二度目の嫁入りは桜神の街~身ごもりの日々を溺愛の夫に包まれて~
2 夜の橋
咲希は白嶺街で生まれて育ち、そこで結婚した。
でも時々、他の遠い街に巡って帰ってきたような錯覚を抱くのは、白嶺街のことをまだ少しもわかっていない自分がいるからだった。
白嶺街はどちらかというと田舎ではあるが、生活に必要なものは歩いて買いに行ける範囲にあった。住処に選んだところから歓楽街は橋の向こうに離れていて、橋のこちら側は道の脇で野菜を育てているようなところだった。
特別なところは……言葉にするのは恥ずかしかったが、実ははっきりしている。夫の青慈に出会ったことだ。
「咲希に出会えたことが、僕の人生で最良の出来事だったよ」
臆面もなくそう告げた青慈は、初めて出会ったときから咲希を宝物のように扱ってくれた。
彼は咲希と初めて出会ったとき、心から安堵したように言った。
「ずっと離れ離れだった人にようやく再会したような気分なんだ」
「私はどこにも行っていませんよ。ずっと白嶺街にいました」
咲希はその日、初めて就職して職場の先輩たちに迎えられた。
そこに青慈もいた。彼は白いシャツの似合う長い手足と、切れ長の綺麗な目をしていた。咲希より一回り年上の落ち着いた物腰の男性で、慈しむような目で咲希を見て言った。
「じゃあ笑って聞いてほしい。……おかえり。待っていた」
咲希はもう青慈に惹かれていたから、密かに胸は高鳴った。
けれどそれは酒の席での会話で、明日からずっと続くのかまだ自信はなかった。
ただその心配をしたのはひとときだった。青慈は翌日から休み時間になるたび、咲希の元を訪れた。同僚たちに苦笑されても変えなかった。
互いのことを話して、仕事の帰りに一緒に食事に行って、その間隔が次第に狭くなっていった。
ある日、いつものように青慈にアパートまで送ってもらったとき、不思議な錯覚に陥った。
青慈は咲希のまなざしの意味に気づいたのか、ぽんと頭を軽く叩くように言った。
「一人が嫌?」
咲希はずっと昔から青慈といたのに、長く離れていたような、切ない気持ちに襲われた。
咲希は自分は大人だと思って、慌てて返した。
「大丈夫です。送ってくれてありがとう」
そう言いながら、また寂しいような思いになっていた。
咲希は幼い日に父を、昨年母を亡くしていて、一人きりの春は初めてだった。
ちゃんとしないと。そう自分に言い聞かせると、顔を上げて外に出た。
咲希の住むアパートは昔からここに住んでいる人たちの家々の中に、取り立てて新しいというほどではない程度の築年数で混ざっている。古い住人とのトラブルも地域同士の関係も気にするほどは無く、今日も至って静かな夜が広がっていた。
それほど遅い時間でもないからいいとアパートを離れて、北に向かう。
北の橋を渡れば歓楽街だが、そこまで行くつもりはなかった。職場の歓迎会も橋のこちら側で開かれたくらいで、橋の向こうに行く必要はない。
振り返ると、夜の灯りで照らされた白嶺街が見えた。橋を渡れば、白嶺街の外だとも気づいた。
堤防の上の白い桜が夜に枝葉を広げている光景を見ているうちに、どこにも行き難い気持ちにさせられた。
バッグから携帯電話を取り出して、青慈に電話をかけようとした。
コールボタンの上に触れた咲希の指、そこに優しく指が重なったのは、そのときだった。
後ろから伸ばされた手が自分の手に重なって、咲希は振り向いた。
風に乗って白い桜の花びらが降りてくる。その最中に青慈が立っていて、咲希に言った。
「結婚して、一緒に暮らそうか」
まるで彼の指に吸い込まれるように、携帯電話の電源が落ちた。
咲希が息を呑んで立ちすくむと、青慈は優しく告げた。
「君が覚えていないずっと前から、僕は君を想ってきた。これからは側で、君を守っていいだろうか」
宵闇に座す桜から目を逸らせないように、咲希は彼をみつめ返した。
咲希は桜の幹にそっと心を預けるように、彼に背を預けた。
「……はい」
うなずいた咲希を、青慈は後ろから腕に包み込んだ。
夜の橋の上、一つの樹になったように、二人は互いに身を寄せていた。
でも時々、他の遠い街に巡って帰ってきたような錯覚を抱くのは、白嶺街のことをまだ少しもわかっていない自分がいるからだった。
白嶺街はどちらかというと田舎ではあるが、生活に必要なものは歩いて買いに行ける範囲にあった。住処に選んだところから歓楽街は橋の向こうに離れていて、橋のこちら側は道の脇で野菜を育てているようなところだった。
特別なところは……言葉にするのは恥ずかしかったが、実ははっきりしている。夫の青慈に出会ったことだ。
「咲希に出会えたことが、僕の人生で最良の出来事だったよ」
臆面もなくそう告げた青慈は、初めて出会ったときから咲希を宝物のように扱ってくれた。
彼は咲希と初めて出会ったとき、心から安堵したように言った。
「ずっと離れ離れだった人にようやく再会したような気分なんだ」
「私はどこにも行っていませんよ。ずっと白嶺街にいました」
咲希はその日、初めて就職して職場の先輩たちに迎えられた。
そこに青慈もいた。彼は白いシャツの似合う長い手足と、切れ長の綺麗な目をしていた。咲希より一回り年上の落ち着いた物腰の男性で、慈しむような目で咲希を見て言った。
「じゃあ笑って聞いてほしい。……おかえり。待っていた」
咲希はもう青慈に惹かれていたから、密かに胸は高鳴った。
けれどそれは酒の席での会話で、明日からずっと続くのかまだ自信はなかった。
ただその心配をしたのはひとときだった。青慈は翌日から休み時間になるたび、咲希の元を訪れた。同僚たちに苦笑されても変えなかった。
互いのことを話して、仕事の帰りに一緒に食事に行って、その間隔が次第に狭くなっていった。
ある日、いつものように青慈にアパートまで送ってもらったとき、不思議な錯覚に陥った。
青慈は咲希のまなざしの意味に気づいたのか、ぽんと頭を軽く叩くように言った。
「一人が嫌?」
咲希はずっと昔から青慈といたのに、長く離れていたような、切ない気持ちに襲われた。
咲希は自分は大人だと思って、慌てて返した。
「大丈夫です。送ってくれてありがとう」
そう言いながら、また寂しいような思いになっていた。
咲希は幼い日に父を、昨年母を亡くしていて、一人きりの春は初めてだった。
ちゃんとしないと。そう自分に言い聞かせると、顔を上げて外に出た。
咲希の住むアパートは昔からここに住んでいる人たちの家々の中に、取り立てて新しいというほどではない程度の築年数で混ざっている。古い住人とのトラブルも地域同士の関係も気にするほどは無く、今日も至って静かな夜が広がっていた。
それほど遅い時間でもないからいいとアパートを離れて、北に向かう。
北の橋を渡れば歓楽街だが、そこまで行くつもりはなかった。職場の歓迎会も橋のこちら側で開かれたくらいで、橋の向こうに行く必要はない。
振り返ると、夜の灯りで照らされた白嶺街が見えた。橋を渡れば、白嶺街の外だとも気づいた。
堤防の上の白い桜が夜に枝葉を広げている光景を見ているうちに、どこにも行き難い気持ちにさせられた。
バッグから携帯電話を取り出して、青慈に電話をかけようとした。
コールボタンの上に触れた咲希の指、そこに優しく指が重なったのは、そのときだった。
後ろから伸ばされた手が自分の手に重なって、咲希は振り向いた。
風に乗って白い桜の花びらが降りてくる。その最中に青慈が立っていて、咲希に言った。
「結婚して、一緒に暮らそうか」
まるで彼の指に吸い込まれるように、携帯電話の電源が落ちた。
咲希が息を呑んで立ちすくむと、青慈は優しく告げた。
「君が覚えていないずっと前から、僕は君を想ってきた。これからは側で、君を守っていいだろうか」
宵闇に座す桜から目を逸らせないように、咲希は彼をみつめ返した。
咲希は桜の幹にそっと心を預けるように、彼に背を預けた。
「……はい」
うなずいた咲希を、青慈は後ろから腕に包み込んだ。
夜の橋の上、一つの樹になったように、二人は互いに身を寄せていた。