二度目の嫁入りは桜神の街~身ごもりの日々を溺愛の夫に包まれて~
9 茜色の街
茜色の雲が空に浮かぶ頃、咲希は歩いて家に帰るところだった。
咲希が勤める会社はさほど残業を必要としないものの、妊娠がわかってからは青慈が過保護になって、咲希は早々に帰路につくことになっていた。
空をよくみつめたのは、学生のとき以来かもしれない。その頃、咲希の思い描いた未来はいくつかが叶って、叶わないものは意図的に忘れてしまった。
一番大きなこと、研究者として働くことが叶ったのだから、そのときの自分は一応及第点を出してくれるだろう。けれどそのときの自分が想像もしていなかったこともある。
赤信号で立ち止まって、咲希はそっと腹部を押さえた。
咲希は妊婦となって、宿った命に愛おしさを抱きながら、同じくらいに不安も抱いている。
青慈は咲希の分まで咲希の体を労わってくれている。咲希には妊娠した実感が薄く、気づかず残業までしようとしてしまって、青慈に止められる。
咲希は就職したばかりで、妊娠は不意の出来事だったからかもしれない。自分であって自分でないものに傾ける心が、つかめないでいる。
優しい夫にも理解ある職場にも、整った設備の病院にも恵まれているのに、咲希はお腹の子をどうにも生み出す自信がない。
赤信号をみつめたまま、咲希は呼吸がうまくできないでいた。たまらなく愛おしいのにどうしようもなく不安で、自分が自分の中で分離してしまって、動けない。
自分は母親になれないのだろうか。昨年亡くした母に縋りたい思いで、立ちすくんだ。
けれどもちろん母は現れることなく、咲希に声をかけたのは青慈だった。
「咲希、不安は全部僕に預けてみないか」
青慈は咲希の揺れた瞳をみつめ返して、そっと咲希の手を取る。
「僕は一回り君より年上だし、仕事のことも、家のことも、君より慣れているよ。赤ちゃんを産むのは君しかできないけれど、他のことは僕に託してほしい」
「青慈さんは……優しすぎます」
咲希はいつも青慈に頼っている。出会ったときから彼が咲希に差し伸べてきた慈愛の手は、あまりに温かい。
咲希が喉を詰まらせると、青慈は優しくその頬に触れた。
「言っただろう? 咲希と出会ったことが、僕の人生で最良の出来事だと。僕は今からわくわくしているんだよ。家族三人で、どんなことをして過ごしていこうかと」
見上げればもう信号はとっくに青に変わっていた。咲希は青慈に手を取られて歩き始めながら、彼に声をかける。
「桜を見せてあげたいです。赤ちゃんに、白嶺街の美しい白い桜を」
咲希の言葉に、彼は微笑んでうなずいた。
「僕もだ。ここの桜はどこより美しいからね。……さあ、帰ろう」
伸びた影を踏みながら二人、交差点を渡り始める。
また夜になれば不安はやって来るかもしれないが、咲希は青慈が側にいればそれを乗り越えていける気がしていた。
咲希が勤める会社はさほど残業を必要としないものの、妊娠がわかってからは青慈が過保護になって、咲希は早々に帰路につくことになっていた。
空をよくみつめたのは、学生のとき以来かもしれない。その頃、咲希の思い描いた未来はいくつかが叶って、叶わないものは意図的に忘れてしまった。
一番大きなこと、研究者として働くことが叶ったのだから、そのときの自分は一応及第点を出してくれるだろう。けれどそのときの自分が想像もしていなかったこともある。
赤信号で立ち止まって、咲希はそっと腹部を押さえた。
咲希は妊婦となって、宿った命に愛おしさを抱きながら、同じくらいに不安も抱いている。
青慈は咲希の分まで咲希の体を労わってくれている。咲希には妊娠した実感が薄く、気づかず残業までしようとしてしまって、青慈に止められる。
咲希は就職したばかりで、妊娠は不意の出来事だったからかもしれない。自分であって自分でないものに傾ける心が、つかめないでいる。
優しい夫にも理解ある職場にも、整った設備の病院にも恵まれているのに、咲希はお腹の子をどうにも生み出す自信がない。
赤信号をみつめたまま、咲希は呼吸がうまくできないでいた。たまらなく愛おしいのにどうしようもなく不安で、自分が自分の中で分離してしまって、動けない。
自分は母親になれないのだろうか。昨年亡くした母に縋りたい思いで、立ちすくんだ。
けれどもちろん母は現れることなく、咲希に声をかけたのは青慈だった。
「咲希、不安は全部僕に預けてみないか」
青慈は咲希の揺れた瞳をみつめ返して、そっと咲希の手を取る。
「僕は一回り君より年上だし、仕事のことも、家のことも、君より慣れているよ。赤ちゃんを産むのは君しかできないけれど、他のことは僕に託してほしい」
「青慈さんは……優しすぎます」
咲希はいつも青慈に頼っている。出会ったときから彼が咲希に差し伸べてきた慈愛の手は、あまりに温かい。
咲希が喉を詰まらせると、青慈は優しくその頬に触れた。
「言っただろう? 咲希と出会ったことが、僕の人生で最良の出来事だと。僕は今からわくわくしているんだよ。家族三人で、どんなことをして過ごしていこうかと」
見上げればもう信号はとっくに青に変わっていた。咲希は青慈に手を取られて歩き始めながら、彼に声をかける。
「桜を見せてあげたいです。赤ちゃんに、白嶺街の美しい白い桜を」
咲希の言葉に、彼は微笑んでうなずいた。
「僕もだ。ここの桜はどこより美しいからね。……さあ、帰ろう」
伸びた影を踏みながら二人、交差点を渡り始める。
また夜になれば不安はやって来るかもしれないが、咲希は青慈が側にいればそれを乗り越えていける気がしていた。