引きこもり婚始まりました






それは手の甲ではなかったけれど、まるで王子様のキスみたいだと思った。
お姫様になった気分というより、王子様を初めて見た村娘の気分――そんな想像に至る私は、意外とまだまだ乙女心を持ち合わせていたのかもしれない。


「……熱いね」


お風呂上がりの熱を冷ましに来たはずが、どんどん体温が上昇してクラクラする。


「逆上せたから、水飲みに来た……」

「……ってことにして、誘いに来た? 」


声が聞こえてきた時点では、そんなつもりじゃなかった。
でも、言い訳はしないと言った以上、無言になるしかない。


「じゃ、座って待ってて。水持ってくるから」


嘘じゃないのに、本当のことなのに。
笑って離れるよう促されると、ものすごく大きな嘘を吐いてしまった気になる。


「こら」

「一緒に行く……」


後ろを着いていく雛の気持ちになりきれないのは、疚しさがあるから。


「まだ分からないなら、仕方ないから俺の頭の中ちょっと公開しようか? 」


ふと漏れた溜息は少しおどけているのに十分色っぽくて、私の方こそ思考開示できなさそうだ。


「俺もシャワー浴びてきた方がいいかな。でも、今このタイミングでシャワー浴びたりしたら、キスもまだなのに我慢できなくなるかも。それとも」


――めぐのそれは、我慢しなくてもいいってことなの?


「……って。言えるとこだけ抜粋したし、しかもかなり婉曲な表現にしてそれ。これ以上は、めぐの火照ってるのが移りそうで怖い。……頭、冷やさせてよ」


始まりがおかしかったからだ。
好きな人、しかも、ずっとお兄さんの彼女だった人がいきなり転がり込んでくるなんて、もしも私だったら気でも狂いそうになる。


「……優冬くん」

「ん? あー、水必要なの俺の方かもね。とにかく、大人しくソファで待っててくれない……」


――だから、ここは私から行動するべきところだ。


「……ごめん。こんだけ忠告してのそれは、正直苛々する。俺の勝手な事情だって分かってるから。そんなこと、させないでほしい。春来と同じドーブツになりたくないって、それだけで()ってるんだよ。……本当にお願い」

「優冬くんは、春来とは違う……」


少し触れる面積を減らしても、優冬くんはそれじゃ足りないと首を振った。


「……だから」


本当にイライラしてるのが伝わる、低めの声だった。
それも、わざとなんだと思う。
私が逃げてしまえるように。


「言ってるでしょ。めぐが欲しいって、失いたくないって気持ちの差だよ。……しようと思えばできる。怖くてやらないだけ。試してみる……? 」


遠回しのような、直球のような。
何にしても私だけだと言われるのは、その時点で春来とは違った。
もちろん春来だって浮気するとは思ってもなかったけど、優冬くんの言う頭の中公開は、寧ろ誠実ですらある。

だって、私たちは大人なのだ。

大人になってしばらく経って、最早私はお姉さんでもお兄さんの彼女でも、何でもなくなってしまった。


「……いいよ」

「……っ、本気? まだ付き合ってるとも言えないのに……」

「うん。だから……」


――だから、できたら。


「……その。先にちゃんと抱きしめて、キスしてからにしてほしい……です」


息を呑む音が聞こえたと思ったら、呆れたように吐かれ。


「……えぇ……」

「えー……は俺の台詞だよ。っていうか、それすら出てこなかった。俺の気持ち知ってるからって、あんまりじゃない。男の事情弄ぶのも大概にして」

「や、い、意味分からないよ」

「じゃあ、一回黙っとこっか」


(……はい)


何だか分からないけど、ご機嫌を損ねてしまったらしい。
精一杯応えたいと思ったのに、どこをどう間違ったんだろう。
答えを探そうとしているうちに、ぎゅっと抱きしめられた。


「……好きだよ。本当に、ずっと好きだった。そこまで言ってくれるなら、いいんだよね」


――俺に、兄さんから奪わせて。


「……うん……」


敢えて、故意に「兄さん」と呼んだのだと。
強請るように降る視線に、はっきりと告げられて。
もう春来の彼女でも何でもないのに頷いたのは、了承の後に訪れるキスが欲しかったんだと思う。

そして、そのとおりのことが起きて、ようやくくっつくのを許されて気づく。
――奪うも何も、とっくに優冬くんに惹かれている。







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