ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
「佐々木さん、ちょっと残って貰ってもいい?」

 その日の仕事終わり、杏子は同僚達と一緒に帰ろうとしていたところを高山に呼び止められ、ガランとした店内に残った。

「あの、店長。私、何か……お客様からクレームを受けたんでしょうか?」

 普段は気さくで面倒見のいい高山だが、仕事に関しては厳しいところがある。
 
 つい先日も、若い男性店員の接客態度が良くなかったと、閉店後に呼び出していたらしいと聞いた。
 それで杏子は自分も何かヘマをしたのだと思って、肩をすくめ顔を真っ青にする。元は老舗の高級店だけあって、常連客はもとより新たな客に対しても接遇に関しては十分気をつけるよう言われていたからだ。

「ごめんごめん、急に呼び出したりしたらびっくりするよね。悪い話ってわけじゃないから、そう気負わないで。実は佐々木さんにお願いがあってね」
「お願い……ですか?」
「そう。知っての通り、この店の常連客で俺の友人でもある成宮なんだけどさ。アイツから、佐々木さんの手を貸してくれって頼まれたんだ」

 ショートヘアの真ん中から毛先の方を明るく染め上げた高山は、ここで「困った」というように眉を下げて言葉を切る。

「でも、それって一体どういう……」
「実は、成宮の仕事がこれからめちゃくちゃに忙しくなるみたいでさ、しばらくの間は今みたいにこの店まで頻繁に通う事が難しいって言うんだ」
「それは……大変ですね。成宮様、今は一週間に一回は通ってらっしゃるから」

 統一郎は杏子が担当するヘッドスパの客の中で、最も頭皮や首肩のこりがひどい人物だ。
 けれども単なるマッサージや整体などでは改善が見られず、友人の高山に勧められて始めたこの店のクリームバスだけが、彼の極度の疲れ目や疲労に効果があったと言う。
 
 それで何とか仕事の都合をつけては、度々足繁くこの店に通っていたのだが……。

「アイツは知っての通り、この店ナンバーワンの頭皮カチカチの首肩こり症だろ? それに、佐々木さんのヘッドスパが一番良いって言うんだ。施術が誰よりも真面目で丁寧で、ちょうど良い心地らしいよ」
「そう言って貰えて嬉しいです。でも、お店の方は……」
「そこなんだけどさ、週に一回でいいんだけど閉店後に成宮の自宅へ行ってもらうとか出来ないかな? その分の報酬は成宮の方から出るようになるんだけど」

 家庭で使うシャンプー台も、クリームバスに使う物品も何もかもを統一郎が準備し、報酬として杏子には一回につき三万円を支払うと伝えたらしい。

 高山は両手を顔の前で合わせ、拝むようにして杏子に頭を下げる。
 上司に頭を下げられた杏子は、そんな状況ではとても断る事が出来ずに高山の頼みを了承した。

「いくら常連客っていっても成宮だって男だし、もし男の家に一人で行くのが不安なら、俺がついて行くよ」
「でも、店長は閉店後も忙しいじゃないですか。成宮様は紳士的な方ですから、一人でも平気です」

 統一郎のように美形で社会的地位のある男が、一介の美容師におかしな気を起こすなんて事は、絶対にあり得ないと杏子は思っていた。
 これまで出会った客の中には、ごく稀にセクハラまがいの言動をする者もいたけれど、統一郎は常に紳士的でおかしな目で杏子を見たりする事もない。

 統一郎相手に、杏子が変に意識する方が烏滸がましいとさえ思っていた。
 
「そう? 実はあともう一個お願いがあるんだけど、それに関しては成宮から直接聞いてくれるかな。悪い話じゃないから。本当にごめんね! 無理を言うけど」
「分かりました」
「佐々木さん、感謝する! 恩に着るよ! ありがとう!」

 大袈裟なほど感謝の気持ちを伝えて来る高山に、杏子は戸惑いつつも微笑み返したのだった。
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