【辛口ヒューマンドラマ】雲にのりたい
第3話
時は、1969年8月2日の昼過ぎであった。
ところ変わって、松山市の海沿いにあるばいしんじパーク(遊園地・今はない)にて…
この日は、夏休みの学年行事・お泊り海水浴の二日目であった。
私たち児童たちは、引率の先生たちと一緒に園内にある野外コンサート場にいた。
このあと、午後1時から黛ジュンさんのミニコンサートがひらかれる予定であった。
午後1時になった。
南海放送の女子アナウンサーがステージに上がった。
同時に、おおぜいのお客さまたちが拍手をした。
女子アナウンサーの軽めのあいさつのあと、地元のアマチュアバンドの演奏が始まった。
このあと、歌のゲストの黛ジュンさんが歌いながらステージに上がった。
一曲目は、なかにし礼先生の作詞・鈴木邦彦先生の作曲の『恋のハレルヤ』であった。
コンサートの前半は、楽しい歌がつづいた。
コンサートの最後の曲は、ものすごく悲しい歌『雲にのりたい』であった。
私は、大つぶの涙を流しながら歌を聴いた。
…………
時は流れて…
1986年5月29日夜…
26の私は、行きつけの焼き鳥屋にいた…
テレビの画面に、長山洋子さんが『雲にのりたい』を歌っている様子が映っていた。
歌を聴きながら泣いている私は、のみかけのホッピーを一気にのみほしたあと店のおっちゃんにおかわりを求めた。
「おっちゃん!!もう一本!!」
店のおっちゃんは、ものすごく困った声で言うた。
「もうそのへんでやめとき〜」
「のみてーんだよ…一本つけろ!!」
「なんぎなやっちゃのぉ〜」
めんどくさい表情を浮かべているおっちゃんは、サーバーを使って中ジョッキにホッピーをついだ。
その後、おっちゃんはおかわりのホッピーを私に渡した。
この時、テレビに映っている長山洋子さんが二番の歌詞を歌い始めた。
私は『うう…』と泣きながらホッピーをふたくちのんだ。
おっちゃんは、あつかましい声で私に言うた。
「おい、泣きよんか!?」
私は、泣きながらおっちゃんに言うた。
「歌が悲しいから泣いているのだよ~」
おっちゃんは、よりあつかましい声で私に言うた。
「なさけないのぉ~…大の男がビービービービービービービービービービー泣くな!!」
「ほっといてくれ!!…オレは…ちいちゃいときから…つらいこと…かなしいことがつづいたのだよ…」
「なにいよんぞ!!戦後生まれのくせになさけないことを言うな!!」
「決めつけんなよ!!そう言うあんたはなんぞぉ!!」
「わしは、まずしい家に生まれたのだ!!」
「それがどうしたと言うのだ!?」
「お前は両親のいる家で生まれ育ったからしあわせイッパイじゃないか!?」
「あんたが言うしあわせとはその程度か!?」
「ほかになにがあるねん!?」
「ほかになにがあるって…」
「両親ときょうだいたちがいて、家族たちが暮らす家がある…それ以外になにがあるねん?」
おっちゃんが言うた言葉にブチ切れた私は、のみかけのホッピーを一気にのみほしたあとまたおかわりを求めた。
この時、私はメイテイ状態におちいった。
「おい、一本つけろ!!」
「やめとき!!」
「一本つけろと言うたら一本つけろ!!」
「分かったもう!!」
おっちゃんは、ブツブツ言いながら空の中ジョッキを持って行った。
このあと、私はホッピー中ジョッキを2〜3本おかわりした。
この時、テレビの画面は『中村敦夫の地球発22時』(ドキュメンタリー番組)に変わっていた。
時は、深夜11時50分頃であった。
またところ変わって、伊予港の内港の岸壁にて…
私は、自販機で購入した山丹正宗《ヤマタン》のワンカップ酒をのみながら真夜中の海を見つめていた。
私は、店のおっちゃんから言われた言葉が気に入らないので怒っていた。
戦後生まれだからなんじゃあ言いたいのだ!?
親きょうだいたちがいるから幸せだと!?
おっちゃんが言うしあわせってその程度だから話にならん…
私は、のみかけの山丹正宗《ヤマタン》をひとくちのんだあと改めて自分の人生を思い起した。
私が暮らしていた家の家族は、養父母《りょうしん》と義姉《あね》ふたりと私の5人だった。
私は、生まれた時から養護施設《しせつ》で暮らしていたから実の両親の顔を知らない…
養父母《りょうしん》との関係は、あんまりよくなかった。
ふたりの義姉《あね》のうち、私にやさしく接したのはゆかりであった。
よしみは、性格が悪いから大キライだった…
山尾の家は、都倉《とくら》の家と親類関係はないが、なんらかのことでオンギがあったと思う…
今治市内《じもと》の小学校に通っていた時に、親しい友人がいたかどうか…
いなかったと思う。
小学4年生を終了したあと、県外《よそ》にある全寮制のガッコーへ転校した…
転校先のガッコーにも親しい友人はいなかった…
それ以上のことは、全くおぼえてない…
………
私は、ジャンパーの前のポケットに入っていたセブンスター(たばこ)と電子ライターを取り出した。
(カチッ…ポッ…)
その後、口にくわえているたばこに火をつけた。
私は、たばこをくゆらせながらのみかけの山丹正宗《ヤマタン》をのんだ。
この時、私はものすごく悲しかったあの頃をまた思い出した。
ところ変わって、松山市の海沿いにあるばいしんじパーク(遊園地・今はない)にて…
この日は、夏休みの学年行事・お泊り海水浴の二日目であった。
私たち児童たちは、引率の先生たちと一緒に園内にある野外コンサート場にいた。
このあと、午後1時から黛ジュンさんのミニコンサートがひらかれる予定であった。
午後1時になった。
南海放送の女子アナウンサーがステージに上がった。
同時に、おおぜいのお客さまたちが拍手をした。
女子アナウンサーの軽めのあいさつのあと、地元のアマチュアバンドの演奏が始まった。
このあと、歌のゲストの黛ジュンさんが歌いながらステージに上がった。
一曲目は、なかにし礼先生の作詞・鈴木邦彦先生の作曲の『恋のハレルヤ』であった。
コンサートの前半は、楽しい歌がつづいた。
コンサートの最後の曲は、ものすごく悲しい歌『雲にのりたい』であった。
私は、大つぶの涙を流しながら歌を聴いた。
…………
時は流れて…
1986年5月29日夜…
26の私は、行きつけの焼き鳥屋にいた…
テレビの画面に、長山洋子さんが『雲にのりたい』を歌っている様子が映っていた。
歌を聴きながら泣いている私は、のみかけのホッピーを一気にのみほしたあと店のおっちゃんにおかわりを求めた。
「おっちゃん!!もう一本!!」
店のおっちゃんは、ものすごく困った声で言うた。
「もうそのへんでやめとき〜」
「のみてーんだよ…一本つけろ!!」
「なんぎなやっちゃのぉ〜」
めんどくさい表情を浮かべているおっちゃんは、サーバーを使って中ジョッキにホッピーをついだ。
その後、おっちゃんはおかわりのホッピーを私に渡した。
この時、テレビに映っている長山洋子さんが二番の歌詞を歌い始めた。
私は『うう…』と泣きながらホッピーをふたくちのんだ。
おっちゃんは、あつかましい声で私に言うた。
「おい、泣きよんか!?」
私は、泣きながらおっちゃんに言うた。
「歌が悲しいから泣いているのだよ~」
おっちゃんは、よりあつかましい声で私に言うた。
「なさけないのぉ~…大の男がビービービービービービービービービービー泣くな!!」
「ほっといてくれ!!…オレは…ちいちゃいときから…つらいこと…かなしいことがつづいたのだよ…」
「なにいよんぞ!!戦後生まれのくせになさけないことを言うな!!」
「決めつけんなよ!!そう言うあんたはなんぞぉ!!」
「わしは、まずしい家に生まれたのだ!!」
「それがどうしたと言うのだ!?」
「お前は両親のいる家で生まれ育ったからしあわせイッパイじゃないか!?」
「あんたが言うしあわせとはその程度か!?」
「ほかになにがあるねん!?」
「ほかになにがあるって…」
「両親ときょうだいたちがいて、家族たちが暮らす家がある…それ以外になにがあるねん?」
おっちゃんが言うた言葉にブチ切れた私は、のみかけのホッピーを一気にのみほしたあとまたおかわりを求めた。
この時、私はメイテイ状態におちいった。
「おい、一本つけろ!!」
「やめとき!!」
「一本つけろと言うたら一本つけろ!!」
「分かったもう!!」
おっちゃんは、ブツブツ言いながら空の中ジョッキを持って行った。
このあと、私はホッピー中ジョッキを2〜3本おかわりした。
この時、テレビの画面は『中村敦夫の地球発22時』(ドキュメンタリー番組)に変わっていた。
時は、深夜11時50分頃であった。
またところ変わって、伊予港の内港の岸壁にて…
私は、自販機で購入した山丹正宗《ヤマタン》のワンカップ酒をのみながら真夜中の海を見つめていた。
私は、店のおっちゃんから言われた言葉が気に入らないので怒っていた。
戦後生まれだからなんじゃあ言いたいのだ!?
親きょうだいたちがいるから幸せだと!?
おっちゃんが言うしあわせってその程度だから話にならん…
私は、のみかけの山丹正宗《ヤマタン》をひとくちのんだあと改めて自分の人生を思い起した。
私が暮らしていた家の家族は、養父母《りょうしん》と義姉《あね》ふたりと私の5人だった。
私は、生まれた時から養護施設《しせつ》で暮らしていたから実の両親の顔を知らない…
養父母《りょうしん》との関係は、あんまりよくなかった。
ふたりの義姉《あね》のうち、私にやさしく接したのはゆかりであった。
よしみは、性格が悪いから大キライだった…
山尾の家は、都倉《とくら》の家と親類関係はないが、なんらかのことでオンギがあったと思う…
今治市内《じもと》の小学校に通っていた時に、親しい友人がいたかどうか…
いなかったと思う。
小学4年生を終了したあと、県外《よそ》にある全寮制のガッコーへ転校した…
転校先のガッコーにも親しい友人はいなかった…
それ以上のことは、全くおぼえてない…
………
私は、ジャンパーの前のポケットに入っていたセブンスター(たばこ)と電子ライターを取り出した。
(カチッ…ポッ…)
その後、口にくわえているたばこに火をつけた。
私は、たばこをくゆらせながらのみかけの山丹正宗《ヤマタン》をのんだ。
この時、私はものすごく悲しかったあの頃をまた思い出した。