。彼には刺客ではなく、別の道がおすすめだ。喜んで再就職先を紹介しよう、とアリアは陶然とした。

「ねえ、あなた。後学のために教えてあげる」
「は? 何を……」
「逝かせる時はね、躊躇ってはだめよ」
「え──」
 一瞬の出来事だった。
 アリアは袖の暗器で青年の脛に斬りかかり、ケーキが乗った銀トレーを後ろ手に掴む。そして体を捻り遠心力で思い切り振り下ろすと、トレーは重い打音を立てて青年の頭に直撃した。青年は勢いよく倒れ床に伏臥する。
 アリアは、トレーを足元に放り投げ青年を見下ろした。
 うつ伏せの彼を足先で突くと、アリアの足の動きのままに体が揺れて、筋肉が弛緩しているのが判る。
 ──まさか死んだ?
 何せ刺客を綺麗に捕獲する事など初体験で、力加減が分からない。
 恐る恐る青年の口元に手を差し出すと、指に温かい呼気がかかった。よかった。生きている。
 アリアは動きやすいシュミーズに着替えた。
 一昨日の晩の拷問でついた血痕を洗い落としたばかりだが、まあこの際どうでもいい。
 額に汗を滲ませながらアリアは青年をベッドに引き摺り上げ、枕元から使い古されて毛羽立った縄を取り出す。そして、慣れた手つきで青年に縄を括った。
 手首から肘にかけて両腕を前で縛り、同じく足首も縄を括って緊縛を施す。
 それから土臭いマントを青年から剥ぎ取って、サボンが香る布団でアリアは共寝した。
(大切にしてあげるからね。わたしの王子様)
 青年にぴたりと寄り添い、アリアは眠りに落ちていった。

 ◇◇◇

「ゔゔ……」
 低い呻き声がする。微睡みの中で寝返りをうつと、カーテンの隙間から日が差し込んでいた。
(朝……?)
 アリアは拳で目を擦り、緩慢に上体を起こして青年を覗き込んだ。
 
 ──夢じゃない。昨夜の「王子様」がここにいる。
 
 けれどアリアは口を尖らせた。
 青年の表情が悩ましげに眉が寄せているではないか。せっかくの美顔が台無しである。
 アイロンがけの要領でアリアは彼の眉間を撫ぜた。すると眉間の渓谷がより一層深まり、同時に体がびくっと跳ねる。それから表情が緩み、開目した彼の青瞳に曙光が輝いた。
 はらりと垂れる自身の黒髪を耳にかけ、アリアは優しく微笑った。

「おはよう。よく眠れたかしら」
「うわ! ぐっ……なんだよこの紐! 外せっ……」
 青年が暴れてベッドが大きく軋み、縄はさらに肌へ食い込んでいく。
 アリアはうつ伏せに転がった青年を反転させ、仰向けにし、そして腹の上に跨った。
 見下ろされた青年は、こんな状況でも仄かに顔を赤らめる。

「こらっ。暴れたらますます痛いわよ?」
「……おっ俺を殺すのか?」
「いいえまさか! あなたはわたしの物だもの。そんな酷い事しないわ」
「は? それってどういう……」
 青年は目を見開き身震いした。
 その問いに答えず、アリアは彼の輪郭を指でなぞっていく。指先に血糊がついたものの殆どが乾いていて出血はおさまっている。眉の上が切れていたが血の量よりずっと軽症と見受けられた。
 手荒な寝かしつけで不安もあったが、こうして会話が出来ている。頭に内傷がないようで一安心だ。
 そして、溜め息をつき一拍置いて口を開く。

「あなたの主人が誰かは知らないけど、わたしを殺すように言われたんでしょう?」
「雇い主の名前か? 誰が言うかよっ……」
 まるで拗ねた子供のように青年はプイッと顔を逸らす。そんな態度を取れる立場ではないのに。
 どうも自分の置かれた状況を理解していないようだ。青年にはここではっきり現実を突きつけねばなるまい。
 アリアは眉を垂らして言った。

「ふふっ真面目でいい子ね。でも重要なのはそこじゃないの。ハッキリ言うわ、あなた捨て駒よ」
「は?」
 断言された青年は目を泳がせた。
 主人の名前を言わないと息巻いたのはいいが、すぐに顔に出てしまうのは彼の悪い癖だ。これから躾け直すのもいいが、そのまま愚かに素直でいてほしい気もする。
 そして青年の耳には痛いであろう事をアリアは告げた。

「だって人殺し未経験なあなたをわたしに送るなんて、返り討ちにあうのは向こうも想定済みでしょう? しかも昨日はわたしの誕生日だった。これってつまり、向こうからの"贈り物"よね?」
「意味分かんねえ。なんであんたに返り討ちにあう前提なんだよ」
 動くと痛むのか、あるいは恐怖によるものか、青年の体はすっかり抵抗をやめていた。
 胸元で縛られた手首は縄が食い込み、血液の通りが悪いようで心なしか肌が青黒い。
 アリアは青年の、その冷たい拳にそっと触れた。
 緊張と恐怖で感覚が鋭利になっている彼はピクリと体が跳ね上がり、それがなんとも愛らしい。
 喜色満面のアリアは青年を見下ろす。
(ふふっこんなに小さくなって………可哀想に)
 けれど軽率に刺客なんて引き受けるから悪いのだ。
 自業自得、身から出た錆。
 けれど人生とは「山あり谷あり」らしいし、こうして谷底まで落ちた事は、彼にとっていい人生経験になっただろう。そしてアリアにとっても、思いがけずいい収穫になった。
 アリアはくすんだラベンダー色の瞳を細める。

「あら、ご存知ない? わたしはアリア・ロックブラド。"狂い咲き令嬢"として、裏社会では有名らしいの」
「狂い咲き令嬢?」
「ええ。我が家の財産目当てでわたしを攫ったり殺そうとする悪い人達がいるのよ。だからその人達をやっつけて懲らしめて──」
 それから痛めつけ、可哀想なうちは返さず公爵邸に居残りさせてじっくり可愛がる。
 そしてこれ以上は流石に悲惨だろうという所で、最後は主人の元へ送り返すという丁寧なおもてなしだ。
 アリアとしては礼を尽くしたつもりでいたが「狂気の沙汰だ」と不興を買っていたようで、いつか磔にした刺客が教えてくれたものだった。

「鬼畜じゃねえか! クソッ……離せこの野郎!」
「きちく?」
 アリアの丸く大きな瞳がさらに見開く。
 だって、「鬼畜」だなんて。殺しにかかってくる刺客に、相応のお返しをしていただけの話だ。
 あれもこれも全て正当防衛だというのに。
 何も知らないくせに。
 アリアは暴れる青年を乱暴に組み敷いた。

「そうね。あなたの言う通りかも。だからわたしに殺されないように精一杯媚びてちょうだい?」
 生白い細指が青年の玉唇に触れ、つつつ……、と顎裏を通り首筋まで撫で下ろす。そして辿り着いた首根っこでクッと爪を立てた。
 その危ういアリアから青年は目を逸らせず、喉を鳴らして唾を飲む。
 ああ、なんて余裕がなくて可哀想で、可愛い男。
 アリアは顔を綻ばせた。
 
「あなた、歳とお名前は?」
「……18。名前はって、言わねーだろ普通に」
「でも、これからずっと一緒なんだもの。名前がないと不便でしょう?」
「ずっと……って、ずっと?」
 認めたがらず、何度も同じ事を繰り返し聞く青年。
 返事の代わりにアリアがにっこり微笑むと、彼の大きく澄んだ青い瞳が潤み、その水面にアリアを映した。

「まあいいわ。名前は教えてくれるまで"ナイト"って呼ぶわね。誕生日の夜の特別な贈り物だもの」
 アリアは涙を湛えるナイトの目尻にそっと触れた。落涙はまるで雪解けの雫のように澄んでおり、アリアは艶然と微笑う。──気に入った、と。

「これから仲良くしましょうね。ナイト」

 それが、狂い咲き令嬢と王子様のような無垢な刺客のはじまりだった。

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