引きこもり婚始まりました
「大好きな彼氏の顔見上げた瞬間吹き出すって、ひどくない? 」
それからしばらく経ったある日、オフィスビルとはとても思えない、それは大層なエントランスを出て。
夕日に眩しそうにする優冬くんを見上げると、今朝も朝日を恨めしそうに睨んでたなと思い出した。
それから、事の発端となった数日前の午後のことも。
『……お疲れ』
『どうかしたの……? 』
休憩がてらキッチンにふらりと行くと、優冬くんがお茶を淹れていた。
私の部屋まで届けてくれるつもりだったのか、律儀に同じ濃さになるようにちょっとずつ二つのカップにお茶を注ごうとする手を止める。
どう見たって優冬くんの方が疲れてるし、何だかものすごくショックを受けた顔してた。
『……想定外』
『……え? 』
聞き取りにくくてもっと近づくと、ふと吐かれた息すら掠れてるみたいで心配になる。
背中にそっと触れてみると、すぐに搔き抱かれた。
『今度、出社してほしいって。せっかく、めぐと引きこもってたのに嫌なんだけど……』
『………………うん? 』
「だって、この世の終わりみたいに言うの思い出しちゃって」
スーツ姿の優冬くんを、私も少し堅い服装をして見上げる。
それがすごく新鮮で、少しくすぐったっかったっていうのもある。
「幸せな引きこもり生活の終わりだもん、ショックだったんだよ。こんなことまで、春来のせいの余波がくるとは。めぐは大丈夫? 笑ってくれて安心したけど」
「うん。緊張したけど、思ったよりも好意的に受け入れられた……かな。ほっとした」
「お偉方」への挨拶は、思いのほか順調だった。
無事に終わってほっとした以上に、上手くいったんじゃないかと思う。
「みんな、めぐを気に入ってたね。俺を家から連れ出しただけでも、結構な功績みたいだよ」
「……私が着いてきたんですけど」
もちろん、優冬くんの手前っていうのもあるだろう。
でも、皆さん友好的でひたすらほっとした。
「同世代の女性もいたしね」
「彼女、めぐに会いたがってたみたい。気が合いそうならよかった」
最初は身構えてたけど、杞憂だった。
おじさんばかりで緊張してたから、気を遣って話しかけてくれて。
「お披露目しちゃったし、ちょくちょく顔出さないと。毎日引きこもってられなくなるの辛すぎる……」
「……ちょくちょくでいいんだ? 」
毎日じゃないなら、あんまり変わらないのでは。
でも、それすら寂しくなっちゃうものだろうか。
「じゃなきゃ、発狂する……。もう、めぐがいないのに耐えられないもん。でも、ちょっとは我慢しなきゃ」
――蜜月を迎える為なら、仕方ないかな。
「……めぐ」
その言葉の意味を考えて、恐らく言葉どおりだと結論づけ、続けてどの程度の重さなのかを量る間、一歩も動けていなかった。
「俺、急いでるかもしれない。この状況を利用して、めぐとのこと、もっと進めようとしてる。なのに、言えない。このままのスピードでいいのか、そもそもこの方向で嫌じゃないのか聞く勇気がない」
「……聞いてるじゃない」
婚約者だと紹介された。
春来の話は一切出なかったけれど、先方が知らないはずはない。
寧ろ、春来といた期間までプラスして――最初からずっと優冬くんの婚約者でいられたみたいな反応だった。
この期に及んで、二度目の破棄なんてできない。
「私を、連れてきてくれてありがとう」
何と言うべきか迷った。
プレッシャーを与えるどこか、私こそ急かしかねないと思ったから。
「めぐ以外にいるわけない。……みっともないね。君に言わせて。場所がこんなとこなのも、ごめん」
「雰囲気ある場所じゃないかもしれないけど、将来は見えてるんじゃないかな。あとは、優冬くんがロマンチックにしてくれるって期待してる」
楽しそうに笑った後、ふとこちらに流れてきた視線だけで、ロマンチックどころか煽情的ですらあるけど。
「愛してる。もうずっと前から夢見てたから、さすがにここではちょっとね。……あとで、正式に」
左手の薬指に恭しく口づけられて、それが何なのかを思わせぶりに、でも明確に告げられる。
ちっとも簡素化されていない、甘く纏わりつくような口づけは、今は求められていない返答をうっかり口にしてしまいそうになる。
――もう、決まってる。何もかも、この先のことすべて。