ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
マンションに戻るも、統一郎はまだ仕事から帰っていないようだ。元々遅くまで仕事をして、この部屋には寝に帰っているだけと話していたくらいだから、帰りが遅くなる事はこれまでだって多かった。
でも今日は何となく統一郎が恋しくて、風呂上がりの杏子は寂しい気持ちを紛らわせるように、二人で使うベッドに倒れ込む。
統一郎の使う香水の香りが僅かに残るベッドルームと、柔らかな寝具が杏子を癒す。
その時、杏子のスマホが震えた。取材の時にマナーモードにしていたのを忘れていた杏子は、光る画面に目を落とす。
「誰……?」
数字が羅列されたスマホの液晶が、しつこく着信を知らせてくる。080で始まる番号は、電話帳に登録されていないから名前の表示がない。
出てみたら知り合いだったなんて事が、近頃は何度もあった。
以前の杏子ならそんな番号の電話には出なかったけれど、最近は仕事の関係で見知らぬ番号からの着信も増えたのだ。
「……はい」
何となく名前を名乗るのは躊躇われ、とりあえず相手の出方を窺う。
「杏子! 切らないでくれ! 頼むよ!」
「……慎二さん」
「まさかお前の顔を毎日あちこちで見る事になるなんてなぁ! シャルマン二号店の店長なんだって? お前、前に会った時は金持ちの男をたらし込んでたけど。今度はあの有名な高山さんの愛人でもしてんのかよ。綺麗な顔はそれだけで得だな!」
すぐにでもこの失礼な電話を切りたかったが、今の杏子には慎二に聞きたい事がある。
ぐっと強く唇を噛んで怒りを抑え込む。
「田中清香さんが昨日シャルマンに来たの。何しに来たか教えて」
杏子自身も驚くほど冷たい声色だった。恩人である高山の事まで、慎二が下卑た妄想で貶めたのを杏子は許せない。
「はぁ? 清香が⁉︎ くっそ! アイツ、俺より先に杏子に……。おい! 清香はどこにいるって⁉︎ アイツのせいで、俺がアイツの分まで金を払ってるって言うのに!」
「知らない」
「知らないって、お前話したんだろ⁉︎」
「私はシャルマンにいなかったから。それに、もう二度とあの人はシャルマンに出入り出来ないし」
「はぁ⁉︎ お前さぁ、ほんっと相変わらず役に立たねぇな! 高山さんの愛人になってちょっと有名になったからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
慎二は清香がシャルマンに何をしに来たのか知らなかった。その答えだけで杏子は満足し、今耳元でギャーギャーと喚き続ける慎二の声は、どこか遠くの方で聞こえている気がする。
「お前なんか、顔と大人しい性格だけが取り柄の面白みもない女の癖に! お前みたいな女には、俺みたいにデキる男がついてないとダメなんだって!」
「……業界で力のある高山さんの愛人を、口説いてもいいの?」
この時、杏子はどうしてそう口にしたのかは分からないが、極度の怒りを越えて呆れに達した感情によって、妙に冷静だった。
「いや、まぁ……なぁ杏子、ごめん。ちょっとカッとして口を滑らせただけだ。悪かったよ。俺達古い付き合いだろ。頼むからさ、高山さんと俺を繋げてくれよ。俺の店、最近やばいんだ。それかお前が昔のよしみで金を出して……」
「ねぇ慎二さん、あなたが私に何をしたか忘れたの?」
「え? 何をしたかって……あの時は俺も清香にすっかり唆されて杏子を切ったけどさ、それに関しては間違いだったって、前にお前ん家行った時に伝えただろ。なぁ、杏子は清香と違って優しいから、俺の事、許してくれるよな?」
ここに来てもあまりに子どもっぽく、自分勝手でくだらない考えに、杏子は思わずため息のような笑いを零した。
子どもの頃にはとても怖かった押し入れの暗がりが、大人になってみたら何て事ないように、どうして慎二のような男をいっときでも恐れていたのか分からなくなったのだ。
唯一の恋だと信じていたあの頃の感情を否定したくはないけれど、今となっては少しも思い出す事が出来ない。
「許すも何も、あなたなんかもう記憶も薄い過去の人でしかない。それに私、結婚するの。もう二度と関わらないで」
「……え? は? おい、杏子……」
慎二はまだ何か言っていたけれど、杏子はスマホの画面を躊躇なくタッチした。
シンと音がするような静かな空間が杏子を包む。
「統一郎さんの為にも、過去のしがらみは……断ち切るの」
そう呟いた杏子は、再びベッドに倒れ込むとうつ伏せに寝そべった。統一郎の使う枕に顔を埋めるなんて、少しはしたないとは思ったが、今はどうしてもそうしたかった。
嗅ぎ慣れた香水と統一郎のにおいが、昂る杏子の気持ちを安心させる。
「嬉しいですね。杏子さんにそう言って貰えて」
思わぬ声に飛び起きると、ベッドルームの入り口で腕組みをし、扉を開け放たれたままのドア枠にもたれ立つ統一郎がいた。
「と、統一郎さんっ」
「盗み聞きするつもりはなかったんです。ただ、帰宅したらここから杏子さんの声が聞こえて心配になって」
帰宅してすぐというのは本当だろう。まだスーツ姿の統一郎は眼鏡のブリッジを指で持ち上げ、口元に笑みを浮かべている。
どこから聞かれていたのか分からない。杏子は突如襲って来た恥じらいから動けないでいると、統一郎は杏子が腰掛けるベッドへと足を進めてきた。
「感激しました。杏子さんが僕の為に過去のしがらみを断ち切ると宣言してくれるなんて」
「恥ずかしいので、改めて口にしないでください!」
「それだけ嬉しいので、仕方ありません」
ルームウエアを纏った杏子を優しく抱きしめた統一郎は、何度も杏子の髪を自分の手で掬い、指で梳く。
統一郎は杏子の入念に手入れされた黒髪が好きだと常々公言していたので、くすぐったさを堪えて自由にさせた。
「でも、どうして杏子さんの電話番号が分かったんでしょうね。あの後スマホを変え、番号も変えたのに」
「さあ……もしかしたら、どこからか私の新しい名刺を手に入れたのかも。名刺を作り替えてから、何人か以前の店での知り合いにも会ったので」
「はあ……それにしても、僕は本当に心が狭くてひどい男です。杏子さんが元恋人と電話で話しているというだけでこんなに嫉妬してしまうんですから」
杏子を抱く統一郎の腕の力が強くなる。苦しく思う反面、杏子は喜びで胸が満たされていた。
「いいんです。それだけ統一郎さんは私を大切にしてくれているって事ですから」
「……本当に?」
「はい」
「そうですか。ありがとうございます」
慣れ親しんだ統一郎の唇の感触が、杏子のそれと重なり合う。いつの間にかお互いに強く抱きしめ合い、部屋はしばらくの間甘い空気に満たされていた。
でも今日は何となく統一郎が恋しくて、風呂上がりの杏子は寂しい気持ちを紛らわせるように、二人で使うベッドに倒れ込む。
統一郎の使う香水の香りが僅かに残るベッドルームと、柔らかな寝具が杏子を癒す。
その時、杏子のスマホが震えた。取材の時にマナーモードにしていたのを忘れていた杏子は、光る画面に目を落とす。
「誰……?」
数字が羅列されたスマホの液晶が、しつこく着信を知らせてくる。080で始まる番号は、電話帳に登録されていないから名前の表示がない。
出てみたら知り合いだったなんて事が、近頃は何度もあった。
以前の杏子ならそんな番号の電話には出なかったけれど、最近は仕事の関係で見知らぬ番号からの着信も増えたのだ。
「……はい」
何となく名前を名乗るのは躊躇われ、とりあえず相手の出方を窺う。
「杏子! 切らないでくれ! 頼むよ!」
「……慎二さん」
「まさかお前の顔を毎日あちこちで見る事になるなんてなぁ! シャルマン二号店の店長なんだって? お前、前に会った時は金持ちの男をたらし込んでたけど。今度はあの有名な高山さんの愛人でもしてんのかよ。綺麗な顔はそれだけで得だな!」
すぐにでもこの失礼な電話を切りたかったが、今の杏子には慎二に聞きたい事がある。
ぐっと強く唇を噛んで怒りを抑え込む。
「田中清香さんが昨日シャルマンに来たの。何しに来たか教えて」
杏子自身も驚くほど冷たい声色だった。恩人である高山の事まで、慎二が下卑た妄想で貶めたのを杏子は許せない。
「はぁ? 清香が⁉︎ くっそ! アイツ、俺より先に杏子に……。おい! 清香はどこにいるって⁉︎ アイツのせいで、俺がアイツの分まで金を払ってるって言うのに!」
「知らない」
「知らないって、お前話したんだろ⁉︎」
「私はシャルマンにいなかったから。それに、もう二度とあの人はシャルマンに出入り出来ないし」
「はぁ⁉︎ お前さぁ、ほんっと相変わらず役に立たねぇな! 高山さんの愛人になってちょっと有名になったからって、調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
慎二は清香がシャルマンに何をしに来たのか知らなかった。その答えだけで杏子は満足し、今耳元でギャーギャーと喚き続ける慎二の声は、どこか遠くの方で聞こえている気がする。
「お前なんか、顔と大人しい性格だけが取り柄の面白みもない女の癖に! お前みたいな女には、俺みたいにデキる男がついてないとダメなんだって!」
「……業界で力のある高山さんの愛人を、口説いてもいいの?」
この時、杏子はどうしてそう口にしたのかは分からないが、極度の怒りを越えて呆れに達した感情によって、妙に冷静だった。
「いや、まぁ……なぁ杏子、ごめん。ちょっとカッとして口を滑らせただけだ。悪かったよ。俺達古い付き合いだろ。頼むからさ、高山さんと俺を繋げてくれよ。俺の店、最近やばいんだ。それかお前が昔のよしみで金を出して……」
「ねぇ慎二さん、あなたが私に何をしたか忘れたの?」
「え? 何をしたかって……あの時は俺も清香にすっかり唆されて杏子を切ったけどさ、それに関しては間違いだったって、前にお前ん家行った時に伝えただろ。なぁ、杏子は清香と違って優しいから、俺の事、許してくれるよな?」
ここに来てもあまりに子どもっぽく、自分勝手でくだらない考えに、杏子は思わずため息のような笑いを零した。
子どもの頃にはとても怖かった押し入れの暗がりが、大人になってみたら何て事ないように、どうして慎二のような男をいっときでも恐れていたのか分からなくなったのだ。
唯一の恋だと信じていたあの頃の感情を否定したくはないけれど、今となっては少しも思い出す事が出来ない。
「許すも何も、あなたなんかもう記憶も薄い過去の人でしかない。それに私、結婚するの。もう二度と関わらないで」
「……え? は? おい、杏子……」
慎二はまだ何か言っていたけれど、杏子はスマホの画面を躊躇なくタッチした。
シンと音がするような静かな空間が杏子を包む。
「統一郎さんの為にも、過去のしがらみは……断ち切るの」
そう呟いた杏子は、再びベッドに倒れ込むとうつ伏せに寝そべった。統一郎の使う枕に顔を埋めるなんて、少しはしたないとは思ったが、今はどうしてもそうしたかった。
嗅ぎ慣れた香水と統一郎のにおいが、昂る杏子の気持ちを安心させる。
「嬉しいですね。杏子さんにそう言って貰えて」
思わぬ声に飛び起きると、ベッドルームの入り口で腕組みをし、扉を開け放たれたままのドア枠にもたれ立つ統一郎がいた。
「と、統一郎さんっ」
「盗み聞きするつもりはなかったんです。ただ、帰宅したらここから杏子さんの声が聞こえて心配になって」
帰宅してすぐというのは本当だろう。まだスーツ姿の統一郎は眼鏡のブリッジを指で持ち上げ、口元に笑みを浮かべている。
どこから聞かれていたのか分からない。杏子は突如襲って来た恥じらいから動けないでいると、統一郎は杏子が腰掛けるベッドへと足を進めてきた。
「感激しました。杏子さんが僕の為に過去のしがらみを断ち切ると宣言してくれるなんて」
「恥ずかしいので、改めて口にしないでください!」
「それだけ嬉しいので、仕方ありません」
ルームウエアを纏った杏子を優しく抱きしめた統一郎は、何度も杏子の髪を自分の手で掬い、指で梳く。
統一郎は杏子の入念に手入れされた黒髪が好きだと常々公言していたので、くすぐったさを堪えて自由にさせた。
「でも、どうして杏子さんの電話番号が分かったんでしょうね。あの後スマホを変え、番号も変えたのに」
「さあ……もしかしたら、どこからか私の新しい名刺を手に入れたのかも。名刺を作り替えてから、何人か以前の店での知り合いにも会ったので」
「はあ……それにしても、僕は本当に心が狭くてひどい男です。杏子さんが元恋人と電話で話しているというだけでこんなに嫉妬してしまうんですから」
杏子を抱く統一郎の腕の力が強くなる。苦しく思う反面、杏子は喜びで胸が満たされていた。
「いいんです。それだけ統一郎さんは私を大切にしてくれているって事ですから」
「……本当に?」
「はい」
「そうですか。ありがとうございます」
慣れ親しんだ統一郎の唇の感触が、杏子のそれと重なり合う。いつの間にかお互いに強く抱きしめ合い、部屋はしばらくの間甘い空気に満たされていた。