マグノリア・ブルーム〜辺境伯に嫁ぎましたが、私はとても幸せです
雷
オーウェルさんとお別れして帰る途中、何の気なしに葡萄農園を振り返った。
(あら?)
葡萄の木の間に、灰色のマントで全身を覆っている人が見えた。
私は立ち止まり、目を凝らす。
(アンドレイ様?)
灰色の影はサッと移動して、木立に消えた。無意識に、私の足は葡萄農園を目指していた。
「お嬢様?」
「フェリス、アンドレイ様が農園にいらっしゃるわ」
きょろきょろと見回してみたが、誰もいない。
「もう、働いてる人たちも引き上げてるみたいですけど。ほら、お天気良くないですし」
フェリスが不安そうに言う。
「そうね。見間違いよね」
アンドレイ様が、弟君の農園に来ることなど無さそうだし……。それに、仮にアンドレイ様を見かけたところで、何をお話しすればいいかわからない。
「ごめんなさいね、さ、帰りましょう」
フェリスと私は、さっきより早足で歩き始めた。雨はまだ降る気配はないけれど、思ったより早く空が暗くなってきた。
そのうち、早足というよりも駆け足に近くなっていく。私たちの間に会話はなく、ふうふうという呼吸音だけ。
「お、じょ、さまっ」
「なぁ、に?」
「ゴロッ、ゴロ、いっ、てま、っせんか?」
さっきから雷らしき音が聞こえてくる。
「まっだ、だい、じょぶ」
「そ、で、すね」
青空が広がっているけれど、黒雲は少しずつ大きくなってきた気がする。
「きゃっ!」
フェリスが悲鳴を上げた。
「どうしたの!」
「稲光!」
私は雲が広がっているほうの空を見上げた。
たしかにピカピカ光るものが走り、しばらくしてからゴロゴロと音も。
「まだ遠いわ、大丈夫」
ようやく池のそばに戻って来れた時には、空はすっかり暗くなっていた。
「なんとか降られることなく帰れそうよ」
と言った瞬間、雷の大きな音がした。
「きゃあ!」
フェリスが両手で頭を押さえ、しゃがみ込んだ。再び雷の音がする。
「耳がぁー! うわぁん」
私はフェリスを助け起こし、背中を撫でてやる。
「フェリス、しっかり」
彼女は猫耳族だから敏感なのだ。全ての音が、私たちが捉えるよりも大きな音に聞こえているはず。
泣いているフェリスが、頭を押さえたまま顔を上げた。
「あれ?馬のひづめの音?」
「うま?」
たしかに、どこからかリズミカルに地面を刻む音がしている。次第に、それは近づいてきた。
「マリナ姫!」
「リヒャルト様?」
私たちのすぐそばに、栗毛の馬が2頭。片方の馬の鞍に跨って、私たちを見下ろしているのはリヒャルト様だった。
「どうしたのですか? こんなところで何を……。おや、フェリス嬢はどうかしたのですか?」
ひらりと馬から降りたリヒャルト様は、私の前に跪いた。
もう一頭の馬に乗っている人も馬を降り、自分の馬とリヒャルト様の馬の手綱を取っている。
「私たち、ピクニックに行ってましたの。楽しくて、いつの間にかこんな時間に」
「そうでしたか。雨が来そうだ。お送りしましょう」
リヒャルト様に手を取られ、私はよろけるように立ち上がり馬に乗った。
フェリスは半ば気を失っている状態で、もう一頭の馬に乗せられている。
「ジョシュア、頼んだぞ」
「お任せあれ」
もう一頭の馬に乗った人は、器用にフェリスを横抱きにして手綱を操り、先に駆け出した。
ポツンと雨がひとしずく、私の頭に落ちてきた。
「雨が」
「降ってきましたか? 雨のしずくを一番最初に受けた人は、良い知らせがじきに訪れるそうですよ」
「本当ですか?」
「カザールの言い伝えです」
リヒャルト様は微笑んで、背後からそっと、私を包み込むように手綱を取った。