『悪役令嬢』は始めません!
「さて、そろそろ仕事の時間だ。シアはこの後、友達とお茶会だったかな」

 レンさんが席を立って、デートの時間の終わりを告げる。
 途端、抜けていた私の魂は現実世界へと連れ戻された。
 レンさんが空の食器を重ねて、片手で持ち上げる。流れるような所作にうっかり()()れてしまい、我に返ったときにはもう私の分まで持たせてしまっていた。
 こうなってしまっては、今から自分の分を持つと言うのも今更だ。今回は好意に甘えてしまおう。よし、次回は私がレンさんの分まで持つぞ。

「玄関まで見送りたいところだけど、そうも行かなくて。シアはどうする? 出るなら階段室までは一緒に行こう」
「あっ、出ます」

 答えて、私も鞄を持って席を立つ。
 一分一秒でも長く一緒にいられるなら、行くに決まっている。
 二人並んで出入口へと向かい、その途中レンさんが食器を返却口へと戻す。それからカフェを出て、廊下を連れ立って歩く――間もなく階段室へと到着。何故なら階段室は、カフェの真横であるから。

「それじゃあ僕は上だから」
「はい……」

 わかっている。わかっているけれど、離れがたいとついレンさんを見つめてしまう。
 そんな気持ちがだだ漏れだったのだろう、彼が困ったように眉尻を下げて。私は慌てて「いえっ」と頭を振った。

「その、お構いなく。ただ、レンさんが上の階に行って見えなくなるまで見ていたいだけなので……」

 言ってしまってから「あ」と、自分の発言のまずさに気付く。
 これのどこが「お構いなく」だ。そんなことをされたなら、気を遣ってしまうに決まっている。

「困ったな……」

 案の定、今度は明確に「困った」とレンさんに言わせてしまった。
 レンさんの仕事の邪魔をするつもりはないのに。そっと眺めていたいだけなのに。

「えっとその、大人しく帰りま――」
「シアが可愛くて、僕の名前を書いておきたいくらいだ」
「ふぇっ⁉」

 むぎゅっ
 意味もなくジタバタしたい衝動に駆られるのを、私は両手で鞄の持ち手を握り込むことで何とか(こら)えた。

(また。また可愛いって……)

 おでこコツンといい、思わせぶりだったり直球だったりする台詞といい、一時間も会えない代わりに濃密に愛を語るスタイルなの? そうなの? そんな愛の言葉の(おう)(ばん)振る舞い……大歓迎です‼

(でも、名前を書いておく……って)

 小さな子の持ち物に付ける『お名前シール』を思い出した私は、ついくすっと笑ってしまった。了承したなら、レンさんのあの万年筆で私も記名されてしまうんだろうか。
 そんなおかしな想像をしてしまうくらいに、私は彼の言葉遊びに浮かれていた。

「ふふっ、いいですね。外から見えない場所なら、書いて欲しいくらいです」

 ふわふわとした気分のまま、レンさんにそう返す。
 そうしたらレンさんも微笑んで――って、あれ? いつの間に私の肩の横にレンさんの顔が……?

「シアの純粋さはときどき凶悪でさえあるよね」
「⁉」

 身を屈めたレンさんに耳元で囁かれ、私は瞬時に完全に固まった。
 レンさんが、動けないでいる私の長い後ろ髪を掻き上げる。

「△◎※□⁉」

 無防備になったうなじに来た、チクリとした感覚。前世と今世合わせて初体験であっても、何をされたのかはさすがにわかった。
 身を起こしたレンさんが、ひらひらと私に片手を振る。

「それじゃあ、大きな風に吹かれでもしたら見えないよう頑張って。僕のものって書いてあるから」

 ぱくぱくと声が出せないでいる私を尻目に、レンさんが階段を上がって行く。

「……」

 風なんて吹くはずのない、階段室。それなのに彼の背中を見送る間中、私は熱を帯びたうなじから手を離すことができなかった。
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