ヒロインが腹黒だったので
「あなた、身の程をわきまえなさいよ」
耳に届いた怒鳴り声に、私は思わず振り返った。その声の主は、私が努めて関わらないようにしていた令嬢――フローラ・ドゥカス伯爵令嬢だったけれど。
放課後の王立学院の裏庭から聞こえてきた彼女の言葉は、私にではなく、一人の小柄な令嬢に対して発せられたものだった。フローラ様は取り巻きの数人の令嬢と共に、小柄な彼女を威嚇するように取り囲んでいた。
びくりと身を竦めた彼女に向かって、フローラ様はその美しい顔を歪めながら続けた。
「転入してきて早々、フィリップ様にあんなにベタベタするなんて、あなた、何様のつもり!?」
「私、そんなつもりじゃ……」
小柄な令嬢のか細い声が、取り巻きたちの声によってかき消される。
「そうよ。フィリップ様の隣にいることを許されるのは、フローラ様だけよ」
「あなたなんかには百年早いわ」
私は輪の中で小さくなって震えている令嬢を見つめながら、溜息を一つ吐いた。
(これじゃ、私よりも、よっぽどフローラ様の方が悪役よね)
彼女らが話しているフィリップ様というのは、フィリップ・ローリンゲン様のこと。王家の遠縁に当たる公爵家の嫡男であり、文武両道かつ超美形、そしてこの学院の生徒会長まで務めているという、非の打ち所がないキラキラした青年だ。
この世界が、「君は僕だけのもの」というベタな名前の付いた乙女ゲームの世界だと気付いたのは、ずっと昔、まだ幼い頃に、私がこのフィリップ様と顔合わせをした時だった。
黒髪黒目という、この世界では珍しい、前世で暮らしていた国を彷彿とさせる彼の色の組み合わせに、前世の記憶がフラッシュバックしたのは不幸中の幸いだった。
フィリップ様はゲームでも一番人気の攻略対象だ。そして私、ディアドリー・コンラートは、フィリップ様の婚約者として、ヒロインであるフローラ様との仲を邪魔する悪役令嬢。侯爵家の長女である私は、フローラ様をあの手この手で陥れようとし、ひいては彼女の命を狙って牢屋へ……という、これまたベタな悪役のはずだった。
怒涛のように押し寄せてきた前世の記憶と、自分が悪役令嬢として転生していたことへのショックに、フィリップ様を見た瞬間に泡を吹いて倒れた私を見て、彼も私の両親も慌てていた。その日は、結局私の体調不良を理由にフィリップ様にはお帰りいただき、その後も彼と会うことを全力で拒み続けた甲斐あって、彼と私との婚約話は無事立ち消えになっていた。
このゲームでの前世の私の推しは、確かにフィリップ様だった。けれど、自分が悪役令嬢となればまた話は別になる。ヒロインが現れるまで、彼の婚約者の座を楽しむという手もあったかもしれないけれど、うっかり本気にでもなってしまったら、転落への一本道をまっしぐらだ。フィリップ様といたら、その魅力に我を忘れてしまいそうな危うさを、私は初対面の時に感じ取っていた。だからこそ、彼の側に近寄ることすら徹底的に避けている。
さらに、悪役令嬢に転生してしまったことに気付いてからは、できる限り波風を立てずに日々を送ろうと、生まれつきはっきりとした目鼻立ちが目立たないよう気を付けて過ごしていた。学院でも、ノーメイクに眼鏡、髪はひっつめと、極めて地味だ。
(とはいえ……)
私は、普段のフローラ様からは想像もつかないような、彼女の怖ろしい顔を眺めた。私が勝手に悪役令嬢ポジションを下りたせいなのか、どうもこの世界にはバグが生じているらしい。フィリップ様の前では、虫一匹殺さないような淑女の顔をしていると評判のフローラ様が、こんな腹黒な有様なのだ。いったい、何が起きているのだろうか。
勝ち誇ったような顔で小柄な令嬢を追い詰めるフローラ様を見て、私の腹の中にはむかむかと怒りが湧き上がった。
(こんな人がヒロインでいいのかしら?)
噂に聞く限り、彼女は攻略対象の生徒たちを手際良く順番に落としていっているらしい。それでいて、実のところこうしてフィリップ様を狙っているのだ。影響力のある高位貴族の子息たちと仲良くなった彼女は、学院内で一目置かれるようになったのをいいことに、手頃な令嬢たちを取り巻きとして抱き込んでいるようだった。
私が以前フィリップ様と会い、泡を吹いて倒れた後、彼は幾度も私の体調を気遣う手紙をくれた。見舞いは丁重にお断りしたものの、角が立たないようにと私も手紙を返すうち、しばらくの間文通が続いた。律儀な彼は、学院内でもひたすらに彼を避け続けているこんな私に対して、今でも時々思い出したように手紙をくれる。他愛ないけれど、彼の温かな人柄が窺える手紙が届くと、つい私も口元が緩んでしまう。
私自身は、破滅ルート回避のためにも、彼と決してお近付きにはなりたくなかったけれど、そんな完璧な前世の推しがフローラ様に落とされていくのを、ただ指を咥えて見ているというのも何だか癪だった。フローラ様のように表裏のある人が、私は大嫌いだったから。
気付いた時には、私はずかずかと大股で彼女たちに近付いていた。フローラ様が、バケツを持った取り巻きの令嬢に顎で指示をする。
「フィリップ様に近付いた罰よ」
バシャッと勢いよく掛けられた水は、小柄な令嬢にかかる前に、彼女の前に割って入った背の高い私にかかった。全身がずぶ濡れになった私を見て、私に水をかけた令嬢もフローラ様も、さあっと青ざめている。
いくら目立たないように過ごしているとはいえ、私はこの王国でもかなり力のあるコンラート侯爵家の長女。私を害したとなれば、どんなお咎めを受けるかわからないと、彼女たちの軽そうな頭でも想像がついたのだろう。
「ちょっと、何してるの?」
思ったよりも怖い声が出た。すっかり水で曇った眼鏡を外した私が、吊り上がった金の瞳で睨み付けたものだから、彼女たちはさらに縮み上がっていた。私が睨むと、結構迫力がある自信はある。じりと後退ったフローラ様が、早口で呟いた。
「こ、こんなつもりじゃなかったんです。申し訳ありませんでしたっ……!」
頭を下げてから、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く彼女たちを見て、私は再び溜息を吐いた。
やろうと思えば、家まで巻き込んで正式な謝罪を求めることもできるけれど、彼女たちにあえて私から関わりたくもなかった。そんなことで恨みを買って、破滅への道が開きでもしたら洒落にならない。今は私が水をかけられた側だし、たいして問題はないだろうと思いつつ後ろを振り返った。
遠目からはよくわからなかったけれど、そこにいたのはもの凄い美少女だった。フローラ様が釘を刺しておこうとしたのも頷けるくらい、同性から見ても息を呑むほど美しい。柔らかな栗色の髪に、小動物のようなつぶらな琥珀色の瞳をした華奢な少女が、目を潤ませて私を見上げていた。
「あの、ありがとうございました!」
深々と頭を下げた彼女に、私は首を横に振った。
「いいのよ。大丈夫だった?」
「はい、庇っていただいたお蔭です。……すみません、私のせいで濡れてしまいましたね」
慌ててハンカチを差し出した彼女に、私は微笑んだ。
「あなたは何も悪くないのだから、気にしないで」
「あの、お名前を伺っても……?」
ほんのりと頬を染めた、どこか儚げな彼女のあまりの可愛らしさに、私は心臓を打ち抜かれそうになっていた。
「私は五年のディアドリーよ。よろしくね」
「私は、今日四年に編入したミュリエルと申します。よろしくお願いいたします」
彼女から借りたハンカチで手だけを拭いて、私は彼女からおずおずと差し出された手を握り返した。そして、その手にぐっと力を込めながら、目を輝かせて彼女を見つめた。
「頑張ってね、ミュリエル様。私、応援しているから!」
フィリップ様の隣に並ぶなら、性格の悪いフローラ様より、ミュリエル様の方が遥かに相応しい。これほどの美少女なら、フィリップ様に並んでも遜色はないはずだ。きっとそれが気に食わなかったのだろうと、私はフローラ様の胸の内を想像していた。
「ええと、それはどういう……?」
不思議そうに小首を傾げたミュリエル様に手を振って別れると、私は帰路を急いだ。
***
帰宅した私がびしょ濡れなのを見て、お母様は驚いたように目を瞠っていた。けれど、私が何でもないと言ったからか、お母様は諦めたように部屋へと戻っていった。
フィリップ様と会って倒れた一件以降、どこにでもいるような貴族の少女から、がらりと人が変わったように頑なになった私に、両親も匙を投げているようだ。
使用人から受け取ったタオルで身体を拭きながら、自室へと向かって私が廊下を歩いていると、これまたゲーム内では攻略対象のライアンお兄様が、部屋からひょいと顔を覗かせた。
「お帰り、ディア」
「ただいま帰りました、お兄様」
お兄様とは、今まで良好な兄妹関係を築いてきた自信がある。前世の記憶が戻ったばかりの時は、嫌われないようにと細心の注意を払っていたけれど、今のお兄様は私の一番の味方だ。溺愛されていると言ってもいいと思う。彼は、ずぶ濡れの私を見て目を丸くした。
「どうしたんだい、その格好は?」
「ちょっとした諍いに首を突っ込んでしまいまして。でも、たいしたことではありませんわ。それよりも……」
私は、鞄の中にしまっていた、図書室から借りた本が濡れていないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。そして、満面の笑みでお兄様にその本を差し出した。
「見てください、この本! さっき、学院の図書室で借りてきたんです」
「ほう。『回復薬の作り方・上級編』ねえ……」
ディアも好きだなあ、とお兄様が呟く。前世の記憶が戻ってからというもの、私は破滅ルート回避の可能性を探って全力を尽くしていた。いくらフィリップ様と婚約せずに済んだとはいえ、私がディアドリー・コンラートである事実に変わりはない。破滅への入口が、どこでぱっくりと口を開けているかもわからないのだ。
手っ取り早く、私は何かあった時のためにとお金を稼ぐことにした。家を追放されても生きていけるようなお金と技術があれば、多少は平穏に生きられそうな気がしたからだ。
ディアドリーは、さすがゲームではメインの悪役令嬢だけあって、魔力も高ければ全方位の魔法も使いこなせる。だから、私は回復魔法を活かして回復薬を作ることにした。幼い頃から練習しているお蔭で、私の回復魔法は相当のレベルになっているようだ。それを、お兄様に仕入れてもらった聖水に込める。やり方にはちょっとしたコツがいるし、それが掴めてきたのも割と最近だけれど、お兄様経由で販売してもらっている回復薬は、なかなか好評らしい。
魔力も消耗するから、身を削って作っているようなところもありつつも、やってみるとなかなか楽しい作業だった。前世から凝り性の私は、今日の放課後も図書室に籠って、回復薬作りに役立ちそうな本を探していたのだ。
「……ディアの作る回復薬は、もう上級どころか特上レベルだと思うよ」
やり手のお兄様のお蔭で、私の薬はかなりの高値で取り引きされているようだ。私の手元にも、もう相当の額が入ってきている。でも、それは私の力というよりも、商売に長けたお兄様の辣腕の賜物だと、そう私は信じている。
「ふふ。お世辞を言ってくださっても何も出ませんよ、お兄様」
お兄様から本を返してもらうと、私は足取り軽く自室に戻った。急いで濡れた服を着替え、ガラスのフラスコに聖水を移す。図書室で借りた本を参考に回復魔法を唱えると、いい具合に聖水がきらきらとした光を帯びた。
「うん。いい感じ……くしゅん」
水をかけられて身体が冷えたせいか、悪寒がしてくしゃみが出た。けれど、作ったばかりの回復薬をスプーンですくってひと舐めしたら、すっかり具合が良くなった。
「上出来だわ。回復魔法が使えてよかった……!」
魔法の才能に長けているというのは、なかなか便利だ。悪役令嬢だっていいこともあるものだと思いつつ、私は上機嫌で、鼻歌を口ずさみながら回復薬作りに励んだ。
***
「ディア様!」
「あら、ミュリー」
にこにこと手を振って駆け寄って来るミュリエル様ことミュリーに、私は瞳を細めた。彼女とは、もう互いに愛称で呼び合う間柄だ。
彼女を庇った一件以降、私はすっかり彼女に懐かれてしまったようだ。まるで子犬のような無垢な瞳で私の後をついてくる彼女は、とても可愛い。一年後輩の彼女は、それまで身体を悪くしていて、ようやく体調を持ち直して学院に編入したのだそう。今も、空気のよい郊外から学院に通っているとの話だった。
私のいるところに、彼女はよく顔を出すようになっていた。それまで遅れていた彼女の勉強をみるうちに、私はすぐに彼女と仲良くなった。地頭が良い上に努力家の彼女は、あっという間に学習の遅れを取り戻した。それまで、破滅ルートの回避ばかりを考えて、学生といえど青春の要素は皆無だった私にとって、気が合う彼女と一緒に学食でご飯を食べたり、帰りがけにお茶をしたりするささやかな時間は、とても幸せなものだった。
(それに、ミュリーったら本当に可愛いんだもの……!)
外見が飛び抜けて可憐なだけでなく、性格まで純粋で優しい彼女のことが、私は大好きだった。それに、あまり令嬢らしくもないこんな私を慕ってくれる。ディア様がお姉様だったらよかったのに、と彼女が呟くのを聞いて、私は感動に震えてしまった。私だって、こんな妹がいたらどれほど幸せだろうか。この世界での推しが誰かと聞かれたら、私は迷わずに彼女の名前を挙げるだろう。
一つだけ私の頭に浮かんだ疑問は、これだけ美しい彼女が、前世のゲームになぜ登場しなかったのだろうということだ。モブにしては、あまりに綺麗過ぎる気がしてならない。
でも、私がフィリップ様と婚約していなかったり、ヒロインのフローラ様の性格があんな感じだったりと、きっとゲームとは違うバグが色々と起きているのだろうと、私はそう自分を納得させていた。
私という悪役が抜けた代わりに、フローラ様が悪役ポジションに落ちて、新しい正ヒロインとして登場したのがミュリーなのではないかと、私は結構真剣にそう考えていた。
フィリップ様は、引きも切らずに縁談が来ているだろうに、なぜかまだ誰とも婚約していない。ヒロインのために、ゲーム補正がかかって空席になっているのかとも思ったけれど、それでもやっぱり不思議だった。できれば、彼にはミュリーを選んで欲しい。こんないい子、滅多にいない。たまたま最近、彼から季節の挨拶のような手紙が来たので、これ幸いと、友人になったミュリーを褒めちぎる手紙を返しておいた。少しでも二人の進展に繋がったら嬉しいと、そう陰ながら願っているところだ。
この日も、帰りがけに彼女と学食でお茶を飲んでいたら、窓の外からフィリップ様がミュリーに向かって手を振っていた。
「あっ……!」
嬉しそうに笑ってフィリップ様に手を振り返したミュリーに、私は満面の笑みを向けた。今世の推しと前世の推しが並ぶところを見られるなんて、最高だ。きっと、二人の婚約が調う日もそう遠くはないことだろう。美男美女の彼らは、誰が見てもお似合いに違いない。
「フィリップ様、あなたを迎えに来てくださったのね。早く行った方がいいわ」
「はい。……あの、よかったらディア様も一緒に行きませんか? 途中までお送りしますから」
私はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「いいえ! 私にはあなたたちを邪魔する気はまったくないから、安心して!!」
思わず言葉に力が入る。これまで会うことを避け続けてきたフィリップ様と、今さらご一緒するつもりはなかった。まあ、ミュリーを推している私が、彼女を害する可能性はないと断言できるけれど。
彼女は残念そうに少し眉尻を下げてから微笑んだ。
「わかりました。ではまた明日、ディア様」
「うん、また明日ね」
彼女と手を振って別れてから、私はふと視線を感じて辺りを見回した。視線の主に気付いて、心臓がどくんと音を立てる。学食の遠くの席から、フローラ様が、フィリップ様の元に向かうミュリーのことを忌々しそうに睨み付けていたのだ。
フローラ様の怒りに染まった顔を見て、私は嫌な予感がしたけれど、フィリップ様が一緒なのだから大丈夫だろうと思い直した。
私の予感がただの予感では済まなかったことがわかったのは、その翌日になってからだった。
授業の合間の移動時間に、階段の下に人だかりができているのを見掛けて、興味本意に近付いた私は息を呑んだ。階段の下に、フローラ様が倒れていたのだ。くじいたらしい足首を痛々しい様子で押さえた彼女は、涙目で階段の上を見上げていた。
「酷いわ! 私が少しフィリップ様とお話ししていたからって、私のことを階段から突き落とすなんて……!」
フローラ様の視線の先には、青ざめたミュリーの姿があった。ミュリーが決してそんなことをしないということをよく知っていた私は、急いで人ごみをかき分けた。
「待って! 彼女はそんなことをする人じゃ……」
私の声は、その場に現れた一人の人物によって遮られた。
「フローラ、どうしたんだ?」
フィリップ様が、フローラ様の身体を抱き起こす。
「それが、ミュリエル様に階段から突き落とされて……」
うるうると瞳を潤ませるフローラ様の迫真の演技は、まるで女優のようだった。
「それに、証人もいるのです」
フローラ様の側にいた彼女の取り巻きたちが、階段の上を見上げてミュリーを睨み付けていた。
「私、見ましたわ。階段を降りてきたミュリエル様が、フローラ様のことを突き飛ばすのを」
「あれは事故ではなく、故意に違いありませんわ」
「フローラ様に嫉妬なさっていたからでは?」
フィリップ様は、眉を寄せて彼女らに尋ねた。
「……本当かい?」
口々にフローラ様を援護する取り巻きたちの言葉を聞いて、すっかり頭に血が上っていた私は、思わず大声で割り込んだ。
「そんなはずありません、フィリップ様。彼女は絶対にそんなことをしないと、私は断言できます」
直接彼と話したのは、ほとんどこれが初めてだった。
昨日のフローラ様の表情を思い出した私は、彼女の芝居に騙されそうになっているように見えるフィリップ様を眺めて、これまで彼を避け続けていたことを忘れてしまうくらい、悔しくてたまらなかったのだ。
憤っている私に向かって、フィリップ様はなぜか目配せをすると、改めて階段の上にいるミュリーを見上げた。
「そこにいる僕の妹が、フローラのことを突き落としたと、そう言うんだね?」
「い、いもうと……?」
真っ青になったフローラ様が口の中で呟いた。彼女の取り巻きたちも、一様に表情を失くしている。私もすぐにはその言葉が呑み込めずにいた。
フィリップ様は頷くと続けた。
「ああ、僕の可愛い妹だよ。彼女はしばらく身体を悪くしていて、空気のよい郊外の叔父と叔母の家で暮らしているし、叔父の家の名前で入学しているから、君たちが知らなくても無理はないけれどね」
言葉が出ないまま、はくはくと口を開いたり閉じたりしていたフローラ様に向かって、彼は冷ややかな目を向けた。
「ミュリーがそんなことをするはずがないってことは、僕もよく知っている。大事な妹に向かってこんな真似をするなんて、簡単に君たちを許すつもりはないよ」
へなへなと崩れ落ちたフローラ様を眺めてから、私はぽかんと口を開けてミュリーを見つめていた。
「え……妹? フィリップ様の?」
ミュリーは申し訳なさそうに私を見つめ返した。
「はい。今まで内緒にしていて、ごめんなさい」
(じゃあ、フィリップ様が彼女を迎えに来ていたのも……)
どうやら、私は明後日の方向で都合の良い勘違いをしていたようだった。前世の推しと今世の推しが、兄妹だったなんて。でも、ミュリーのあの美貌は、フィリップ様の妹と言われれば頷けた。どことなく面影が似ているような気もしなくはない。
顔を上げたフローラ様が、ヒステリックに叫んだ。
「何よ、それ!? ミュリエルなんて子、あのゲームには出てこなかったのに!!」
驚いている私を、彼女はきっと睨み付けた。
「元はと言えば、あなたがちゃんと役割を果たさないからいけないのよっ……!!」
フローラ様は、どうやら私と同じく転生者だったようだ。困っている私に、フィリップ様が助け船を出してくれた。
「よくわからない文句を、僕の大切なディアドリーに言われても困るな」
「……!?」
何が起きているのかわからなくなった私に、彼はうっとりするような笑みを向けた。
「ディアドリー、今なら僕との婚約を受けてくれるかな?」
「え」
脳内がフリーズした私の前で、彼はミュリーと目を見交わした。
「ミュリーに、姉にするなら君以外には考えられないと聞いているんだが、どうだろう? 少し考えてみてはくれないか」
「そ、それは……」
確かにとても魅力的な提案ではあったけれど、破滅ルートへの恐怖は、未だに私の心に根深く残っている。
ぷつりと思考回路がショートした私は、目の前がぐにゃりと歪むのを感じると、フィリップ様と初めて会った時以来、その場でばたりと倒れた。
***
私が目を覚ますと、自室のベッドの上にいる私を、フィリップ様とミュリーが心配そうに覗き込んでいた。
幾度か目を瞬いて、ようやく我に返った私は、恐る恐る二人を見上げた。
フィリップ様の顔をこれほど間近で見るのは、初めて会った時以来だった。幼い頃より、さらにずっと麗しく成長していた彼の姿に、私の胸はどきどきと跳ねる。
「あの……」
困惑気味に頬を染めた私に向かって、彼は優しく微笑んだ。
「驚かせてしまって、ごめんね」
そう言ってから、彼はぽつぽつと今までのことを話し始めた。初めて会った日から、私のことを忘れられずにいたこと。けれど、私に拒否されたために、それ以上嫌われたくなくて距離を詰められずにいたこと。私からの手紙はすべて大切に取ってあること、学院内でも私のことをよく見つめていたこと、等々。
「僕との婚約を断られた時には、正直言って驚いたけれど。多くの令嬢たちとは違って、魔法の腕を磨くことに全力を傾ける君を、僕は心から尊敬している。とびきり美しい上に、ミュリーを庇ってフローラ嬢にも勇敢に立ち向かう君を見て、改めて惚れ直したよ」
初めて聞く、想像もしていなかった彼の本音に、私は胸がぎゅっと締め付けられるようだった。自分の破滅ルート回避しか考えず、こんなに素敵な彼を傷付けてしまっていたことが申し訳なかった。
さらに、私の作った回復薬を彼が妹に飲ませていたと聞いて、私は目を丸くしていた。
それまでは外出もままならずに臥せっていたミュリーが、私の薬を飲んでからここまで回復したというのだ。
「それは本当ですか?」
「ああ。君が作った薬なら、きっと間違いないと思ってね」
前世のゲーム内でミュリーが登場しなかった理由がようやく呑み込めた私に、彼女はとびきり可愛らしい笑みを向けた。
「ディア様は、私の恩人です」
「……どうして、フィリップ様の妹だと教えてくれなかったの?」
「ごめんなさい、兄に口止めされていて。どうやら兄は嫌われているようだから、妹だと知られたら、私もお友達になってはいただけないかもしれないと」
それは確かに的を射ていた。もし彼女がフィリップ様の妹だと知っていたなら、破滅ルートの気配を感じて彼女を避けていたかもしれない。
ミュリーは瞳を潤ませると、私の顔を覗き込んだ。
「これからも、仲良くしていただけますか?」
「ええ、もちろん」
私はすぐに頷いた。
「では、ディア様。私の本当のお義姉様になってはいただけませんか?」
そう畳み掛けられて、私はぐっと言葉に詰まった。このミュリーの表情を前にして、首を横に振るのは至難の技だ。フィリップ様も、祈るような切実な瞳を私に向けている。そんなに美しい瞳で見つめられたら、後戻りできなくなりそうなのでやめてほしい。
私は少し別方向に話を変えてみることにした。
「そう言えば、あの後フローラ様は?」
「王立学院の退学が決まったよ。彼女はあれ以外にも、ミュリーに色々と嫌がらせをしていたんだ。彼女の取り巻きたちもしばらく停学になる」
「そうでしたか」
「まあ、決定的な証拠を掴むために、今まで彼女を泳がせていたんだけどね。よくわからないことを喚いていたから、君も気味が悪かっただろう」
「そ、そうですね……」
ミュリーにもう危害が及ばないことにほっとしつつ、私は曖昧に笑った。ここがゲームの世界なのだと言ったら、私の気が触れたと思われるだろうか。
助けを求めるように、二人の後ろにいたお兄様に視線を向けると、彼はからりと笑った。
「願ってもない話じゃないか、ディア。これまで君に来ていたほかの縁談は、俺の目に適う男がいなくて断り続けていたけれど、彼なら俺も賛成だよ」
「お、お兄様まで……!」
そう言えば、適齢期になっても他の縁談が来ないなと思ってはいたけれど、私が変わり者のせいだからかと流していたのだ。
お兄様が私を溺愛していることは知っていたけれど、まさか彼がその犯人だったなんて。
逃げ場を無くした私は、フィリップ様を見つめておずおずと尋ねた。
「では、まずはお友達からお願いできますか?」
「わかったよ、ありがとう」
彼の眩しいような笑みに、私は頭がくらくらとした。抜けられない沼に沈み込んでいくような、そんな感覚だ。
(もしフィリップ様と結婚したら、前世の推しが旦那様になって、今世の推しが義妹に……)
私にはでき過ぎた幸せだと、そうぐるぐると考えていた私に、彼はその美麗な顔を寄せて囁いた。
「僕の想いがどれほどか、君は知らないみたいだね。僕は必ず、君を振り向かせてみせるから」
頬にかあっと熱が集まるのを感じていた私に、彼が続ける。
「何か、事情があるようにも見えるけれど。何があっても、僕は君をずっと大切にするよ」
勘の鋭いフィリップ様に、私は涙が出そうになっていた。
(もしも何かあったとしても、回復薬を作って独り立ちする手もあるかしら……)
それでもまだそんな理屈で考えていた私に、フィリップ様は軽く爆弾を落とした。
「好きだよ、ディア」
彼の言葉の甘い響きに、私の理性は吹っ飛んでいた。
フィリップ様に優しく手を取られ、私は思わず頷いてしまった。真っ赤になっているだろう私を見て、ミュリーとお兄様は嬉しそうに笑っている。
胸に広がる甘やかな感情に、初めてそのまま身を委ねた私は、はにかみながらもフィリップ様にいっぱいの笑みを返した。
耳に届いた怒鳴り声に、私は思わず振り返った。その声の主は、私が努めて関わらないようにしていた令嬢――フローラ・ドゥカス伯爵令嬢だったけれど。
放課後の王立学院の裏庭から聞こえてきた彼女の言葉は、私にではなく、一人の小柄な令嬢に対して発せられたものだった。フローラ様は取り巻きの数人の令嬢と共に、小柄な彼女を威嚇するように取り囲んでいた。
びくりと身を竦めた彼女に向かって、フローラ様はその美しい顔を歪めながら続けた。
「転入してきて早々、フィリップ様にあんなにベタベタするなんて、あなた、何様のつもり!?」
「私、そんなつもりじゃ……」
小柄な令嬢のか細い声が、取り巻きたちの声によってかき消される。
「そうよ。フィリップ様の隣にいることを許されるのは、フローラ様だけよ」
「あなたなんかには百年早いわ」
私は輪の中で小さくなって震えている令嬢を見つめながら、溜息を一つ吐いた。
(これじゃ、私よりも、よっぽどフローラ様の方が悪役よね)
彼女らが話しているフィリップ様というのは、フィリップ・ローリンゲン様のこと。王家の遠縁に当たる公爵家の嫡男であり、文武両道かつ超美形、そしてこの学院の生徒会長まで務めているという、非の打ち所がないキラキラした青年だ。
この世界が、「君は僕だけのもの」というベタな名前の付いた乙女ゲームの世界だと気付いたのは、ずっと昔、まだ幼い頃に、私がこのフィリップ様と顔合わせをした時だった。
黒髪黒目という、この世界では珍しい、前世で暮らしていた国を彷彿とさせる彼の色の組み合わせに、前世の記憶がフラッシュバックしたのは不幸中の幸いだった。
フィリップ様はゲームでも一番人気の攻略対象だ。そして私、ディアドリー・コンラートは、フィリップ様の婚約者として、ヒロインであるフローラ様との仲を邪魔する悪役令嬢。侯爵家の長女である私は、フローラ様をあの手この手で陥れようとし、ひいては彼女の命を狙って牢屋へ……という、これまたベタな悪役のはずだった。
怒涛のように押し寄せてきた前世の記憶と、自分が悪役令嬢として転生していたことへのショックに、フィリップ様を見た瞬間に泡を吹いて倒れた私を見て、彼も私の両親も慌てていた。その日は、結局私の体調不良を理由にフィリップ様にはお帰りいただき、その後も彼と会うことを全力で拒み続けた甲斐あって、彼と私との婚約話は無事立ち消えになっていた。
このゲームでの前世の私の推しは、確かにフィリップ様だった。けれど、自分が悪役令嬢となればまた話は別になる。ヒロインが現れるまで、彼の婚約者の座を楽しむという手もあったかもしれないけれど、うっかり本気にでもなってしまったら、転落への一本道をまっしぐらだ。フィリップ様といたら、その魅力に我を忘れてしまいそうな危うさを、私は初対面の時に感じ取っていた。だからこそ、彼の側に近寄ることすら徹底的に避けている。
さらに、悪役令嬢に転生してしまったことに気付いてからは、できる限り波風を立てずに日々を送ろうと、生まれつきはっきりとした目鼻立ちが目立たないよう気を付けて過ごしていた。学院でも、ノーメイクに眼鏡、髪はひっつめと、極めて地味だ。
(とはいえ……)
私は、普段のフローラ様からは想像もつかないような、彼女の怖ろしい顔を眺めた。私が勝手に悪役令嬢ポジションを下りたせいなのか、どうもこの世界にはバグが生じているらしい。フィリップ様の前では、虫一匹殺さないような淑女の顔をしていると評判のフローラ様が、こんな腹黒な有様なのだ。いったい、何が起きているのだろうか。
勝ち誇ったような顔で小柄な令嬢を追い詰めるフローラ様を見て、私の腹の中にはむかむかと怒りが湧き上がった。
(こんな人がヒロインでいいのかしら?)
噂に聞く限り、彼女は攻略対象の生徒たちを手際良く順番に落としていっているらしい。それでいて、実のところこうしてフィリップ様を狙っているのだ。影響力のある高位貴族の子息たちと仲良くなった彼女は、学院内で一目置かれるようになったのをいいことに、手頃な令嬢たちを取り巻きとして抱き込んでいるようだった。
私が以前フィリップ様と会い、泡を吹いて倒れた後、彼は幾度も私の体調を気遣う手紙をくれた。見舞いは丁重にお断りしたものの、角が立たないようにと私も手紙を返すうち、しばらくの間文通が続いた。律儀な彼は、学院内でもひたすらに彼を避け続けているこんな私に対して、今でも時々思い出したように手紙をくれる。他愛ないけれど、彼の温かな人柄が窺える手紙が届くと、つい私も口元が緩んでしまう。
私自身は、破滅ルート回避のためにも、彼と決してお近付きにはなりたくなかったけれど、そんな完璧な前世の推しがフローラ様に落とされていくのを、ただ指を咥えて見ているというのも何だか癪だった。フローラ様のように表裏のある人が、私は大嫌いだったから。
気付いた時には、私はずかずかと大股で彼女たちに近付いていた。フローラ様が、バケツを持った取り巻きの令嬢に顎で指示をする。
「フィリップ様に近付いた罰よ」
バシャッと勢いよく掛けられた水は、小柄な令嬢にかかる前に、彼女の前に割って入った背の高い私にかかった。全身がずぶ濡れになった私を見て、私に水をかけた令嬢もフローラ様も、さあっと青ざめている。
いくら目立たないように過ごしているとはいえ、私はこの王国でもかなり力のあるコンラート侯爵家の長女。私を害したとなれば、どんなお咎めを受けるかわからないと、彼女たちの軽そうな頭でも想像がついたのだろう。
「ちょっと、何してるの?」
思ったよりも怖い声が出た。すっかり水で曇った眼鏡を外した私が、吊り上がった金の瞳で睨み付けたものだから、彼女たちはさらに縮み上がっていた。私が睨むと、結構迫力がある自信はある。じりと後退ったフローラ様が、早口で呟いた。
「こ、こんなつもりじゃなかったんです。申し訳ありませんでしたっ……!」
頭を下げてから、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く彼女たちを見て、私は再び溜息を吐いた。
やろうと思えば、家まで巻き込んで正式な謝罪を求めることもできるけれど、彼女たちにあえて私から関わりたくもなかった。そんなことで恨みを買って、破滅への道が開きでもしたら洒落にならない。今は私が水をかけられた側だし、たいして問題はないだろうと思いつつ後ろを振り返った。
遠目からはよくわからなかったけれど、そこにいたのはもの凄い美少女だった。フローラ様が釘を刺しておこうとしたのも頷けるくらい、同性から見ても息を呑むほど美しい。柔らかな栗色の髪に、小動物のようなつぶらな琥珀色の瞳をした華奢な少女が、目を潤ませて私を見上げていた。
「あの、ありがとうございました!」
深々と頭を下げた彼女に、私は首を横に振った。
「いいのよ。大丈夫だった?」
「はい、庇っていただいたお蔭です。……すみません、私のせいで濡れてしまいましたね」
慌ててハンカチを差し出した彼女に、私は微笑んだ。
「あなたは何も悪くないのだから、気にしないで」
「あの、お名前を伺っても……?」
ほんのりと頬を染めた、どこか儚げな彼女のあまりの可愛らしさに、私は心臓を打ち抜かれそうになっていた。
「私は五年のディアドリーよ。よろしくね」
「私は、今日四年に編入したミュリエルと申します。よろしくお願いいたします」
彼女から借りたハンカチで手だけを拭いて、私は彼女からおずおずと差し出された手を握り返した。そして、その手にぐっと力を込めながら、目を輝かせて彼女を見つめた。
「頑張ってね、ミュリエル様。私、応援しているから!」
フィリップ様の隣に並ぶなら、性格の悪いフローラ様より、ミュリエル様の方が遥かに相応しい。これほどの美少女なら、フィリップ様に並んでも遜色はないはずだ。きっとそれが気に食わなかったのだろうと、私はフローラ様の胸の内を想像していた。
「ええと、それはどういう……?」
不思議そうに小首を傾げたミュリエル様に手を振って別れると、私は帰路を急いだ。
***
帰宅した私がびしょ濡れなのを見て、お母様は驚いたように目を瞠っていた。けれど、私が何でもないと言ったからか、お母様は諦めたように部屋へと戻っていった。
フィリップ様と会って倒れた一件以降、どこにでもいるような貴族の少女から、がらりと人が変わったように頑なになった私に、両親も匙を投げているようだ。
使用人から受け取ったタオルで身体を拭きながら、自室へと向かって私が廊下を歩いていると、これまたゲーム内では攻略対象のライアンお兄様が、部屋からひょいと顔を覗かせた。
「お帰り、ディア」
「ただいま帰りました、お兄様」
お兄様とは、今まで良好な兄妹関係を築いてきた自信がある。前世の記憶が戻ったばかりの時は、嫌われないようにと細心の注意を払っていたけれど、今のお兄様は私の一番の味方だ。溺愛されていると言ってもいいと思う。彼は、ずぶ濡れの私を見て目を丸くした。
「どうしたんだい、その格好は?」
「ちょっとした諍いに首を突っ込んでしまいまして。でも、たいしたことではありませんわ。それよりも……」
私は、鞄の中にしまっていた、図書室から借りた本が濡れていないことを確認すると、ほっと胸を撫で下ろした。そして、満面の笑みでお兄様にその本を差し出した。
「見てください、この本! さっき、学院の図書室で借りてきたんです」
「ほう。『回復薬の作り方・上級編』ねえ……」
ディアも好きだなあ、とお兄様が呟く。前世の記憶が戻ってからというもの、私は破滅ルート回避の可能性を探って全力を尽くしていた。いくらフィリップ様と婚約せずに済んだとはいえ、私がディアドリー・コンラートである事実に変わりはない。破滅への入口が、どこでぱっくりと口を開けているかもわからないのだ。
手っ取り早く、私は何かあった時のためにとお金を稼ぐことにした。家を追放されても生きていけるようなお金と技術があれば、多少は平穏に生きられそうな気がしたからだ。
ディアドリーは、さすがゲームではメインの悪役令嬢だけあって、魔力も高ければ全方位の魔法も使いこなせる。だから、私は回復魔法を活かして回復薬を作ることにした。幼い頃から練習しているお蔭で、私の回復魔法は相当のレベルになっているようだ。それを、お兄様に仕入れてもらった聖水に込める。やり方にはちょっとしたコツがいるし、それが掴めてきたのも割と最近だけれど、お兄様経由で販売してもらっている回復薬は、なかなか好評らしい。
魔力も消耗するから、身を削って作っているようなところもありつつも、やってみるとなかなか楽しい作業だった。前世から凝り性の私は、今日の放課後も図書室に籠って、回復薬作りに役立ちそうな本を探していたのだ。
「……ディアの作る回復薬は、もう上級どころか特上レベルだと思うよ」
やり手のお兄様のお蔭で、私の薬はかなりの高値で取り引きされているようだ。私の手元にも、もう相当の額が入ってきている。でも、それは私の力というよりも、商売に長けたお兄様の辣腕の賜物だと、そう私は信じている。
「ふふ。お世辞を言ってくださっても何も出ませんよ、お兄様」
お兄様から本を返してもらうと、私は足取り軽く自室に戻った。急いで濡れた服を着替え、ガラスのフラスコに聖水を移す。図書室で借りた本を参考に回復魔法を唱えると、いい具合に聖水がきらきらとした光を帯びた。
「うん。いい感じ……くしゅん」
水をかけられて身体が冷えたせいか、悪寒がしてくしゃみが出た。けれど、作ったばかりの回復薬をスプーンですくってひと舐めしたら、すっかり具合が良くなった。
「上出来だわ。回復魔法が使えてよかった……!」
魔法の才能に長けているというのは、なかなか便利だ。悪役令嬢だっていいこともあるものだと思いつつ、私は上機嫌で、鼻歌を口ずさみながら回復薬作りに励んだ。
***
「ディア様!」
「あら、ミュリー」
にこにこと手を振って駆け寄って来るミュリエル様ことミュリーに、私は瞳を細めた。彼女とは、もう互いに愛称で呼び合う間柄だ。
彼女を庇った一件以降、私はすっかり彼女に懐かれてしまったようだ。まるで子犬のような無垢な瞳で私の後をついてくる彼女は、とても可愛い。一年後輩の彼女は、それまで身体を悪くしていて、ようやく体調を持ち直して学院に編入したのだそう。今も、空気のよい郊外から学院に通っているとの話だった。
私のいるところに、彼女はよく顔を出すようになっていた。それまで遅れていた彼女の勉強をみるうちに、私はすぐに彼女と仲良くなった。地頭が良い上に努力家の彼女は、あっという間に学習の遅れを取り戻した。それまで、破滅ルートの回避ばかりを考えて、学生といえど青春の要素は皆無だった私にとって、気が合う彼女と一緒に学食でご飯を食べたり、帰りがけにお茶をしたりするささやかな時間は、とても幸せなものだった。
(それに、ミュリーったら本当に可愛いんだもの……!)
外見が飛び抜けて可憐なだけでなく、性格まで純粋で優しい彼女のことが、私は大好きだった。それに、あまり令嬢らしくもないこんな私を慕ってくれる。ディア様がお姉様だったらよかったのに、と彼女が呟くのを聞いて、私は感動に震えてしまった。私だって、こんな妹がいたらどれほど幸せだろうか。この世界での推しが誰かと聞かれたら、私は迷わずに彼女の名前を挙げるだろう。
一つだけ私の頭に浮かんだ疑問は、これだけ美しい彼女が、前世のゲームになぜ登場しなかったのだろうということだ。モブにしては、あまりに綺麗過ぎる気がしてならない。
でも、私がフィリップ様と婚約していなかったり、ヒロインのフローラ様の性格があんな感じだったりと、きっとゲームとは違うバグが色々と起きているのだろうと、私はそう自分を納得させていた。
私という悪役が抜けた代わりに、フローラ様が悪役ポジションに落ちて、新しい正ヒロインとして登場したのがミュリーなのではないかと、私は結構真剣にそう考えていた。
フィリップ様は、引きも切らずに縁談が来ているだろうに、なぜかまだ誰とも婚約していない。ヒロインのために、ゲーム補正がかかって空席になっているのかとも思ったけれど、それでもやっぱり不思議だった。できれば、彼にはミュリーを選んで欲しい。こんないい子、滅多にいない。たまたま最近、彼から季節の挨拶のような手紙が来たので、これ幸いと、友人になったミュリーを褒めちぎる手紙を返しておいた。少しでも二人の進展に繋がったら嬉しいと、そう陰ながら願っているところだ。
この日も、帰りがけに彼女と学食でお茶を飲んでいたら、窓の外からフィリップ様がミュリーに向かって手を振っていた。
「あっ……!」
嬉しそうに笑ってフィリップ様に手を振り返したミュリーに、私は満面の笑みを向けた。今世の推しと前世の推しが並ぶところを見られるなんて、最高だ。きっと、二人の婚約が調う日もそう遠くはないことだろう。美男美女の彼らは、誰が見てもお似合いに違いない。
「フィリップ様、あなたを迎えに来てくださったのね。早く行った方がいいわ」
「はい。……あの、よかったらディア様も一緒に行きませんか? 途中までお送りしますから」
私はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「いいえ! 私にはあなたたちを邪魔する気はまったくないから、安心して!!」
思わず言葉に力が入る。これまで会うことを避け続けてきたフィリップ様と、今さらご一緒するつもりはなかった。まあ、ミュリーを推している私が、彼女を害する可能性はないと断言できるけれど。
彼女は残念そうに少し眉尻を下げてから微笑んだ。
「わかりました。ではまた明日、ディア様」
「うん、また明日ね」
彼女と手を振って別れてから、私はふと視線を感じて辺りを見回した。視線の主に気付いて、心臓がどくんと音を立てる。学食の遠くの席から、フローラ様が、フィリップ様の元に向かうミュリーのことを忌々しそうに睨み付けていたのだ。
フローラ様の怒りに染まった顔を見て、私は嫌な予感がしたけれど、フィリップ様が一緒なのだから大丈夫だろうと思い直した。
私の予感がただの予感では済まなかったことがわかったのは、その翌日になってからだった。
授業の合間の移動時間に、階段の下に人だかりができているのを見掛けて、興味本意に近付いた私は息を呑んだ。階段の下に、フローラ様が倒れていたのだ。くじいたらしい足首を痛々しい様子で押さえた彼女は、涙目で階段の上を見上げていた。
「酷いわ! 私が少しフィリップ様とお話ししていたからって、私のことを階段から突き落とすなんて……!」
フローラ様の視線の先には、青ざめたミュリーの姿があった。ミュリーが決してそんなことをしないということをよく知っていた私は、急いで人ごみをかき分けた。
「待って! 彼女はそんなことをする人じゃ……」
私の声は、その場に現れた一人の人物によって遮られた。
「フローラ、どうしたんだ?」
フィリップ様が、フローラ様の身体を抱き起こす。
「それが、ミュリエル様に階段から突き落とされて……」
うるうると瞳を潤ませるフローラ様の迫真の演技は、まるで女優のようだった。
「それに、証人もいるのです」
フローラ様の側にいた彼女の取り巻きたちが、階段の上を見上げてミュリーを睨み付けていた。
「私、見ましたわ。階段を降りてきたミュリエル様が、フローラ様のことを突き飛ばすのを」
「あれは事故ではなく、故意に違いありませんわ」
「フローラ様に嫉妬なさっていたからでは?」
フィリップ様は、眉を寄せて彼女らに尋ねた。
「……本当かい?」
口々にフローラ様を援護する取り巻きたちの言葉を聞いて、すっかり頭に血が上っていた私は、思わず大声で割り込んだ。
「そんなはずありません、フィリップ様。彼女は絶対にそんなことをしないと、私は断言できます」
直接彼と話したのは、ほとんどこれが初めてだった。
昨日のフローラ様の表情を思い出した私は、彼女の芝居に騙されそうになっているように見えるフィリップ様を眺めて、これまで彼を避け続けていたことを忘れてしまうくらい、悔しくてたまらなかったのだ。
憤っている私に向かって、フィリップ様はなぜか目配せをすると、改めて階段の上にいるミュリーを見上げた。
「そこにいる僕の妹が、フローラのことを突き落としたと、そう言うんだね?」
「い、いもうと……?」
真っ青になったフローラ様が口の中で呟いた。彼女の取り巻きたちも、一様に表情を失くしている。私もすぐにはその言葉が呑み込めずにいた。
フィリップ様は頷くと続けた。
「ああ、僕の可愛い妹だよ。彼女はしばらく身体を悪くしていて、空気のよい郊外の叔父と叔母の家で暮らしているし、叔父の家の名前で入学しているから、君たちが知らなくても無理はないけれどね」
言葉が出ないまま、はくはくと口を開いたり閉じたりしていたフローラ様に向かって、彼は冷ややかな目を向けた。
「ミュリーがそんなことをするはずがないってことは、僕もよく知っている。大事な妹に向かってこんな真似をするなんて、簡単に君たちを許すつもりはないよ」
へなへなと崩れ落ちたフローラ様を眺めてから、私はぽかんと口を開けてミュリーを見つめていた。
「え……妹? フィリップ様の?」
ミュリーは申し訳なさそうに私を見つめ返した。
「はい。今まで内緒にしていて、ごめんなさい」
(じゃあ、フィリップ様が彼女を迎えに来ていたのも……)
どうやら、私は明後日の方向で都合の良い勘違いをしていたようだった。前世の推しと今世の推しが、兄妹だったなんて。でも、ミュリーのあの美貌は、フィリップ様の妹と言われれば頷けた。どことなく面影が似ているような気もしなくはない。
顔を上げたフローラ様が、ヒステリックに叫んだ。
「何よ、それ!? ミュリエルなんて子、あのゲームには出てこなかったのに!!」
驚いている私を、彼女はきっと睨み付けた。
「元はと言えば、あなたがちゃんと役割を果たさないからいけないのよっ……!!」
フローラ様は、どうやら私と同じく転生者だったようだ。困っている私に、フィリップ様が助け船を出してくれた。
「よくわからない文句を、僕の大切なディアドリーに言われても困るな」
「……!?」
何が起きているのかわからなくなった私に、彼はうっとりするような笑みを向けた。
「ディアドリー、今なら僕との婚約を受けてくれるかな?」
「え」
脳内がフリーズした私の前で、彼はミュリーと目を見交わした。
「ミュリーに、姉にするなら君以外には考えられないと聞いているんだが、どうだろう? 少し考えてみてはくれないか」
「そ、それは……」
確かにとても魅力的な提案ではあったけれど、破滅ルートへの恐怖は、未だに私の心に根深く残っている。
ぷつりと思考回路がショートした私は、目の前がぐにゃりと歪むのを感じると、フィリップ様と初めて会った時以来、その場でばたりと倒れた。
***
私が目を覚ますと、自室のベッドの上にいる私を、フィリップ様とミュリーが心配そうに覗き込んでいた。
幾度か目を瞬いて、ようやく我に返った私は、恐る恐る二人を見上げた。
フィリップ様の顔をこれほど間近で見るのは、初めて会った時以来だった。幼い頃より、さらにずっと麗しく成長していた彼の姿に、私の胸はどきどきと跳ねる。
「あの……」
困惑気味に頬を染めた私に向かって、彼は優しく微笑んだ。
「驚かせてしまって、ごめんね」
そう言ってから、彼はぽつぽつと今までのことを話し始めた。初めて会った日から、私のことを忘れられずにいたこと。けれど、私に拒否されたために、それ以上嫌われたくなくて距離を詰められずにいたこと。私からの手紙はすべて大切に取ってあること、学院内でも私のことをよく見つめていたこと、等々。
「僕との婚約を断られた時には、正直言って驚いたけれど。多くの令嬢たちとは違って、魔法の腕を磨くことに全力を傾ける君を、僕は心から尊敬している。とびきり美しい上に、ミュリーを庇ってフローラ嬢にも勇敢に立ち向かう君を見て、改めて惚れ直したよ」
初めて聞く、想像もしていなかった彼の本音に、私は胸がぎゅっと締め付けられるようだった。自分の破滅ルート回避しか考えず、こんなに素敵な彼を傷付けてしまっていたことが申し訳なかった。
さらに、私の作った回復薬を彼が妹に飲ませていたと聞いて、私は目を丸くしていた。
それまでは外出もままならずに臥せっていたミュリーが、私の薬を飲んでからここまで回復したというのだ。
「それは本当ですか?」
「ああ。君が作った薬なら、きっと間違いないと思ってね」
前世のゲーム内でミュリーが登場しなかった理由がようやく呑み込めた私に、彼女はとびきり可愛らしい笑みを向けた。
「ディア様は、私の恩人です」
「……どうして、フィリップ様の妹だと教えてくれなかったの?」
「ごめんなさい、兄に口止めされていて。どうやら兄は嫌われているようだから、妹だと知られたら、私もお友達になってはいただけないかもしれないと」
それは確かに的を射ていた。もし彼女がフィリップ様の妹だと知っていたなら、破滅ルートの気配を感じて彼女を避けていたかもしれない。
ミュリーは瞳を潤ませると、私の顔を覗き込んだ。
「これからも、仲良くしていただけますか?」
「ええ、もちろん」
私はすぐに頷いた。
「では、ディア様。私の本当のお義姉様になってはいただけませんか?」
そう畳み掛けられて、私はぐっと言葉に詰まった。このミュリーの表情を前にして、首を横に振るのは至難の技だ。フィリップ様も、祈るような切実な瞳を私に向けている。そんなに美しい瞳で見つめられたら、後戻りできなくなりそうなのでやめてほしい。
私は少し別方向に話を変えてみることにした。
「そう言えば、あの後フローラ様は?」
「王立学院の退学が決まったよ。彼女はあれ以外にも、ミュリーに色々と嫌がらせをしていたんだ。彼女の取り巻きたちもしばらく停学になる」
「そうでしたか」
「まあ、決定的な証拠を掴むために、今まで彼女を泳がせていたんだけどね。よくわからないことを喚いていたから、君も気味が悪かっただろう」
「そ、そうですね……」
ミュリーにもう危害が及ばないことにほっとしつつ、私は曖昧に笑った。ここがゲームの世界なのだと言ったら、私の気が触れたと思われるだろうか。
助けを求めるように、二人の後ろにいたお兄様に視線を向けると、彼はからりと笑った。
「願ってもない話じゃないか、ディア。これまで君に来ていたほかの縁談は、俺の目に適う男がいなくて断り続けていたけれど、彼なら俺も賛成だよ」
「お、お兄様まで……!」
そう言えば、適齢期になっても他の縁談が来ないなと思ってはいたけれど、私が変わり者のせいだからかと流していたのだ。
お兄様が私を溺愛していることは知っていたけれど、まさか彼がその犯人だったなんて。
逃げ場を無くした私は、フィリップ様を見つめておずおずと尋ねた。
「では、まずはお友達からお願いできますか?」
「わかったよ、ありがとう」
彼の眩しいような笑みに、私は頭がくらくらとした。抜けられない沼に沈み込んでいくような、そんな感覚だ。
(もしフィリップ様と結婚したら、前世の推しが旦那様になって、今世の推しが義妹に……)
私にはでき過ぎた幸せだと、そうぐるぐると考えていた私に、彼はその美麗な顔を寄せて囁いた。
「僕の想いがどれほどか、君は知らないみたいだね。僕は必ず、君を振り向かせてみせるから」
頬にかあっと熱が集まるのを感じていた私に、彼が続ける。
「何か、事情があるようにも見えるけれど。何があっても、僕は君をずっと大切にするよ」
勘の鋭いフィリップ様に、私は涙が出そうになっていた。
(もしも何かあったとしても、回復薬を作って独り立ちする手もあるかしら……)
それでもまだそんな理屈で考えていた私に、フィリップ様は軽く爆弾を落とした。
「好きだよ、ディア」
彼の言葉の甘い響きに、私の理性は吹っ飛んでいた。
フィリップ様に優しく手を取られ、私は思わず頷いてしまった。真っ赤になっているだろう私を見て、ミュリーとお兄様は嬉しそうに笑っている。
胸に広がる甘やかな感情に、初めてそのまま身を委ねた私は、はにかみながらもフィリップ様にいっぱいの笑みを返した。