ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
「佐々木さんにはこうしてここへ来てもらう事以外にも、僕から一つお願いがあるんです」
マッサージの途中、じっと黙っていた統一郎がふいに口を開く。
洗面台に隣り合う浴室のせいか、統一郎の声がいつもより低く響いてから耳に届いた。
「店長が言っていました。直接成宮様から聞くようにと」
「実は、僕の会社で今度新しいヘアケアブランドを立ち上げる事になったんですが、そのプロジェクトに佐々木さんも参加、協力してもらいたいんです」
統一郎からの思わぬ申し出に、杏子の手がふと止まる。
それを敏感に感じ取ったのか、目元をタオルで隠した統一郎は、口元にだけ僅かな笑みを浮かべた。
「成宮様がそうおっしゃる以上、店長は了承しているのでしょうが……私なんかが、そんな大変なプロジェクトに協力出来る事なんて無いと思います」
黒目がちな瞳を伏せた杏子は、失礼にならないよう慎重に言葉を選んで伝える。店長の友人でもある常連客相手に、粗相があってはならないと思って緊張した。
「佐々木さんには、高山と一緒に新ブランドのアンバサダーになってもらいたいと思っています」
「アンバサダーですか? そんなの、私には無理です。店長はまだしも、私は有名人でも何でもなくて、ただの美容師ですから」
もう言葉を選んでいる場合ではなくなってしまった。元々気の弱い杏子は突然の話に狼狽し、どうしていいか分からなくなる。
けれどもそんな杏子の様子をタオル越しに感じ取った統一郎は、想定範囲内とばかりに落ち着いた様子で言葉を続けた。
「今回のブランドは、ヘッドスパに使う製品を中心に開発しています。僕は、アンバサダーとして佐々木さんの顔が一番に思い浮かびました」
「それは……」
「何より佐々木さんの髪、すごく綺麗ですよね。ありがたい事に、フロレゾンの新製品が出る度にいつもお買い求めになっていると、高山から聞きました」
確かに杏子はフロレゾンの長年のファンで、マニアと言っても過言ではない。
元々美容師になったのも、美容室でフロレゾンのトリートメントに出会った事がきっかけだった。
杏子の家は一部屋丸々埋まるくらいに、フロレゾンの製品がずらりと並んでいる。それを高山に何となく話の流れで口にした事があったのだ。
「おっしゃる通り、フロレゾンは私にとって美容師になるきっかけをくれた憧れのブランドです。髪の毛が元気で綺麗だと自分も少しは良く見えるかなと、自分に少し自信が持てる気がしたんです。でも、だからってそんな大役、私には……」
幼い頃に両親が離婚した杏子は父親に引き取られ、すぐに出来た若い継母は父親のいない所で杏子に『可愛くない子』だと言い続けた。
それからの杏子は自分に自信が持てず、常に控えめで目立つ事を嫌うようになったのだ。
その呪縛は、一人暮らしを始めて親元を離れてからも解けていない。
「佐々木さん」
「……っ」
いつの間にか自らの手でタオルを外した統一郎の視線が、杏子の視線とぶつかった。
形の良い切れ長の目に見据えられた杏子は、金縛りにあったように動けなくなる。
「佐々木さんのこの髪、僕がこれまで見てきたどの髪よりも美しいです。安気な三代目だからと社内で肩身を狭くしている僕に、どうか力を貸してくれませんか?」
「そんな……っ、安気だなんて! 成宮様はお仕事に真摯に向き合っておられます! 身体に不調が出るくらい、頑張ってらっしゃるのに!」
自分でも想像しなかった大きな声が、杏子の口から飛び出した。
仕事仕事で店に来る度カチコチに凝り固まった統一郎をほぐしながら、杏子は過去を忘れる為にがむしゃらになって仕事に打ち込む自分を重ねていたのかも知れない。
「佐々木さんも、誰より仕事に真摯に向き合っていますよね。一人一人にあった施術をする為に、しっかり話を聞いてくれる。だからシャルマンでは、高山を除いた指名数では、抜きに出て佐々木さんが多いんです」
再び統一郎は目を瞑り、自らタオルを掛け直した。それを合図に、杏子もそろそろと施術に戻る。
「そう難しく考えないでください。高山も佐々木さんがアンバサダーを引き受けてくれたら心強いし、店の宣伝になるって張り切ってますし。近頃は有名人でなくても、製品の熱狂的なファンがアンバサダーとして活躍する例も多いんです」
「熱狂的なファン……ですか」
「それに、佐々木さんは老舗美容室シャルマンのスタッフの中でも、特に評判がいいんですよ。店に通う様々な業界人が、佐々木さんの名前を公に発信しています」
SNSでシャルマンという有名店と自分の名前を発信してくれている客がいるのは知っていたが、いかんせん杏子は年齢に似合わずSNSの類が苦手で、自分から発信する事はほとんどない。
「ありがたい事に時々そういうお話は聞きますけど、SNSが苦手な私には……よく分かりません」
「佐々木さんはすでに高山の立派な右腕で、業界で人気が急上昇中の美容師なんですよ。それでなくともシャルマンは予約が取りにくい店ですからね」
確かにそう言われれば、自分はフロレゾンの熱狂的なファンだと杏子は思う。
美容師になってから後に発売されている製品は全て試して、細かなレポートを自分なりにまとめてあるし、憧れのフロレゾンの製品に少しでも関われるというのは光栄な事だ。
あとはどうしても克服出来ない自己肯定感の低さだけが、杏子の足を引っ張っていた。
「このブランドの立ち上げは、僕にとってこれまでで一番力を入れているプロジェクトなんです。社長の僕自らが言い出したものですから、何としても成功させたくて。勝手を言うようですが、佐々木さん、僕を助けて貰えませんか?」
クリームを使って頭皮、首肩までをしっかりと解し、杏子の指に感じる統一郎のコリは、随分とましになった。
それでもきっと、また熱心に仕事に取り掛かればすぐにカチコチになってしまうのだろう。
慎重に流すシャワーの温かな湯が、アロマを纏ったクリームとコリを共に流していく。
統一郎の黒髪からポタポタと水滴が落ちるのを手で絞りながら、一度大きく息を吐き出した杏子は、思い切って口を開いた。
「分かりました。本当に、私でお役に立てるかは自信がありませんが……それでも良ければ」
「……っ、本当ですか⁉︎ う、わっ!」
「きゃっ!」
突然びしょ濡れの髪のまま起きあがろうとした統一郎の身体を、杏子は咄嗟に押し倒す。
着痩せするタチなのか、触れるとガッチリと鍛えられているのが分かる胸板だったが、仰向けになっているせいで杏子の細腕でも軽く後ろに倒れたのだ。
「すみません! 頭、打ちませんでしたか⁉︎」
「………………ちょっと後頭部をぶつけたみたいです」
「ええっ! どうしよう……すみませんっ! どの辺りでしょう? こぶとか出来てたら大変ですよね」
慌てて統一郎の後頭部に手をやろうとした杏子は、ふと自分の顔がタオルを外した統一郎の顔と、ごく近い事に気付き赤面する。
統一郎は自然に人を従えるような強い眼差しで、硬直する杏子を見つめていた。
「あの……成宮様?」
しばらく続いた沈黙に堪えられなくなった杏子はつい統一郎の名を呼んだが、統一郎はふっと視線を逸らしてから「もう痛みは平気です」とだけ言い、再び目を瞑った。
仕事の初日からやらかしてしまったと、ひどく落ち込んだ杏子はその後ドライヤーを使って髪を乾かしている間も何も言えなくなってしまう。
いつもなら笑顔で「気にしないでください」とでも声を掛けてくれそうな統一郎だが、何故か今日は押し黙ってしまっていた。
「成宮様、今日は本当に申し訳ありませんでした。もしこれから後に、頭の痛みがあるようでしたら教えてください」
帰り際、杏子がそう言って頭を下げると、統一郎はいつも通りの笑顔で頷く。ずっと落ち込んでいた杏子は、それで何とか気持ちを上向きに出来たのだった。
あの時ワイシャツがしっかりと濡れてしまったので、上だけ着替えてTシャツ姿になった統一郎は、何だか杏子にはいつもと違って見えて胸が落ち着かない。
「これからもし頭が痛くなったら、昼でも夜でも佐々木さんに連絡してもいいんですか?」
「もちろんです! 私のせいで怪我をさせてしまったので。ひどいようでしたら病院へもお連れします」
「でも……」
ここで言葉を切った統一郎は、一歩杏子の方へと近付いた。ふわりと漂うムスクの香りが、杏子の鼻をくすぐる。
「僕は佐々木さんの連絡先を知りません。今回の報酬だって、高山を通して渡す事になってますから。良かったら、教えて貰えますか?」
その後杏子はすぐに統一郎と連絡先を交換した。客と連絡先の交換をするのは初めてだったが、統一郎は店長である高山の友人で、この副業の雇い主でもあるのだから、下心があるなどとは疑いもしない。
むしろこれから一緒に大きなプロジェクトに関わるのだから、連絡先の交換くらいは当然だと思っていた。
マッサージの途中、じっと黙っていた統一郎がふいに口を開く。
洗面台に隣り合う浴室のせいか、統一郎の声がいつもより低く響いてから耳に届いた。
「店長が言っていました。直接成宮様から聞くようにと」
「実は、僕の会社で今度新しいヘアケアブランドを立ち上げる事になったんですが、そのプロジェクトに佐々木さんも参加、協力してもらいたいんです」
統一郎からの思わぬ申し出に、杏子の手がふと止まる。
それを敏感に感じ取ったのか、目元をタオルで隠した統一郎は、口元にだけ僅かな笑みを浮かべた。
「成宮様がそうおっしゃる以上、店長は了承しているのでしょうが……私なんかが、そんな大変なプロジェクトに協力出来る事なんて無いと思います」
黒目がちな瞳を伏せた杏子は、失礼にならないよう慎重に言葉を選んで伝える。店長の友人でもある常連客相手に、粗相があってはならないと思って緊張した。
「佐々木さんには、高山と一緒に新ブランドのアンバサダーになってもらいたいと思っています」
「アンバサダーですか? そんなの、私には無理です。店長はまだしも、私は有名人でも何でもなくて、ただの美容師ですから」
もう言葉を選んでいる場合ではなくなってしまった。元々気の弱い杏子は突然の話に狼狽し、どうしていいか分からなくなる。
けれどもそんな杏子の様子をタオル越しに感じ取った統一郎は、想定範囲内とばかりに落ち着いた様子で言葉を続けた。
「今回のブランドは、ヘッドスパに使う製品を中心に開発しています。僕は、アンバサダーとして佐々木さんの顔が一番に思い浮かびました」
「それは……」
「何より佐々木さんの髪、すごく綺麗ですよね。ありがたい事に、フロレゾンの新製品が出る度にいつもお買い求めになっていると、高山から聞きました」
確かに杏子はフロレゾンの長年のファンで、マニアと言っても過言ではない。
元々美容師になったのも、美容室でフロレゾンのトリートメントに出会った事がきっかけだった。
杏子の家は一部屋丸々埋まるくらいに、フロレゾンの製品がずらりと並んでいる。それを高山に何となく話の流れで口にした事があったのだ。
「おっしゃる通り、フロレゾンは私にとって美容師になるきっかけをくれた憧れのブランドです。髪の毛が元気で綺麗だと自分も少しは良く見えるかなと、自分に少し自信が持てる気がしたんです。でも、だからってそんな大役、私には……」
幼い頃に両親が離婚した杏子は父親に引き取られ、すぐに出来た若い継母は父親のいない所で杏子に『可愛くない子』だと言い続けた。
それからの杏子は自分に自信が持てず、常に控えめで目立つ事を嫌うようになったのだ。
その呪縛は、一人暮らしを始めて親元を離れてからも解けていない。
「佐々木さん」
「……っ」
いつの間にか自らの手でタオルを外した統一郎の視線が、杏子の視線とぶつかった。
形の良い切れ長の目に見据えられた杏子は、金縛りにあったように動けなくなる。
「佐々木さんのこの髪、僕がこれまで見てきたどの髪よりも美しいです。安気な三代目だからと社内で肩身を狭くしている僕に、どうか力を貸してくれませんか?」
「そんな……っ、安気だなんて! 成宮様はお仕事に真摯に向き合っておられます! 身体に不調が出るくらい、頑張ってらっしゃるのに!」
自分でも想像しなかった大きな声が、杏子の口から飛び出した。
仕事仕事で店に来る度カチコチに凝り固まった統一郎をほぐしながら、杏子は過去を忘れる為にがむしゃらになって仕事に打ち込む自分を重ねていたのかも知れない。
「佐々木さんも、誰より仕事に真摯に向き合っていますよね。一人一人にあった施術をする為に、しっかり話を聞いてくれる。だからシャルマンでは、高山を除いた指名数では、抜きに出て佐々木さんが多いんです」
再び統一郎は目を瞑り、自らタオルを掛け直した。それを合図に、杏子もそろそろと施術に戻る。
「そう難しく考えないでください。高山も佐々木さんがアンバサダーを引き受けてくれたら心強いし、店の宣伝になるって張り切ってますし。近頃は有名人でなくても、製品の熱狂的なファンがアンバサダーとして活躍する例も多いんです」
「熱狂的なファン……ですか」
「それに、佐々木さんは老舗美容室シャルマンのスタッフの中でも、特に評判がいいんですよ。店に通う様々な業界人が、佐々木さんの名前を公に発信しています」
SNSでシャルマンという有名店と自分の名前を発信してくれている客がいるのは知っていたが、いかんせん杏子は年齢に似合わずSNSの類が苦手で、自分から発信する事はほとんどない。
「ありがたい事に時々そういうお話は聞きますけど、SNSが苦手な私には……よく分かりません」
「佐々木さんはすでに高山の立派な右腕で、業界で人気が急上昇中の美容師なんですよ。それでなくともシャルマンは予約が取りにくい店ですからね」
確かにそう言われれば、自分はフロレゾンの熱狂的なファンだと杏子は思う。
美容師になってから後に発売されている製品は全て試して、細かなレポートを自分なりにまとめてあるし、憧れのフロレゾンの製品に少しでも関われるというのは光栄な事だ。
あとはどうしても克服出来ない自己肯定感の低さだけが、杏子の足を引っ張っていた。
「このブランドの立ち上げは、僕にとってこれまでで一番力を入れているプロジェクトなんです。社長の僕自らが言い出したものですから、何としても成功させたくて。勝手を言うようですが、佐々木さん、僕を助けて貰えませんか?」
クリームを使って頭皮、首肩までをしっかりと解し、杏子の指に感じる統一郎のコリは、随分とましになった。
それでもきっと、また熱心に仕事に取り掛かればすぐにカチコチになってしまうのだろう。
慎重に流すシャワーの温かな湯が、アロマを纏ったクリームとコリを共に流していく。
統一郎の黒髪からポタポタと水滴が落ちるのを手で絞りながら、一度大きく息を吐き出した杏子は、思い切って口を開いた。
「分かりました。本当に、私でお役に立てるかは自信がありませんが……それでも良ければ」
「……っ、本当ですか⁉︎ う、わっ!」
「きゃっ!」
突然びしょ濡れの髪のまま起きあがろうとした統一郎の身体を、杏子は咄嗟に押し倒す。
着痩せするタチなのか、触れるとガッチリと鍛えられているのが分かる胸板だったが、仰向けになっているせいで杏子の細腕でも軽く後ろに倒れたのだ。
「すみません! 頭、打ちませんでしたか⁉︎」
「………………ちょっと後頭部をぶつけたみたいです」
「ええっ! どうしよう……すみませんっ! どの辺りでしょう? こぶとか出来てたら大変ですよね」
慌てて統一郎の後頭部に手をやろうとした杏子は、ふと自分の顔がタオルを外した統一郎の顔と、ごく近い事に気付き赤面する。
統一郎は自然に人を従えるような強い眼差しで、硬直する杏子を見つめていた。
「あの……成宮様?」
しばらく続いた沈黙に堪えられなくなった杏子はつい統一郎の名を呼んだが、統一郎はふっと視線を逸らしてから「もう痛みは平気です」とだけ言い、再び目を瞑った。
仕事の初日からやらかしてしまったと、ひどく落ち込んだ杏子はその後ドライヤーを使って髪を乾かしている間も何も言えなくなってしまう。
いつもなら笑顔で「気にしないでください」とでも声を掛けてくれそうな統一郎だが、何故か今日は押し黙ってしまっていた。
「成宮様、今日は本当に申し訳ありませんでした。もしこれから後に、頭の痛みがあるようでしたら教えてください」
帰り際、杏子がそう言って頭を下げると、統一郎はいつも通りの笑顔で頷く。ずっと落ち込んでいた杏子は、それで何とか気持ちを上向きに出来たのだった。
あの時ワイシャツがしっかりと濡れてしまったので、上だけ着替えてTシャツ姿になった統一郎は、何だか杏子にはいつもと違って見えて胸が落ち着かない。
「これからもし頭が痛くなったら、昼でも夜でも佐々木さんに連絡してもいいんですか?」
「もちろんです! 私のせいで怪我をさせてしまったので。ひどいようでしたら病院へもお連れします」
「でも……」
ここで言葉を切った統一郎は、一歩杏子の方へと近付いた。ふわりと漂うムスクの香りが、杏子の鼻をくすぐる。
「僕は佐々木さんの連絡先を知りません。今回の報酬だって、高山を通して渡す事になってますから。良かったら、教えて貰えますか?」
その後杏子はすぐに統一郎と連絡先を交換した。客と連絡先の交換をするのは初めてだったが、統一郎は店長である高山の友人で、この副業の雇い主でもあるのだから、下心があるなどとは疑いもしない。
むしろこれから一緒に大きなプロジェクトに関わるのだから、連絡先の交換くらいは当然だと思っていた。