ネカフェ難民してたら鬼上司に拾われました
「同棲してた彼氏に夜逃げされたんですよ、この子。合鍵を返して貰ってないから、怖くて家に帰れないって、駅前のネットカフェに住んでるんです」
「す、住んでませんって!」
「えー、でももう一週間くらい泊まってなかった? ネットカフェって、私は行ったことないけどそんなに居心地いいものなの?」
「全然。昨日も夜中にブース間違った人にいきなり開けられてビックリしたし……早朝に誰かのアラームで叩き起こされるし、居心地は最悪ですよ。でもホテルより圧倒的に安いんです」

 穂香の置かれた状況を弥生は面白がって揶揄ってくる。そんな部下二人のやり取りを、川岸は渋い表情で黙って聞いていた。

「ちゃんと引っ越しは考えてるんですよ。敷金が貯まったら新しい部屋に移ろうと思ってて――」
「駅前のって、もしかしてロータリー前のか?」
「あ、そうです。ビルの3階に入ってる店です。オーナー、行かれたことあるんですか?」

 穂香の返答に、川岸はハァと呆れたように溜め息を吐く。

「お前、あそこは女子が一人で泊まるようなとこじゃないだろ。鍵付きブースも専用エリアもないし」

 言われてみれば確かに女性客への配慮というものが無い店ではある。シャワー室も一つしかないし、全体的に古臭くて薄暗い。ネットカフェと呼ぶよりも漫画喫茶の方がしっくりくる設備だ。

「田村さんはもう少し、防犯意識を持った方がいい」
「……はぁ」

 至極当たり前のことを言われているのは分かるが、今の穂香にはこれしか選択肢が無いのだ。事情も知らず無遠慮に常識を振りかざされるのは腹立たしさしか感じない。ホテルに連泊できる余裕があるのなら、とっくにそうしている。穂香だって好きでネットフェで寝泊まりしている訳じゃない。
 だからオーナーのことが苦手なのだと、生中のグラスを片手で持ち上げ一気に喉へと流し込む。

 その後に三人で何を話したのかは朧気だ。川岸が知り合いの店で修行していた時の話などを弥生が興味津々に聞いていたような気もするが、穂香はオーナーの奢りだと聞いてから、目の前に運ばれてくる料理と格闘し続けていた。

「オーナー、今日はご馳走様でしたー」
「ご馳走様でした。お疲れ様です」

 会計を済ませ、店の前で礼を言って解散した後、弥生は駅の方へ、川岸はタクシー乗り場へ、穂香はいつものネットカフェへと向かおうとしていた。
 ――はずだった。

「おい、ちょっと待て」

 スーツケースを引いて駅前ロータリーを横切りかけた穂香は、後ろから腕を掴んで呼び止められる。振り返ってみると、少し焦り顔のオーナーの姿があった。彼が一旦乗り込んだはずのタクシーは、数メートル後ろでハザードを点滅させて停車していた。

「お前、今日もあそこに泊まる気なのか?」
「はい。あそこしかないんで……」
「ハァ……いいから、ちょっと来い」

 タクシー運転手にトランクを開けて貰うと、川岸は穂香のスーツケースをそこに放り込んだ。そして、後部座席の奥へと部下の身体を押し込み、自分もその隣に座る。彼の「お願いします」の台詞で走り始めたタクシーは、終電を逃すまいと駅まで急ぎ足で向かう人の横を通り過ぎていく。
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