どこにもいかないで
迷っているから黙ったままでいると、佐田さんの美しい瞳から涙の粒がポロリとこぼれた。
「……あ、ごめん。泣くつもりなんかなくて」
佐田さんは指先で頬の涙を払っている。
形の良い鼻の頭が、どんどん赤くなっていく。
……抱きしめたい。
そう思った。
抱きしめて。
大丈夫だよって言って。
安心させてあげたくなった。
(好きだから)
笑っていてほしい。
笑顔のあふれる毎日にいてほしい。
だけど。
思っただけで。
ヘタレなオレは、行動に起こせない。
「大丈夫?」
と、聞くことが精一杯だった。
「大丈夫だよ。泣くなんて、バカみたいだね」
「……佐田さんは」
と、オレは言った。
佐田さんは、本当は何ていう名前なの?
そう聞いたら、きみはどんな表情をするんだろう。
ふいに母さんの不安そうな顔が頭のすみに浮かぶ。
『絶対にいなくならないでよ。お母さん、そんなの耐えられないからね』
もしも佐田さんに歩み寄れば、オレ、母さんのことを悲しませることになる?