ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
 誰に対しても過剰なほど控えめな態度の杏子は、美容師として働き始めて七年目だが、今の職場である『シャルマン』に就職してからはまだ一年足らずだ。

 前の職場ではある時から一人の同僚女性にひどく嫌われてしまい、日々のストレス発散の捌け口となっていた。それはそれは陰湿ないじめで、杏子は度々体調を崩してしまうほどだった。
 良き恋人だと思っていた店長が実は妻帯者だと知ったのもその頃だ。
 
 それでも、別れを告げる事は杏子には出来なかった。初めての恋愛でこういう時にどうしたら良いか分からなかったし、自分を受け入れてくれた店長への未練が捨てきれなかったのだ。

 しかし、段々とひどくなっていく同僚女性からのいじめでそのうち食事が出来なくなり、眠れない日々が続いた事で、退職を決めた。
 退職を告げた時、恋人だった店長の、どこかホッとしたような表情は今でも忘れられないでいる。

 ――「お前さ、性格は暗いけど顔は可愛いから、またすぐに新しい彼氏が出来るよ。お前のその何を言っても従順で逆らわないとこ、結構男受けするしな」

 退職を告げたが、まだ別れは告げていない。

 それなのに投げかけられたその言葉は、杏子にとって社会人になってからこれまでの全てを捧げた恋人との時間が、相手にとってはそう重要なものではなかったのだと知った。

 そして杏子をいじめていた同僚女性が、随分前から店長と愛人関係にある事を、餞別とばかりに他の同僚から聞かされたのだ。
 自分が毎日いじめで苦しい思いをしていたのは、二人の恋路を知らぬ間に邪魔していたからなのだと知り、馬鹿馬鹿しくなった。

 これからはただ真面目に仕事をしてキャリアを積んで、いつかは自分の店を開けたら……そう思って『シャルマン』の扉を叩いた。
 スタッフ募集の貼り紙に『新しい店で、これまでと違った新しい自分になりませんか』と書かれてあったのが印象的だったからだ。
 
 シャルマンはこの辺りでは誰もが知る老舗で、高級店。それが二代目に代替わりして、かなり印象が変わったと噂になっていた。

 店長の高山は二十五歳の杏子よりも三つ年上だと言う気さくな男で、面接を終えた杏子は早速翌週からシャルマンで働く事になった。
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