二度目の嫁入りは桜神の街~身ごもりの日々を溺愛の夫に包まれて~
1 婚家にて
咲希が嫁いだとき、婚家は満開の華やぎの中にあった。咲希は当主が旅先で心を奪われて、ぜひ孫に嫁いでほしいと望まれてやって来た。
けれど当主であった大父が亡くなり、息子が事業を継いでからは目に見えて婚家は衰退した。商売は振るわず、一族は粗野なふるまいをし始めた。
咲希もまた、その頃から使用人の一人に落とされ、やがては納屋で眠る日々を送るようになった。
咲希が水仕事を終えて、夜遅くに納屋に向かう途中、今や籍だけとなった夫が母屋から降りてきて言った。
「家に置いてもらえるだけありがたいと思えよ。じいさんをたぶらかした遊び女が」
咲希には、それに言い返す気力が残っていなかった。この頃咲希は肺を悪くして、冷えた納屋で一晩中咳をしていることもあった。
夫は倒産寸前の会社を抱えて使用人たちに当たり散らし、特に咲希へは暴君そのものだった。
夫は背を反らして咲希を嗤う。
「じいさんの手垢のついた女なんぞ、もらう男はどこにもいないだろうからな」
咲希は初夜のとき、夫に淫婦と罵られた。じいさんの手垢のついた女など抱く気にならんと、今日まで夫婦らしい夜を過ごしたこともない。
それは仕方ないことなのかもしれないと、咲希はあきらめてきた。夫は事業で追い詰められて、誰かを信用する気持ちも失せてしまったのだろう。
咲希とて夫への愛は既にない。けれど故郷は遠い土地で、病を抱えた身で無一文にこの家を追い出されては、無事たどり着くことさえできないのかもしれなかった。
咲希は一人、納屋に入り込むと藁の中でうずくまって細い息をつなぐ。その中で遠い故郷のことを思った。
竹林を抜けた先の坂道を上り、風が薫りながら空から舞い降りるところ。春には満開の桜が花開いて、咲希を包んでくれた。
けれどそこに住んでいた人たちを思い出そうとしてもできないのが、ずっと不思議だった。故郷の人々のことを思うと夢の中のように儚い心地になって、やがて霧に隠されるように何も見えなくなってしまう。
きっと大父に言われた言葉のためだ。何もかも忘れるほどの地上の栄華に包むから、何も持たずに故郷を出てきておくれと。
咲希は大父を想うと、今もほのかな温もりを心に抱く。大父とは、決して夫の言うように、男女の仲になったわけではない。大父は咲希が初めて来たときから彼がこの世を去るまで、父のように、祖父のように咲希を守ってくれた人だった。
……夫の暴言にも使用人たちの惨い仕打ちにさらされてもこの家にいた本当の理由は、大父に預けた心を取り戻せなかったからだ。
咲希はまぶたの裏に大父を思い描こうとして、もう大父の姿を描けないことに気づいた。
自分は今夜死ぬのだろうか。ふとそう思いながら、それもいいと眠りに身を委ねた。
納屋は厳冬の寒さの中、そのまま命さえ吸い取られそうだった。
そのとき咲希の耳に涼しげな男性の声が聞こえた。
「……ようやく解ける」
そのひとはこいねがうように告げる。
「咲希、もう少しだ。あと少しで俗世の縁が切れる。……帰ろう、私たちの故郷に」
私を親しげに呼ぶ、あなたは誰?
咲希が問う前に、そのひとは眠りに落ちていた咲希を腕の中に包み込んで、泣くように笑った。
けれど当主であった大父が亡くなり、息子が事業を継いでからは目に見えて婚家は衰退した。商売は振るわず、一族は粗野なふるまいをし始めた。
咲希もまた、その頃から使用人の一人に落とされ、やがては納屋で眠る日々を送るようになった。
咲希が水仕事を終えて、夜遅くに納屋に向かう途中、今や籍だけとなった夫が母屋から降りてきて言った。
「家に置いてもらえるだけありがたいと思えよ。じいさんをたぶらかした遊び女が」
咲希には、それに言い返す気力が残っていなかった。この頃咲希は肺を悪くして、冷えた納屋で一晩中咳をしていることもあった。
夫は倒産寸前の会社を抱えて使用人たちに当たり散らし、特に咲希へは暴君そのものだった。
夫は背を反らして咲希を嗤う。
「じいさんの手垢のついた女なんぞ、もらう男はどこにもいないだろうからな」
咲希は初夜のとき、夫に淫婦と罵られた。じいさんの手垢のついた女など抱く気にならんと、今日まで夫婦らしい夜を過ごしたこともない。
それは仕方ないことなのかもしれないと、咲希はあきらめてきた。夫は事業で追い詰められて、誰かを信用する気持ちも失せてしまったのだろう。
咲希とて夫への愛は既にない。けれど故郷は遠い土地で、病を抱えた身で無一文にこの家を追い出されては、無事たどり着くことさえできないのかもしれなかった。
咲希は一人、納屋に入り込むと藁の中でうずくまって細い息をつなぐ。その中で遠い故郷のことを思った。
竹林を抜けた先の坂道を上り、風が薫りながら空から舞い降りるところ。春には満開の桜が花開いて、咲希を包んでくれた。
けれどそこに住んでいた人たちを思い出そうとしてもできないのが、ずっと不思議だった。故郷の人々のことを思うと夢の中のように儚い心地になって、やがて霧に隠されるように何も見えなくなってしまう。
きっと大父に言われた言葉のためだ。何もかも忘れるほどの地上の栄華に包むから、何も持たずに故郷を出てきておくれと。
咲希は大父を想うと、今もほのかな温もりを心に抱く。大父とは、決して夫の言うように、男女の仲になったわけではない。大父は咲希が初めて来たときから彼がこの世を去るまで、父のように、祖父のように咲希を守ってくれた人だった。
……夫の暴言にも使用人たちの惨い仕打ちにさらされてもこの家にいた本当の理由は、大父に預けた心を取り戻せなかったからだ。
咲希はまぶたの裏に大父を思い描こうとして、もう大父の姿を描けないことに気づいた。
自分は今夜死ぬのだろうか。ふとそう思いながら、それもいいと眠りに身を委ねた。
納屋は厳冬の寒さの中、そのまま命さえ吸い取られそうだった。
そのとき咲希の耳に涼しげな男性の声が聞こえた。
「……ようやく解ける」
そのひとはこいねがうように告げる。
「咲希、もう少しだ。あと少しで俗世の縁が切れる。……帰ろう、私たちの故郷に」
私を親しげに呼ぶ、あなたは誰?
咲希が問う前に、そのひとは眠りに落ちていた咲希を腕の中に包み込んで、泣くように笑った。