ある日、憧れブランドの社長が溺愛求婚してきました
 統一郎と恋人になってからというもの、杏子はこれまで自分が知らなかった世界をたくさん目にした。

 いつも仕立ての良いスーツを着こなす統一郎は、きっと杏子がこれまで一度も訪れた事がないような高級店で買い物をするのだろうと思っていたけれど、デートをする度に杏子が喜びそうな店を案内してくれる。

 統一郎と並んでも恥ずかしくないように、新しい服を買いたいと杏子が密かに思っていると、自然な素振りで服飾店に誘っては、杏子が好きそうな清楚な服を一緒に選んでくれた。

「今日は、こないだ一緒に選んだワンピースを着てくれたんですね。やっぱり……そのデザインは絶対杏子さんに似合うと思ったんですが、想像以上に素敵です」

 杏子の為に助手席の扉を開け、丁寧にエスコートしつつ目を細める統一郎に、杏子は思わず俯いて頬を真っ赤に染め上げる。

「あ、ありがとうございます……。私には勿体無いくらい素敵な服で、実は今日、着てくるのを気後れしたんです。でも……せっかく統一郎さんが選んでくれたからと思って」
「僕の為に一歩を踏み出す努力をしてくれたんですか。嬉しいです。それに、今日は一段と髪型が可愛らしいですね」

 車に乗り込んだ後も常に杏子を気遣う統一郎は、一緒にいるとごく自然に、言葉と態度で溢れんばかりの愛情を伝えて来る。
 会う度何かしら杏子を褒め称える統一郎に、はじめは照れ臭さと少々の居心地の悪さを感じていたけれど、近頃は杏子もその褒め言葉を素直に喜べるようになってきた。

「ありがとうございます。服に合わせてアレンジしてみたんです。統一郎さんも、私が選んだネクタイを着けてくださってて……嬉しいです」
「本当は毎日でも着けたいくらいですけど、そうもいきませんからね。良かったら、また他にも選んでくれますか? 毎日杏子さんが選んでくれたネクタイを着けて仕事をすれば、頑張れる気がするんです」

 こんな風に冗談か本気か分からないような言葉にも、統一郎から杏子に向けられる凪いだ海のように穏やかな眼差しのお陰で、元来臆病な性格の杏子でも遠慮なく答える事が出来る。

「ふふ……ぜひプレゼントさせてください。買って頂いたワンピースのお返しに」

 以前なら絶対に恋人の言葉に対して軽々しく返事を口にしなかっただろう。
 一つ言葉選びを間違えるだけで不機嫌な顔をされ、「お前はダメだな」と罵られるのだから。

 信頼と期待を失うのが怖くて、よくよく考えて無難な言葉を発するのが常だった。だからこそ、「つまらない」と元恋人の慎二にはよく言われていた。
 杏子が努力すればするほど、慎二はそれに対して何故か苛立ちを募らせているようだった。

 けれど、統一郎は慎二と違う。杏子を心から大切にしてくれているのがひしひしと感じられ、一緒に過ごす時間があっという間に感じられるほど幸せだ。

「嬉しいなぁ。ネクタイのプレゼント、楽しみにしています。僕にもまた杏子さんの服を選ばせてくださいね」
「でもそれだと、ずっとお礼のプレゼントのやり取りが終わりませんよ」

 ふふ……と笑う杏子を、統一郎もチラリと横目で見てから口元に笑みを浮かべた。
 
 形の良い指がハンドルを握っているのを見るだけでも、助手席に座る杏子の鼓動は密かに早くなってしまうのだが、時に見せる統一郎のそんな笑顔には反則級にときめいてしまう。
 もうこりごりだと思っていた恋に浮かれているのを、杏子も自覚していた。
 
「最近は杏子さんのお陰で体調も良くて、仕事が捗るので助かります。以前は遅くまで仕事をする事が多くて、こんな風にゆったりとした夜を過ごす事は無かったですから」
「そうなんですね。それは本当に良かったです。でも近頃頻繁に食事や買い物に誘ってくださるし、私との時間が負担になっていないか心配です」

 大企業の社長ともなれば、夜の会食も多いと客から聞いた事がある杏子は、統一郎が自分の為に無理をしていないかと心配だった。
 常に恋人の杏子をお姫様みたいに扱ってくれる日々は確かに新鮮で嬉しいが、恋人だからこそ統一郎の負担にはなりたくない。

「僕にとって、杏子さんとのこういう時間の為に仕事をしているようなものです。こんなに可愛くて綺麗で、癒しを与えてくれる恋人は貴重ですから」

 そう恥ずかしげもなく言ってのける癖に、嬉しそうに破顔した杏子がそのままじっと統一郎を見つめていると、統一郎は頬をほんの僅かに紅潮させ眼鏡をクイと持ち上げる。
 
 普段は完璧で隙のない印象の統一郎が、そんな風になるのも杏子の前だけ。杏子はそれが堪らなく嬉しくて、その度に胸が切なく締め付けられるような心地がするのだった。





「杏子さん、この製品なんですが……」

 統一郎はプロジェクトの打ち合わせだと言いつつ頻繁に杏子の部屋を訪れるようになり、そのうち泊まっていくようになった。
 そして今では杏子の借りていた部屋を会社に返し、統一郎の部屋で同棲している。
 
 流石はやり手の経営者一族と言うべきか、杏子は統一郎の強引かつ緻密な策略に負け、これまで固く閉ざしていた心の奥深くまで、統一郎という存在が侵食するのを許していた。

「これはもう少しフルーティーで華やかな香りが良いと思うんです。タオルの下で目を閉じていても、香りですぐにフロレゾンのこのシリーズだと分かるように。女性らしい香りでありつつ、すっきりとした雰囲気がいいですね」
「確かに、僕も五感に訴えるのは大切だと思います。髪への使用感だけでなく、ヘッドスパのリラクゼーション効果もしっかりと欲しいですから」
「お持ち帰り用のホームケアの製品も、この香りで統一したら一体感が増しますよね」

 何より杏子の生きがいでもあり、大好きな仕事に関する話を、二人して時間も忘れて打ち込めるのが心地良い。
 お互いにワーカホリックな面があるので、プライベートな時間に仕事の話をするのも苦痛ではなかった。

「仕事の話をしている時の杏子さんは、二人で出掛けている時よりもいきいきしてますね」
「ごめんなさい! つい夢中になっちゃって。でも、統一郎さんと出掛けるのだって、私はとても楽しいですよ。行った事もないようなお店とか、色んな経験をさせて貰えて、充実してます」

 白い頬を赤く染め上げた杏子は、風呂上がりで下ろしたままの黒髪を耳にかけ直す。
 あれよあれよと言う間に統一郎の部屋で一緒に暮らすようになったが、それだけでなく繰り返し訪れる毎日だって、これまでと全く違った生活になってしまった。

 高山はこれまで本店一軒だけにこだわっていたシャルマンの二号店『セレニテ』を開業し、杏子はセレニテの店長を任される事になっている。
 元からシャルマンの常連客だった有名人やセレブも期待するセレニテは、彼らのSNSや口コミのおかげで、開店一ヶ月前にも関わらず既に半年先までの予約が埋まっていた。

 セレニテはフロレゾン肝入りの新製品を日本でいち早く揃えるヘッドスパサロンとして開店前から一気に注目を浴びており、オーナーの高山だけでなく店長である杏子も毎日あちこちに引っ張りだこなのである。

「杏子さんが喜んでくれるなら、僕は何でもしますよ」

 杏子は背後から統一郎に抱きすくめられると、洗い立ての艶めく髪に統一郎の吐息がかかるのを感じて、身体をビクリと揺らす。
 この甘く低い声が耳の近くで聞こえると、胸が高鳴って苦しくなってしまう。いつの間にか自覚した統一郎への気持ちは、もうこれ以上ないほど膨らんでいた。
 
「統一郎さんは、もう充分に良くしてくれてます。私なんかには……勿体無いほど」
「それなら、もうそろそろ僕の妻になると言ってくれるとありがたいのですが。今後はアンバサダーとしてもっとメディアへの露出が多くなるでしょうし、綺麗な杏子さんが誰かに取られやしないかと心配です」
「私なんか、誰も……」
「杏子さん。その言葉は言わない約束ですよ」

 背後からギュッと杏子の身体を抱く統一郎は、フワリと甘い香りが漂うこめかみに口付けを落とす。くすぐったさと熱さが混じるその行為に、杏子は痛いほど胸を締め付けられた。

「ごめんなさい。言わない約束でしたよね」
「杏子さんが幼い頃に継母から受けた心の傷は、すぐには癒えないでしょう。あの男(元恋人)からの仕打ちも、今だにあなたを苦しめている。それは分かっています」
「統一郎さん……」

 幼い頃、杏子を陰で虐めていた継母。「可愛くない子」だと言われる度に、杏子は至らない自分の存在を消し去りたくなっていた。
 恋人だった慎二に裏切られたと知った時も、慎二を責め立てるより先に愚かな自分の事が嫌になって逃げ出した。

 自分という存在に自信が持てない杏子は、人と関わる時に必要以上に萎縮してしまう代わりに、相手に合わせるのが上手くなったのだ。

「でも前よりは少しくらい、あなたの心がそのしがらみから解放されつつあると感じています。これは僕の自惚れでしょうか?」

 統一郎と暮らし始めて、自分の意見を言う事が怖くなくなった。何故なら統一郎は、いつも杏子の言葉を遮らないから。
 受け止めて、認めてくれるから。
 
 杏子はカラカラに乾いた地面にどんどん水を与えるようにして、統一郎に自分の言葉を遠慮なく伝えられている。統一郎は全てを受け入れてくれると信じられるから。

 じわじわと知らぬ間に大きく変化していた自分の心に、杏子は気が付いた。

「そういえば、いつの間にか自分の意見を言うのが怖くなくなりました。統一郎さんが全部受け入れてくれるのを知っているから」

 杏子は後ろを振り返る。自分の目線より高い位置にある統一郎の目を、じっと見つめた。統一郎も風呂上がりで、いつもの眼鏡は外している。
 一見冷たく見えるくらい整った統一郎の美貌が、今はふわりと表情を緩めていた。切れ長の目が杏子を見る時だけは、その奥に違った色を宿すのを知っている。

「でも、やっぱりこのプロジェクトが成功をおさめるまでは、結婚を待って貰えませんか? その時が来たら、私から統一郎さんに……プロポーズします」

 統一郎は一瞬ひどく驚いた表情をしたものの、すぐに破顔し杏子を強く抱きしめ、優しく唇を重ね合わせた。
 以前の杏子なら、こんな願いを口にする事はなかっただろう。思いつきもしなかったに違いない。
 それが分かっているからこそ、喜びに浮かれた統一郎は、その夜ずっと杏子を離そうとしなかったのだった。
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