二度目の嫁入りは桜神の街~身ごもりの日々を溺愛の夫に包まれて~

15 愛の言葉

 川沿いの菓子屋に出かけた日、咲希は家に帰ることができなかった。
 行きは易かった遊歩道が帰りは歩き通せず、青慈がタクシーを呼んで咲希を病院に連れていった。
 待合室で泥のような眠りに落ちて……目覚めたときには白い病室で、点滴につながれていた。
 ベッドの脇に座る青慈が、咲希の手をつかんでいた。いつも咲希の手を包むように彼は手をつなぐのに、今は縋るように堅く握りしめていた。
 咲希は青慈を見上げてつぶやく。
「赤ちゃんに、何か」
 悪い想像を口にしようとした咲希に、青慈は無理に笑った。
「心配要らない。赤ちゃんは元気だよ」
 咲希は笑い返して、それならよかったと胸を撫でおろした。
 けれど青慈がまとう緊張は咲希にも伝わっていた。彼が「元気」という言葉を告げたときの陰を、肌で感じていた。
 繰り返す検査で、咲希は赤ちゃんの成長を見てきた。咲希の人体の知識は学校の教養程度だが……赤ちゃんの成長は速すぎるように思った。
 青慈は咲希の体を起こして彼女の背中に枕を入れると、ベッドに座って切り出した。
「……近く、帝王切開が必要だそうだ」
 咲希はそれを聞いて、やっぱりと思った。
 十月十日を待つ前に赤ちゃんは成長する。それが意味するところを、化学者の咲希は察してしまった。
 咲希の体は、穴の空いた風船のように力が入らない。お腹の赤ちゃんはそれくらい元気なのだった。
 咲希は青慈に頼んで体を横たえてもらうと、彼を見上げた。
 いつも咲希を守り、過保護に労わる夫は、予想していなかった事態に混乱しているようには見えなかった。咲希の手をつかんで、離すまいとしているように見えた。
 咲希はふと微笑んだ。なぜだか彼に会えるのが最後のような気がして、それなら言葉にして伝えようと思った。
「青慈さん。まだ伝えていませんでした。ずっと、あなたと会ったときから愛しています」
 咲希が心を告げると、青慈は息を呑んで、言葉を覆うように返した。
「言っただろう? 心配は要らない。ここは医師も設備も揃ってる」
 咲希は次第に混濁していく意識の中でうなずいた。
 青慈は嘘を言っていないと思う。きっとこの病院は優れた病院で、経験も設備も備えているのだろう。
 でも咲希はそろそろ彼と、この街の秘密に気づいている。この街は清浄で、穏やかで、どこにも汚れがない。
 それはとてもシンプルな理由からなのだと思う。……この街は、人の街ではないのだ。
 青慈は強い調子で言葉をかける。
「咲希、君は僕と歩いていく人なんだ。どこにも行かせない」
 彼がそう言ったとき、それは海の底で響くように聞こえた。
 咲希はもう声が出ないのをもどかしく思いながら、心で思う。
 ……二度目の嫁入りは、これ以上なく幸せでした。あなたのおかげです。
 咲希は闇の中にぽっかりと空いた穴のような意識の濁りへ、さかさまに落ちていった。
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