ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
 そうして、早速統一郎のマンションを訪れる初日が来た。
 実は「初日くらい付き添うよ」と頼もしく申し出た高山だったが、いざ店を出ようとした時に妻から子どもが発熱したとの連絡を受け、杏子に何度も謝りつつ慌てて帰って行ったのだ。

 高級住宅地と言われる利便性の良い場所ながらも、緑が豊かな立地に佇む高層マンション。杏子は洗練されたデザインの建物を目の前にして、すっかり圧倒されている。

「すごい……」

 住んでいるのは明らかに成功した者ばかりなのだとひしひしと伝わって来るような華やかなエントランスに、落ち着かない杏子は視線を泳がせた。
 思わず今日の自分の服装を省みて、清潔感はあるものの安物の服だという事に恥じらいの気持ちを持つ。

「佐々木さん! よく来てくれましたね。どうぞ」

 部屋に招き入れてくれたのは見慣れた顔の統一郎で、スーツを着たままの格好はいつもの姿そのものだった。
 けれども玄関に敷かれたタイルを踏むのさえ躊躇してしまうほど、全てが選び抜かれた上質な物で造られたであろう室内に、杏子は思わず笑顔を引き攣らせてしまう。

「……やっぱり、迷惑でしたか? 急に呼び出すような形になってしまって」
「違うんです! こんなに凄いお家、見るのも初めてで緊張してしまって……っ」
「はは! 佐々木さんは正直者ですね」
「すみません。入って早々まじまじと見るなんて失礼でしたよね」

 いつもと違う場所で統一郎と会った事にも気恥ずかしさを感じ、頬がカアッと火照るのが分かる。居た堪れなくなった杏子はギュッと唇を噛んだ。

「構いませんよ。ただ寝て起きるだけの場所なんですが」

 ふっと眉を下げるようにして微笑む統一郎の後をついて、杏子は部屋の奥へと進む。
 その間もなるべく室内をジロジロと見ないように心がけ、大理石の床の目地にだけ視線を走らせていた。

「ここで施術してもらいたいんです。大丈夫でしょうか? 必要な物があれば言ってください」

 案内された洗面所は広々としていて、まるで高級ホテルのような佇まいだ。それに、物は少なく整然としている。
 全てが無駄のない統一郎らしい部屋なのだと、杏子は妙に納得したのだった。

「足りない物は無さそうです。それにしても……すごいですね、このシャンプー台。本格的で」

 簡易的なシャンプー台は美容学校で見た事があるし、個人宅や施設などへの出張で使うと聞いた事はある。
 でも目の前のシャンプー台は、オーダーメイドなのだと一目見て分かったくらいしっかりしていて、二つある洗面台の一箇所に元からあったかのようにすっきりと設置されていた。
 
「ああ、昔は高山にここで髪を切って貰っていたんですよ。これは、その時に(しつら)えたものです」
「店長に……そうだったんですか」
「最近はもっぱら(シャルマン)の方に行ってましたけどね。佐々木さんのヘッドスパをして貰うなら、店に行かないといけませんから」

 その言い方では、まるで杏子のヘッドスパの為にシャルマンに通っているという風にも聞こえる。

「ありがとうございます。それでは、準備をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん」

 杏子はつい浮き足立ってしまう気持ちを隠し、平静を保つ為にテキパキと施術の支度を始めた。
 そんな杏子の気持ちを知ってか知らずか、ジャケットを脱いだ統一郎は、余裕の表情で眼鏡を外して棚に置いてから、シャンプー台へと寝そべる。
 
「よろしくお願いします」

 用意されたふわふわのタオルをいつものように折り畳み、杏子は閉じられた統一郎の目を手早く覆い隠した。
 早く隠してしまわないと、何かの拍子に統一郎と目が合ってしまいそうだと思ったからだ。

 シャルマンでいるのと同じ客と美容師という関係でここに来ているだけなのに、家中に穏やかに漂う統一郎愛用のムスクの香りが、何故か杏子の心を強く揺さぶっていた。
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