ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました
 まだ30代だという川岸は、働く女性をターゲットにしたセレクトショップ『セラーデ』を系列店を含めて5店舗も展開している、所謂やり手の経営者だ。元々は親が営んでいた昔ながらの洋品店を引き継いだ二代目らしいが、どの店舗も先代の店の面影は全くない。

 商店街の洋品店だった店を一代でここまで規模を大きくしただけあり、彼の仕事に対する意識はとてつもなく高い。数字に厳しく、店舗内では細かい指示も多い。
 背も高くて整った顔立ちだから、彼が店に来ると近隣の女性店員達からの遠巻きな視線を感じることがある。でも、正直言って、穂香は苦手だ。

 自分用のロッカーにバッグを突っ込みながら、スーツケースを駅前のコインロッカーに預けて来たことに安堵する。大荷物を持って出勤していたら、オーナーから何を言われるか分かったものじゃない。

「……田村さん、ちょっといいかな?」

 まだ何の失態もしていないつもりなのに、オーナーから名前を呼ばれて穂香がビクつく。急いでネームプレートを胸元に付けると、穂香は川岸の方を振り返る。

「は、はい。何でしょう?」
「右のヒール、ちょっと汚れてるね」
「?! すみませんっ、すぐ拭いてきます!」

 知らない内に泥でも跳ねたのか、パンプスのヒールが少し汚れているのを指摘されてしまった。ショップ店員は動くマネキンだ。制服として店の取り扱い商品を社割で安く購入したのを着るのが原則で、穂香達のコーディネートを参考にしてくれる客も少なくない。だから、彼の指摘は上司としては当然のことで、セクハラでも何でもない。

 ――やばっ。朝から怖すぎるんだけど……。

 他にも何を注意されるかと、穂香はオーナーの眼から逃げるようストックルームを出て、ショッピングモール内のトイレへと走った。穂香がヒールの汚れを落とし終えて戻って来た時は、チーフである弥生がオーナー直々に指示を受けているところだった。

「ここの在庫数だと、ストックは全出しでもいい。カットソーは島什器だけじゃなく、アウターと合わせて壁面でも展開して、どちらからも手に取って貰えるように。あと、陳列に規則性が無いね。量を出していこうと思ったら全体に統一感が無ければ、ただごちゃつくだけだから――」

 頷きながらメモを取る弥生の表情は真剣だ。洋服が好きでいずれはバイヤーになりたいと言っているだけあり、何となく働いているだけの穂香とは志の高さが違うのだ。
 二人の横を通り過ぎようとして、川岸がまた穂香のことを呼び止めてくる。

「あ、田村さん。そこの棚下、かなり埃が溜まってるみたいだから拭いてくれるかな」
「は、はいっ」

 オーナーが居ると全く気が抜けないと、穂香はモップを取りにストックルームへ駆け込みながら、ハァと小さく溜め息を吐いた。
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