ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
 前に住んでたアパートに比べると、まるで金庫の扉みたいに重厚な玄関扉の前で杏子は溜め息を吐く。
 
「どうしました?」
「え……っ」

 ふいに声を掛けられ杏子が振り返ると、そこには統一郎がいた。
 いつ見ても隙がなく怜悧な顔立ちの統一郎は、杏子の顔を見るなりフッと表情を柔らかくする。やがて低く甘い声で言葉を続けた。

「そこ、僕の部屋です。今日は来る日じゃないですよね? もしかして、遊びに来てくれたんですか?」

 同じフロアとはいえ、杏子の部屋と統一郎の部屋は離れている。間違えるはずもないのに、ボーッとしているうちにいつもの癖で、思わず統一郎の部屋の扉の前に立っていた。

「ご、ごめんなさいっ! 間違えました! 今日はお邪魔する日じゃなかったのに!」
「いいんですよ。これから夕飯なんですが、久しぶりに買い物に行ったら、あんまり美味しそうなんでお惣菜を買い過ぎてしまったんです。良かったら一緒に食べませんか?」

 統一郎の手には有名デパートの紙袋があるが、確かに夕飯をデパ地下で買ったにしては多く見える。

「でも……」
「食べながらでも良いので、今度のイベントに関して話も出来たら助かるなと思って。打ち合わせを兼ねての食事という事で」

 そう言われたら断る事が出来ないのが、責任感の強い杏子だ。統一郎はそれを知っている。知っていてわざとこんな風に誘ったのだが、当の杏子は知る由もない。
 
「それじゃあ……お言葉に甘えて。ご一緒させてください」

 何度も訪れた事がある部屋のはずなのに、美容師としての仕事の一環で来る時とは違い、妙に緊張した。今日はいつもと何となく統一郎の様子が違う事も、杏子の肩に力を入れさせる要因になっていた。
 
 初めて統一郎の部屋のダイニングに足を踏み入れた杏子は、統一郎にエスコートされて椅子に座った。
 その後の食事の味なんか、杏子は全く覚えていない。仕事の話は何とかしたような気がするけれど、それだって記憶が曖昧だ。

「今日はすみません。突然お邪魔して。ごちそうさまでした」

 いつものようにペコリとお辞儀をして玄関を出ようとした杏子の腕を、統一郎は思わずと言った風に引き留める。
 引き留めたのは統一郎の癖に、その表情には隠しきれない戸惑いが浮かんでいた。

「……っ、すみません! 突然掴んだりして!」
「いえ……っ、あの……成宮様……?」

 謝りながらもその手を離さない統一郎の顔を、杏子は覗き込むようにして首を傾げる。
 統一郎のシュッとした頬が、薄く赤らんでいた。

「佐々木さん……好きです。僕は、初めてあなたに施術して貰ったあの日から、ずっとあなたが好きでした」

 眼鏡越しに見える切れ長の瞳には、燃え立つような恋慕の情がありありと浮かんでいる。
 いくら自分に自信が持てずにいる杏子でも、統一郎の言葉が嘘ではないとすぐに理解出来るくらいには。

「成宮様……」
「佐々木さん、どうか僕と()()してください」
「……え?」

 いくら何でも突然過ぎだと杏子は戸惑いを隠せない。交際を飛び越して結婚とは……。
 それでも統一郎は至極真面目な顔で杏子を見つめた。

「元々誰かと交際するなら結婚を前提にしてと考えていたんです。佐々木さんと結婚出来るなら、僕は何でもします」

 普段はおっとりした杏子もこれには驚き、言葉を失ってしまう。そんな杏子に怯む事なく、統一郎は真剣な眼差しを注ぎ続けた。

「成宮様……突然の事で私……」
「僕の事、嫌いですか? 嫌いじゃないなら、好きにさせてみせます。佐々木さんが結婚してもいいと思うまでいつまでも待ちますから、今は……恋人になってもらえませんか?」

 整った容姿も、富も、栄誉も、才能も、誰もが欲しがる全ての物を持ち合わせた相手からの積極的過ぎる求婚を、大人しい杏子が断れるはずがない。
 それに、杏子が近頃統一郎という存在に心をかき乱されているのは確かで、元恋人慎二との嫌な思い出を統一郎なら綺麗に掻き消してくれそうだと思ってしまった。

「私で良ければ……お付き合いお願いします」

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