ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました
「そっか、そうだよな。田村が居てくれて良かった……」

 一人だと必要以上に考え込んでしまっていたと、川岸がはにかむ。食べ終わった食器を食洗機に投入している穂香の横に来て、冷蔵庫から出したばかりの缶ビールを差し出してくる。郵便受けを覗いた時から付きまとっていたモヤモヤが、さっぱりと消え去ったお祝いだ。

 リビングのテレビでは21時のニュース番組が始まっていた。穂香もソファーで川岸の隣に座ると、冷えた缶のプルタブを押し上げる。プシュッという小気味いい音に誘われるように、口をつけてビールで喉を潤す。シャワーも浴びて、もう後は寝るだけという状況でのアルコールはなんて贅沢なのだろう。

 テレビの画面が天気予報に切り替わった頃だろうか、隣にいる川岸の手が不意に穂香の髪に触れてきた。そっと優しく持ち上げた束へ、自分の顔を近付けてくる。

「俺のシャンプー、使った?」
「あ、すみません……自分の切らしちゃってたから、お借りしました」
「いや、別にいい」

 クンクンと髪の香りを嗅がれて、穂香は身体を硬直させる。風呂上りだろうが、異性に匂いを嗅がれるのは緊張する。さすがにこれは至近距離過ぎないかと、少しばかり身体を離れさせてみるが、川岸は穂香の髪に触れるのを止めようとしない。それどころか、さらに顔を近くに寄せて首筋を直接嗅ぎ始める。敏感なところで感じる男の息遣いに、ビクリと身体を震わせてしまう。
 この家で住むようになって、彼とこんなに接近したのは初めてだ。

「あ、あの……オーナー?」
「ボディソープは俺のとは違うな。違うけど、いい匂いがする」

 まさか酔っ払っているのかと疑ったが、彼はまだ1缶も開けてはいないはずだ。ソファーテーブルに置かれたビールは開いてはいるが軽く口を付けた程度。弥生と違って、この程度のアルコールでは酔う訳がないのは知っている。こないだは生中3杯でも平然としていたのだし。
 じゃあこの状況はなんなんだ、揶揄われてるのかと思った時、穂香の首に川岸の唇が触れてきた。

 驚いて振り向いた穂香のすぐ目の前には、綺麗に整った川岸の顔があった。黙ってこちらへと向けられている熱っぽい視線に、穂香は逃げることができなかった。否、逃げる気なんて最初から無かったのかもしれない。

「田村はずっと、傍にいてくれ」

 オーナーの言葉に、黙って頷き返す。さらに近付いてくる顔と、伸ばされた腕を振り払おうとはしなかった。たとえ、彼にとっては元カノへの想いを断ち切るための、ただの儀式だったとしても。

 早まる鼓動と、繰り返し触れてくる唇の感触。上司の腕の中で、穂香は甘酸っぱい吐息を漏らした。
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