『彩生世界』の聖女じゃないほう ~異世界召喚されました。こうなったらやってみせます完全攻略~

『愛してる』

(まさか、またここに戻ってくることになるなんて)

 私は資料室の中に入り、後ろ手で扉を閉めた。
 いつもの長椅子の前まで行き、整頓されたその周囲を見下ろす。
 目覚めた後、食堂で食事(結局ブランチになった)まで取ってきたので、夢ではないだろう。皆の前で神域での一部始終を白状させられた居心地の悪さも、美生からの痛くない両頬パチンの感触もリアルだった。
 私が地下に持って行ったピクニックセットは、気絶している間に回収されたと聞いた。(なま)(もの)だったのでそれは仕方がない。あのまま傷むより、東館で暮らす子供たちのおやつにでもなった方が、いいに決まっている。

(あ、東館といえば)

 最初にそこを使えばどうかと聞かれていた、空き部屋。『彩生世界』から外れた今なら、引っ越せるか聞いてみてもいいかもしれない。やはり資料室は資料室だし、私が居座るのはまずいだろう。
 丁度、荷物も(まと)まっているようなものだ。早速、東館の担当者に聞いて――

「アヤコさん。こちらの準備が出来ましたので、荷物を持って俺に付いてきて下さい」
「ナツメ⁉」

 扉がガチャッと開く音がしたと思えば、同時にナツメの声が飛んできた。
 常時において、彼のそんな性急な行動は珍しい。こちらへ向かってくる歩調も足早で、これまた珍しい。誰かが今から、ここの資料室を使いたいのだろうか。

「あ、もしかして東の空き部屋の使用許可が下りたの?」

 そういえば提案してきたのはナツメだった。さすが話が早い。

「貴女は俺とイスミナで暮らすんですよ」

 と思いきや、引っ越しは引っ越しでも提示された行き先が違っていた。話が早いどころか、早過ぎて飛躍している。
 よく見れば、ナツメもそこそこ大きな荷物を手にしていた。

「それはまた急ね」
「貴女に話したのは初めてですが、俺の中ではとっくに決定事項でした」

 ナツメが秒の速さで答えながら、私に大きめの鞄を差し出してくる。うん、私の荷物が全部入りそうなジャストサイズだわ。
 私は大人しく荷物を詰めようとして、ふと目に留まったメモの束を手に取った。

「ああ、ナツメの実家がイスミナにあるのね」

 その一番上の紙に書かれた登場人物紹介を読んだ私は、自分で言いながら何とも奇妙な状況だと思った。
 これを書いたときの私は、ここにある情報をそらで言えるほど詳しかっただろう。『彩生世界』の大筋は覚えている。でも、それだけ。そこに登場するキャラクターたちの人物像が、見えてこない。
 今ある感覚は、私が『彩生世界』の仕事を受けて、初めて簡単な資料を見せてもらったときに似ていた。

「本当に……覚えていないんですね」

 ナツメの呟くような声に、私はメモを見ていた目を彼に向けた。
 地下で私がそう言ったときは喜んでいたように見えたのに。今そう口にした彼の声色には、明らかに罪悪感が(にじ)んでいた。
 私に忘れて欲しいと思っていたくせに、実際にそうなったら苦しむナツメ。一時は喜んでも、結局私が「失った」事実から目が逸らせない。その心は(かたくな)で。
 ――でも、幸い私はその解決方法を知っていた。
 手にしていたメモを鞄に仕舞い、ナツメと真っ直ぐに向かい合う。

「そうね。これも覚えてないけど、多分私がナツメに言った言葉の中に、物語で『ナツメ』が美生に言ったような台詞があったはずなのよ」
「え?」

 予想外の返事だったのだろう、ナツメの瞳が戸惑いに揺れる。

「でもって、当の本人には確かめもせず『失った』事実にこだわってしまう。今、ナツメがやってるそれ、私が美生にやったわ。で、叱られたわ」

 続けて言えば、ナツメが今度は目を丸くする。

「私たち、似た者同士ね。だから、はいっ」

 パチン
 私の両手で挟んだナツメの頬から、小さな音が上がる。手の大きさ的に、美生が私にしたより少々痛いかもだけど、そこはご了承願いたい。

「ナツメもこれで、この話はお終い」

 ここでも美生に倣ってにこりと微笑むべきか。私がそれを考える間もなく、その微笑むべき相手は気付けば近過ぎる場所にいた。

(ナツメ……)

 触れるだけの、優しいキス。
 それでいて、口の端を(ついば)んだり上唇を()んだりと、すぐに終わる気配がない。

(これも、似た者同士ね)

 すぐに終わって欲しくない。だから私は、ナツメの頬にあった両手を彼の首の後ろへと回した。
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