ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
――「お疲れ様です。今度の木曜、うちへ来られる時にはシャルマンまで迎えに行きます。以前佐々木さんが好きだと言ってたオムライスの美味しいお店の予約が取れたので、良かったら夕飯を一緒に食べてから施術をお願いしたいです」
こんな風に統一郎から誘いのメールが届くようになっても、杏子は「そう言えば、一人で食事をしてばかりで食欲がないと話していたわね」と考えて、素直に「楽しみです」と返事を返す。
多忙な毎日を送る統一郎は大事な顧客で、しかも尊敬する上司の親友なのだから、健康に過ごしてほしいと思ったのだ。
それから一週間に一度、多い時で二度は統一郎の自宅に呼ばれていた杏子だったが、十回目の訪問となったその日は帰りに急な雨が降っていて、統一郎が車で送ってくれる事になった。
「あの、ここで大丈夫です。すぐ近くなので」
信号のない交差点で停止した車内で、杏子は運転席に座る統一郎へと訴える。
「でも、外は結構雨足が強いですよ。すぐ目の前までつけます」
「いえ! 本当にありがとうございました! ここで大丈夫です!」
そう言って後方を確認し、ドアノブに手をかけた杏子だったが、統一郎の運転する外車は走り出すと自動でロックが掛かる仕様で、ノブを引いても扉が開かない。
免許も持たず、車に乗り慣れていない杏子は首を傾げた。
「あれ……? あれ?」
何度か引いてみても開かないので、焦った杏子は手動でロックを解除しようと、ドア付近でそれらしいボタンを探している。
統一郎はそんな杏子を見てふっと目を細めると、ゆっくりと車を発進させた。
「あ! あの! 本当に降りますっ! 私のアパート、成宮様にお見せできるような立派な外観じゃないので恥ずかしくて!」
ふわりと車が進むのを感じた杏子は、恥ずかしくて口に出来なかった言葉をとうとう漏らしてしまう。
古びた団地のような外観のアパートは統一郎の暮らす高級マンションとは天と地ほどの差があり、何となく見られたくなかったのだ。
「僕は気にしませんよ。それより、佐々木さんが風邪でも引いたら大変です。そうなると、僕が高山に叱られますからね」
「……分かりました。それじゃあ、お願いします」
きちんとナビの通りに進む窓の外の景色を、ほんの少し恨めしそうに見ながら、杏子は小さく頭を下げた。
車に乗った時よりも雨足はどんどん強まるばかりで、車窓を叩く水滴が外の景色を歪にする。
「今日は送ってもらってすみません。ありがとうございました」
車がアパート前に到着し、ガチャリと音を立ててドアロックが解除されたのを確認してから、杏子はぺこりと頭を下げつつ統一郎に礼を述べた。
統一郎がジロジロと他人の住まいを見たりする無礼を働くような人間では無かった事に、杏子はホッと胸を撫で下ろす。
「こちらこそ、ありがとうございました。ではまた来週」
人や車の往来が少ない通りに面したアパートだが、しとしとと降り注ぐ雨に濡れながらも、近隣のアパートや民家の温かな色味の灯りがぼんやりと道路を照らしていた。
杏子は丁寧にドアを閉じると、そこでも一礼してから駆け足でアパートの外階段を登る。
濡れた鉄階段で滑らないように気をつけながら、やっとの思いで部屋の前まで到着すると、黒いレインコートを着た男が杏子の部屋の前で立っていた。
「あの……」
もう時刻は21時を過ぎていて、もちろん来客の予定もない。顔は目深に被ったフードで陰になってよく見えないが、ニヤリと笑った口元だけは、はっきりと確認する事ができた。
「よう杏子、久しぶり。お前、雨で下着までびしょ濡れじゃんか。早く部屋、入ろうぜ」
地下の駐車場から車に乗り込む時には濡れなかった杏子の服も、傘をさす事を申し出てくれた統一郎の言葉を断り、車から降りてここまで走ってくる間にびしょ濡れになっている。
慌ててバッグで前を隠すようにしたものの、濡れた衣服が肌に張り付く不快感と、もう二度と会わないと思っていた相手の粘着質に絡みつくような声とが相まって、杏子の背筋がゾクリとした。
「……慎二さん?」
今の杏子には異性の友人など居ない。同僚でもない。そうなると聞き覚えのあるこの声は、早く忘れたいと思っていた元 元恋人のもので間違いない。
「帰りが随分と遅いんだな。美容師やめて夜の仕事でもしてんのか? はは……まさかな、お前がそんな器用な真似出来るわけないか」
男はフードに両手をかけ、隠されていた顔を露わにする。
やはり思った通り、相手は杏子が新たな環境での忙しさでやっと忘れかけていた元恋人慎二だった。
「……どうしてここに?」
「清香との不倫がバレて、家を追い出された。自分がわざとバレるような真似した癖に、慰謝料請求されるって分かったら、トンズラしやがって。やっぱり俺にはお前しかいないんだ。しばらく家に匿ってくれよ」
清香という女性は慎二が杏子と二股をかけて付き合っていた不倫相手で、前の職場で杏子を執拗にいじめてきた女性だった。
自己主張の激しいタイプだったので、わざと不倫の痕跡を残して慎二の妻にマウントを取ったつもりだったのかも知れない。
「私達、別れて随分経つし、もう今更関係ないでしょう。帰ってください」
「冷たい事言うなよ。お前を美容師として一人前にしてやったのは俺だろ? それに、やっぱりお前みたいなタイプの女の方が可愛いって気づいたら、会いたくなって。わざわざ会いに来たんだぞ」
過去の自分はどうしてこんな男の事を好きだったのだろうかと、杏子はつくづく思う。あれ程好きだった相手も、今目の前にしてみれば本当に子どもっぽく、つまらない人間だとひしひしと感じた。
「それはそっちの勝手でしょう。私、明日も早いから、帰ってください。もう二度とここには来ないで」
「は? 俺がお前に会いに来てやってんのに、そういう態度でいいわけ? まさか、男が出来たのか?」
「関係ないでしょう」
「本気かよ。くっそ、お前顔は良いもんな」
どうやらこれはまともに話の通じる相手では無さそうだと思って、杏子はじりじりと後退りをした。
部屋の扉を塞ぐようにして立ちはだかる慎二の隙をついて室内に逃げ込む事は、到底出来そうにない。だからと言って雨も降るこの時間に、他の住人がこの場を通りがかる確率は低いだろう。
残るは元来た道を引き返し、階段を駆け降りてどこか人気のある所へと逃げ込む手しかない。
「暗くて大人しくて、従順な女だと思ってたのに、案外尻軽だったんだな」
その後も自分勝手過ぎる独り言のような言葉を吐き続ける慎二に、杏子は恐怖を覚えた。
逃げなきゃと思うのに、脚が言う事を聞かずただの棒のように突っ張っている。
「まあいいや。とにかく今日は行くとこないからさ、泊めてくれよ。それか、当面の金をくれたらどこかに泊まるから」
慎二はまるでお面を被ったような作り笑顔で杏子に手を差し伸べる。
一歩、また一歩と近付く足音が、杏子には実際よりもはるかにゆっくりに聞こえていた。
「佐々木さん!」
その場の空気を一気に霧散させるような鋭い声に、杏子はハッとして重い身体を振り向かせる。
「成宮様?」
「車の座席に鍵をお忘れでしたので。そちらの方は?」
努めて冷静さを保っているが、先程の統一郎が杏子を呼ぶ声は明らかな焦りを孕んでいた。
統一郎の姿を認めた途端、杏子は何とも言えない安堵に包まれて、その場に崩れ落ちそうになる。そんな杏子の身体を軽々と抱きとめた統一郎は、慎二の方へと視線を向けてじっと返答を待っていた。
「チッ! 誰だよ。部外者は黙ってろよな」
舌打ちをした慎二は、統一郎を頭の先からつま先まで舐めるように見てから睨みつける。
「佐々木さん、お知り合いですか?」
「昔の上司です……でも……私……」
状況をしっかり伝えなければと思うのに、杏子の口からは言葉が続いてこない。ただ細い肩を震わせて、何かを訴えるように統一郎の目をじっと見つめる事しか出来なかった。
「佐々木さんは随分とあなたを怖がっているようです。何をしたんですか?」
「別に何も。部屋に入れてくれって頼んだだけ。俺、コイツの元彼だからさ」
「突然不躾な話ですね。どうやら佐々木さんは、あなたの訪問を望んでいないようですよ」
「アンタ誰? 杏子の彼氏には見えないけど」
慎二は常に鍛えている統一郎よりも華奢な体格をしているが、武器を隠し持っていないとも限らない。
万が一にも自分のせいで統一郎に何かあったらと思うと、杏子は気が気ではなかった。
「成宮様……」
「佐々木さんはもっと後ろに下がってください。どうか気をつけて階段を降りて、安全な場所で身を隠して……」
杏子の身体を慎二の視線から隠すようにして、統一郎は前を見据えたままで言う。
慎二はその様子を面白く無さそうに目を細めながら見つめ、もう一度舌打ちをした。
「関係ない奴は引っ込んでろよ。俺は杏子に用があるんだから」
ヘラヘラとした笑みを浮かべた慎二は身体を横に倒すようにして、統一郎の背後に隠れて硬直している杏子に声を掛ける。
ビクリと身体を揺らした杏子は、思わず目の前に立つ統一郎の上着の裾を握りしめた。
「佐々木さんは私の恋人です。ですから、もう二度と彼女の前に姿を見せないでください」
杏子の震える手が自分の服を掴んでいる事に気付いた統一郎は、チラリと背後を気にするように視線を動かしたが、またすぐに正面の慎二を見据えて言った。
「信じられないな。アンタみたいに金持ってそうな奴だったら、こんな根暗な女じゃなくてもよりどりみどりだろ」
「これ以上彼女を侮辱するのは許しませんよ」
「はっ! 物好きな奴。杏子ぉ、上手くやったな。綺麗な顔に産んでくれた母親に感謝しろよ」
無邪気な笑顔を見せつけるようにした慎二は、杏子達の近くの階段とは反対側、自分の背中側にある階段まで大股で後退りし、くるりと踵を返してから駆け降りて行った。
カンカンという乾いた音を立てて階段を降りた慎二の足音が、次第に遠ざかっていくのを確認した統一郎は、やっと杏子の方を振り返ってそっと両肩を掴む。
「大丈夫でしたか? すみません、勝手な事を言ってしまって。佐々木さんが今後もあの男と関わりたいようには見えなかったものですから」
「ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしてしまって……すみません。助かりました」
慎二を牽制する為の嘘とはいえ、統一郎に恋人だと言われた事が、それからしばらくの間杏子の心を落ち着かなくさせていた。
こんな風に統一郎から誘いのメールが届くようになっても、杏子は「そう言えば、一人で食事をしてばかりで食欲がないと話していたわね」と考えて、素直に「楽しみです」と返事を返す。
多忙な毎日を送る統一郎は大事な顧客で、しかも尊敬する上司の親友なのだから、健康に過ごしてほしいと思ったのだ。
それから一週間に一度、多い時で二度は統一郎の自宅に呼ばれていた杏子だったが、十回目の訪問となったその日は帰りに急な雨が降っていて、統一郎が車で送ってくれる事になった。
「あの、ここで大丈夫です。すぐ近くなので」
信号のない交差点で停止した車内で、杏子は運転席に座る統一郎へと訴える。
「でも、外は結構雨足が強いですよ。すぐ目の前までつけます」
「いえ! 本当にありがとうございました! ここで大丈夫です!」
そう言って後方を確認し、ドアノブに手をかけた杏子だったが、統一郎の運転する外車は走り出すと自動でロックが掛かる仕様で、ノブを引いても扉が開かない。
免許も持たず、車に乗り慣れていない杏子は首を傾げた。
「あれ……? あれ?」
何度か引いてみても開かないので、焦った杏子は手動でロックを解除しようと、ドア付近でそれらしいボタンを探している。
統一郎はそんな杏子を見てふっと目を細めると、ゆっくりと車を発進させた。
「あ! あの! 本当に降りますっ! 私のアパート、成宮様にお見せできるような立派な外観じゃないので恥ずかしくて!」
ふわりと車が進むのを感じた杏子は、恥ずかしくて口に出来なかった言葉をとうとう漏らしてしまう。
古びた団地のような外観のアパートは統一郎の暮らす高級マンションとは天と地ほどの差があり、何となく見られたくなかったのだ。
「僕は気にしませんよ。それより、佐々木さんが風邪でも引いたら大変です。そうなると、僕が高山に叱られますからね」
「……分かりました。それじゃあ、お願いします」
きちんとナビの通りに進む窓の外の景色を、ほんの少し恨めしそうに見ながら、杏子は小さく頭を下げた。
車に乗った時よりも雨足はどんどん強まるばかりで、車窓を叩く水滴が外の景色を歪にする。
「今日は送ってもらってすみません。ありがとうございました」
車がアパート前に到着し、ガチャリと音を立ててドアロックが解除されたのを確認してから、杏子はぺこりと頭を下げつつ統一郎に礼を述べた。
統一郎がジロジロと他人の住まいを見たりする無礼を働くような人間では無かった事に、杏子はホッと胸を撫で下ろす。
「こちらこそ、ありがとうございました。ではまた来週」
人や車の往来が少ない通りに面したアパートだが、しとしとと降り注ぐ雨に濡れながらも、近隣のアパートや民家の温かな色味の灯りがぼんやりと道路を照らしていた。
杏子は丁寧にドアを閉じると、そこでも一礼してから駆け足でアパートの外階段を登る。
濡れた鉄階段で滑らないように気をつけながら、やっとの思いで部屋の前まで到着すると、黒いレインコートを着た男が杏子の部屋の前で立っていた。
「あの……」
もう時刻は21時を過ぎていて、もちろん来客の予定もない。顔は目深に被ったフードで陰になってよく見えないが、ニヤリと笑った口元だけは、はっきりと確認する事ができた。
「よう杏子、久しぶり。お前、雨で下着までびしょ濡れじゃんか。早く部屋、入ろうぜ」
地下の駐車場から車に乗り込む時には濡れなかった杏子の服も、傘をさす事を申し出てくれた統一郎の言葉を断り、車から降りてここまで走ってくる間にびしょ濡れになっている。
慌ててバッグで前を隠すようにしたものの、濡れた衣服が肌に張り付く不快感と、もう二度と会わないと思っていた相手の粘着質に絡みつくような声とが相まって、杏子の背筋がゾクリとした。
「……慎二さん?」
今の杏子には異性の友人など居ない。同僚でもない。そうなると聞き覚えのあるこの声は、早く忘れたいと思っていた元 元恋人のもので間違いない。
「帰りが随分と遅いんだな。美容師やめて夜の仕事でもしてんのか? はは……まさかな、お前がそんな器用な真似出来るわけないか」
男はフードに両手をかけ、隠されていた顔を露わにする。
やはり思った通り、相手は杏子が新たな環境での忙しさでやっと忘れかけていた元恋人慎二だった。
「……どうしてここに?」
「清香との不倫がバレて、家を追い出された。自分がわざとバレるような真似した癖に、慰謝料請求されるって分かったら、トンズラしやがって。やっぱり俺にはお前しかいないんだ。しばらく家に匿ってくれよ」
清香という女性は慎二が杏子と二股をかけて付き合っていた不倫相手で、前の職場で杏子を執拗にいじめてきた女性だった。
自己主張の激しいタイプだったので、わざと不倫の痕跡を残して慎二の妻にマウントを取ったつもりだったのかも知れない。
「私達、別れて随分経つし、もう今更関係ないでしょう。帰ってください」
「冷たい事言うなよ。お前を美容師として一人前にしてやったのは俺だろ? それに、やっぱりお前みたいなタイプの女の方が可愛いって気づいたら、会いたくなって。わざわざ会いに来たんだぞ」
過去の自分はどうしてこんな男の事を好きだったのだろうかと、杏子はつくづく思う。あれ程好きだった相手も、今目の前にしてみれば本当に子どもっぽく、つまらない人間だとひしひしと感じた。
「それはそっちの勝手でしょう。私、明日も早いから、帰ってください。もう二度とここには来ないで」
「は? 俺がお前に会いに来てやってんのに、そういう態度でいいわけ? まさか、男が出来たのか?」
「関係ないでしょう」
「本気かよ。くっそ、お前顔は良いもんな」
どうやらこれはまともに話の通じる相手では無さそうだと思って、杏子はじりじりと後退りをした。
部屋の扉を塞ぐようにして立ちはだかる慎二の隙をついて室内に逃げ込む事は、到底出来そうにない。だからと言って雨も降るこの時間に、他の住人がこの場を通りがかる確率は低いだろう。
残るは元来た道を引き返し、階段を駆け降りてどこか人気のある所へと逃げ込む手しかない。
「暗くて大人しくて、従順な女だと思ってたのに、案外尻軽だったんだな」
その後も自分勝手過ぎる独り言のような言葉を吐き続ける慎二に、杏子は恐怖を覚えた。
逃げなきゃと思うのに、脚が言う事を聞かずただの棒のように突っ張っている。
「まあいいや。とにかく今日は行くとこないからさ、泊めてくれよ。それか、当面の金をくれたらどこかに泊まるから」
慎二はまるでお面を被ったような作り笑顔で杏子に手を差し伸べる。
一歩、また一歩と近付く足音が、杏子には実際よりもはるかにゆっくりに聞こえていた。
「佐々木さん!」
その場の空気を一気に霧散させるような鋭い声に、杏子はハッとして重い身体を振り向かせる。
「成宮様?」
「車の座席に鍵をお忘れでしたので。そちらの方は?」
努めて冷静さを保っているが、先程の統一郎が杏子を呼ぶ声は明らかな焦りを孕んでいた。
統一郎の姿を認めた途端、杏子は何とも言えない安堵に包まれて、その場に崩れ落ちそうになる。そんな杏子の身体を軽々と抱きとめた統一郎は、慎二の方へと視線を向けてじっと返答を待っていた。
「チッ! 誰だよ。部外者は黙ってろよな」
舌打ちをした慎二は、統一郎を頭の先からつま先まで舐めるように見てから睨みつける。
「佐々木さん、お知り合いですか?」
「昔の上司です……でも……私……」
状況をしっかり伝えなければと思うのに、杏子の口からは言葉が続いてこない。ただ細い肩を震わせて、何かを訴えるように統一郎の目をじっと見つめる事しか出来なかった。
「佐々木さんは随分とあなたを怖がっているようです。何をしたんですか?」
「別に何も。部屋に入れてくれって頼んだだけ。俺、コイツの元彼だからさ」
「突然不躾な話ですね。どうやら佐々木さんは、あなたの訪問を望んでいないようですよ」
「アンタ誰? 杏子の彼氏には見えないけど」
慎二は常に鍛えている統一郎よりも華奢な体格をしているが、武器を隠し持っていないとも限らない。
万が一にも自分のせいで統一郎に何かあったらと思うと、杏子は気が気ではなかった。
「成宮様……」
「佐々木さんはもっと後ろに下がってください。どうか気をつけて階段を降りて、安全な場所で身を隠して……」
杏子の身体を慎二の視線から隠すようにして、統一郎は前を見据えたままで言う。
慎二はその様子を面白く無さそうに目を細めながら見つめ、もう一度舌打ちをした。
「関係ない奴は引っ込んでろよ。俺は杏子に用があるんだから」
ヘラヘラとした笑みを浮かべた慎二は身体を横に倒すようにして、統一郎の背後に隠れて硬直している杏子に声を掛ける。
ビクリと身体を揺らした杏子は、思わず目の前に立つ統一郎の上着の裾を握りしめた。
「佐々木さんは私の恋人です。ですから、もう二度と彼女の前に姿を見せないでください」
杏子の震える手が自分の服を掴んでいる事に気付いた統一郎は、チラリと背後を気にするように視線を動かしたが、またすぐに正面の慎二を見据えて言った。
「信じられないな。アンタみたいに金持ってそうな奴だったら、こんな根暗な女じゃなくてもよりどりみどりだろ」
「これ以上彼女を侮辱するのは許しませんよ」
「はっ! 物好きな奴。杏子ぉ、上手くやったな。綺麗な顔に産んでくれた母親に感謝しろよ」
無邪気な笑顔を見せつけるようにした慎二は、杏子達の近くの階段とは反対側、自分の背中側にある階段まで大股で後退りし、くるりと踵を返してから駆け降りて行った。
カンカンという乾いた音を立てて階段を降りた慎二の足音が、次第に遠ざかっていくのを確認した統一郎は、やっと杏子の方を振り返ってそっと両肩を掴む。
「大丈夫でしたか? すみません、勝手な事を言ってしまって。佐々木さんが今後もあの男と関わりたいようには見えなかったものですから」
「ありがとうございます。お恥ずかしいところをお見せしてしまって……すみません。助かりました」
慎二を牽制する為の嘘とはいえ、統一郎に恋人だと言われた事が、それからしばらくの間杏子の心を落ち着かなくさせていた。