空と海が出会う場所〜発達障害をもつ私が出会った、小さな恋と希望の物語
12.
繋いだ手の影、傘の下でかわした視線
次の日の夕方、晴空と近所の川沿いの道を歩いて家に帰った。
その道は、晴空と〝モモ〟がよく一緒に散歩した道だそうだ。
モモは、晴空がかつて飼っていた犬で、おそらく雑種だったけれど、豆柴に似た外観をしていたらしい。
晴空は、モモのことを今でも愛しているのだろう。モモのことを話す晴空の口調には、優しさと愛情と死に別れた悲しみが満ちていた。
晴空がモモを拾ったのは、小一の冬で、それから、モモは晴空の家族になった。一緒に遊んで、一緒に眠って、一緒に成長を重ねた。
晴空が小五の時、おじいちゃんが病院で亡くなった。慢性心不全の末期だった。晴空は両親と一緒に病院へ呼ばれ、おじいちゃんとお別れをした。
それから家に帰ると、モモが玄関にやってきて、晴空を見上げてしっぽをふった。
普段は晴空が帰ってくると嬉しそうに飛びついてくるのに、その日は小首を傾げて晴空を見上げていた。
晴空がしゃがんで頭をなでてやると、モモはキューキュー鳴きながら晴空の顔をなめた。なぐさめるみたいに、何回も。
ーー暗い顔をしているから、心配してくれているんだ。
晴空はそう思った。
言葉は通じなくても、晴空の気持ちがモモにはちゃんと伝わるようだった。
それからも、モモは晴空の一番近くにいた。毎日、毎日、たくさんの時間を共に過ごした。一年前に、モモが病死するまでは。
死の数日前から、モモは歩けなくなった。だんだんと弱っていくのを、晴空はただ見ているしかなかった。
苦しいだろうと思った。死ぬことは怖いだろうとも思った。
晴空にできることは、そばにいてやることだけだった。
晴空がなでると、モモはどんなに苦しくてもわずかにしっぽを持ち上げてふった。
晴空はモモをみとった。最期の時までそばにいて、ちゃんと見送った。
モモはたくさんのことを教えてくれた。
愛すること。
愛されること。
悲しい時にそばに誰かが寄り添ってくれたら、心が強くなること。
晴空は思った。
これから先、自分の存在を必要とする人が現れたら、モモのようにそばに寄り添ってあげようとーー。
晴空からモモの話を聞きながら、川面を眺めた。
風がすみれ色に染まった川面を渡っていく。
波打つ川面が夕日を反射して光って見えた。
この川沿いの道を、これまで何度も晴空と歩いたことがある。
真っ直ぐに伸びる見晴らしのよい道を、どっちが早く駆け抜けられるか、ふざけて競争したことも、川原におりて小石で水切りをして遊んだこともあった。
晴空は楽しそうに笑っていたけれど、もしかしたら、この場所を一緒に散歩したモモを思い出してさみしく感じていたのかもしれない。
私はとなりを歩く晴空の横顔を眺めた。
すると、晴空は私の方を向いていつもみたいに笑った。だけど、その笑顔に、いつもとは少し違う表情が読みとれて……。
ーーああ、なんだろう。何かしてあげたくて、でも何も思いつかなくて……。
となりを歩く晴空に、私はそっと距離をつめた。
歩くごとに私の手と晴空の手が揺れて、手の甲が軽く触れ合った。
私は手をそっと晴空の手に重ねた。
晴空が驚いた様子で、私に顔を向けた。
私は気恥ずかしくて目を合わさずにいたが、キュッと手を握り返されるのを感じた。
私も手にキュッと力をこめた。
空は、すみれ色のような藤色のような、あいまいな色をしていた。
地面に伸びる二人の影が、仲良く手をつないで揺れていた。
• • •
「雨の音」
そう言って絵を描く手を止めて、教室の窓に振り返った。
私はその時、いつものように、フラグを貼り付けた板を教室の壁に立て掛けて、絵の続きを描いていた。
振り向いた先に、窓にもたれかかる晴空の姿があった。教室にその時いたのは晴空と私だけだった。他の生徒は下校していた。
窓の外に、五月の柔らかな雨が降っている。
校舎のそばに立つイチョウの緑色の葉を、しとしとと濡らしていた。
雨のせいか、まだそんなに遅くないのに外が暗く見えた。
「そろそろ、終わりにして片付けるよ」
私が言うと、
「いいよ。気がすむまでやれよ。待ってるから」
と晴空が言った。
今日は、絵に色をつける作業をしていた。
筆とパレットを持って、縦の長さが自分の身長とほとんど変わらない大きな絵と格闘していた。
色をつけながら、背景が少し寂しいなと感じていた。船の後方のスペースが空いているから、そこに何か描き足したかったが、いい案が浮かばなかった。
私が絵を描いている間、晴空は本を読んだり、宿題をしたり、私が絵に向かっているのをただ眺めたりしていた。
描き終わるまでそばで待たれていても、不思議と気づまりではなかった。
むしろ、そこに晴空がいると感じながら絵を描くことが心地よかった。
もともと、人付き合いが苦手な私が、こんなふうに感じるなんて、不思議なことだった。
だけど、確かに心地よかった。
教室に晴空の気配が溶けていく。
自分の気配もそこに混ざり合う。
教室を、しとしとと雨の音が濡らす。
絵に色を添えるたびに、私の胸はむずむずとした。
自分の気持ちが絵の中で色づこうとしている。
そんなふうに感じた。
いつの間にか晴空が隣に立っていて、感心するような顔で絵を眺めていた。
「おまえの頭の中には、どんな景色が広がってるんだろうな」
とまぶしそうな声でつぶやく。
「一緒に並んだら、おまえが見てるものが見えるかな」
と、すぐ隣に立って、同じ高さに顔を並べて絵を眺める。
「近いよ……」
と、肘でついて遠ざける。
「何? 照れてんの?」
と晴空がニヤッとする。
「照れてない」
ツンとして言う。晴空がおかしそうに笑った。
それから、ふと、笑うのをやめて、真面目な口調でこう尋ねてきた。
「海音はさ、俺がおまえのどこを好きか知ってる?」
私はドキリとした。
「さあ……」
視線をそらして、動揺していないふりをした。
「ちっとも分かんない」
「だろうな」
晴空は笑みを含んだ声でつぶやいた。
「変なの……」
さっきの質問は、どういう意味だろう。
どうして、わざわざ聞くんだろう。
そして、私はどうしてこんなにドキドキしているんだろう。
私の横顔を晴空が眺めている。
視線がこそばゆい。
晴空は、私を見つめながら、
「なあ……」
と話しかけてきた。
「何?」
「今度さ、美術館に行ってみないか?」
私は目を丸くした。晴空に外出に誘われたのは初めてだった。
でも、どうして美術館なんだろう。
晴空が絵が好きだなんて話は聞いたことがない。
私も美術館に行きたいなどと言ったことはない。
「私、絵は好きだけど、美術館に行きたいって思ったことはなかったけど……。
図書館に画集もあるし、ネットでも見られるし」
「本物を見るのは違うと思うよ」
「そういうものなのかな?」
私は考えこむ。
初めてやることには、いつも少し不安を感じた。
それに、人混みも苦手だった。
だから、今まで美術館に出かけてまで、絵を見ようと思ったことがなかった。
「私、本物を見たことがないから分からないけど……」
「行ったことないの? 美術館とか、ギャラリーとか……」
意外そうな顔をして、晴空がこちらを見た。
「ないよ」
「じゃあ、なおさら行こうよ」
なあなあ、行こうよ、とじゃれつく犬みたいな声を出す。少しあざとさを感じるしゃべり方だった。
「やだってば」
納得していないことをするのは嫌いだった。嫌だ、嫌だとつっぱねた。
なのに、晴空はまったく引く様子がない。
ますます、楽しそうな顔で誘ってくる。
根負けした私は、
「分かった……」
としぶしぶ答えた。
「本当は、まだ納得できてないんだからね」
「分かってるって。でも、行ってくれるんだろ。約束だからな」
晴空がニッと口端を持ち上げた。
その顔を眺めて、ちょっと困ったように眉尻を下げる。
結局、いつもこうだ。
私が不機嫌な顔をして見せても、晴空の方が一枚うわてで、うまく丸め込まれてしまう。
数日前、公園でもめた話についても、結局は晴空の提案どおりになってしまった。
「私、やだからね。晴空以外の人に相談なんかしたくないから」
そう言って何度も断ったが、晴空はまったくめげない。最終的には晴空の言葉にうまくのせられて保健室に足を運んでいた。
保健室の先生は時々質問をはさみながら丁寧に悩みを聞いてくれた。
そして、今度、保健室の先生からスクールカウンセラーを紹介されることになった。
「スクールカウンセラーはね、心理相談にのってくれる人よ。人づきあいについてのアドバイスも得意だから、じっくり話をしてみてね」
保健室の先生は、メガネの奥の目を細くして私に言った。
「きっと、あなたの人生にとって、スクールカウンセラーとの出会いが重要な意味をもつようになると思うわ」
保健室の先生の背後にある窓からは、昼間の日差しが柔らかく差し込んでいた。太陽は、私の行く道を指し示すように、空の高みで輝いていた。
「晴空ってずるいよね」
帰りの道中、傘を忘れていた私は、晴空の傘に入れてもらっていた。
「何が?」
と、晴空がとぼける。
「私がどんなにごねても、晴空の思った通りになっちゃうから」
晴空は、ふふっと笑うと、
「おまえは我が強いんだけど、俺の話はちゃんと聞いてくれるからな」
と言った。そう言って、私の頭をポンポンとなでた。
「なあ、話変わるけど、美術館に行く日、いつにする? 俺、今度の土曜日がいいんだけど」
「なんで?」
「その日は、ちょっと特別な日だから」
晴空の声がすぐ隣で聞こえる。高さの違う肩が傘の下で並んでいた。
「何の日?」
と私が聞くと、
「まだ教えない」
と、秘密めいた言葉をつぶやいた。
そして、晴空はこれまで見たことがないような笑みを浮かべた。
親密さと大人びた雰囲気が入り混じる笑みだった。
キスをする直前に浮かべるような、特別な笑みに見えた。
視線を交わしているだけなのに、私はとてもドキドキとした。
しとしとと、柔らかな雨がふる。雨の音が傘ごと二人を包みこんでいた。
続く~
その道は、晴空と〝モモ〟がよく一緒に散歩した道だそうだ。
モモは、晴空がかつて飼っていた犬で、おそらく雑種だったけれど、豆柴に似た外観をしていたらしい。
晴空は、モモのことを今でも愛しているのだろう。モモのことを話す晴空の口調には、優しさと愛情と死に別れた悲しみが満ちていた。
晴空がモモを拾ったのは、小一の冬で、それから、モモは晴空の家族になった。一緒に遊んで、一緒に眠って、一緒に成長を重ねた。
晴空が小五の時、おじいちゃんが病院で亡くなった。慢性心不全の末期だった。晴空は両親と一緒に病院へ呼ばれ、おじいちゃんとお別れをした。
それから家に帰ると、モモが玄関にやってきて、晴空を見上げてしっぽをふった。
普段は晴空が帰ってくると嬉しそうに飛びついてくるのに、その日は小首を傾げて晴空を見上げていた。
晴空がしゃがんで頭をなでてやると、モモはキューキュー鳴きながら晴空の顔をなめた。なぐさめるみたいに、何回も。
ーー暗い顔をしているから、心配してくれているんだ。
晴空はそう思った。
言葉は通じなくても、晴空の気持ちがモモにはちゃんと伝わるようだった。
それからも、モモは晴空の一番近くにいた。毎日、毎日、たくさんの時間を共に過ごした。一年前に、モモが病死するまでは。
死の数日前から、モモは歩けなくなった。だんだんと弱っていくのを、晴空はただ見ているしかなかった。
苦しいだろうと思った。死ぬことは怖いだろうとも思った。
晴空にできることは、そばにいてやることだけだった。
晴空がなでると、モモはどんなに苦しくてもわずかにしっぽを持ち上げてふった。
晴空はモモをみとった。最期の時までそばにいて、ちゃんと見送った。
モモはたくさんのことを教えてくれた。
愛すること。
愛されること。
悲しい時にそばに誰かが寄り添ってくれたら、心が強くなること。
晴空は思った。
これから先、自分の存在を必要とする人が現れたら、モモのようにそばに寄り添ってあげようとーー。
晴空からモモの話を聞きながら、川面を眺めた。
風がすみれ色に染まった川面を渡っていく。
波打つ川面が夕日を反射して光って見えた。
この川沿いの道を、これまで何度も晴空と歩いたことがある。
真っ直ぐに伸びる見晴らしのよい道を、どっちが早く駆け抜けられるか、ふざけて競争したことも、川原におりて小石で水切りをして遊んだこともあった。
晴空は楽しそうに笑っていたけれど、もしかしたら、この場所を一緒に散歩したモモを思い出してさみしく感じていたのかもしれない。
私はとなりを歩く晴空の横顔を眺めた。
すると、晴空は私の方を向いていつもみたいに笑った。だけど、その笑顔に、いつもとは少し違う表情が読みとれて……。
ーーああ、なんだろう。何かしてあげたくて、でも何も思いつかなくて……。
となりを歩く晴空に、私はそっと距離をつめた。
歩くごとに私の手と晴空の手が揺れて、手の甲が軽く触れ合った。
私は手をそっと晴空の手に重ねた。
晴空が驚いた様子で、私に顔を向けた。
私は気恥ずかしくて目を合わさずにいたが、キュッと手を握り返されるのを感じた。
私も手にキュッと力をこめた。
空は、すみれ色のような藤色のような、あいまいな色をしていた。
地面に伸びる二人の影が、仲良く手をつないで揺れていた。
• • •
「雨の音」
そう言って絵を描く手を止めて、教室の窓に振り返った。
私はその時、いつものように、フラグを貼り付けた板を教室の壁に立て掛けて、絵の続きを描いていた。
振り向いた先に、窓にもたれかかる晴空の姿があった。教室にその時いたのは晴空と私だけだった。他の生徒は下校していた。
窓の外に、五月の柔らかな雨が降っている。
校舎のそばに立つイチョウの緑色の葉を、しとしとと濡らしていた。
雨のせいか、まだそんなに遅くないのに外が暗く見えた。
「そろそろ、終わりにして片付けるよ」
私が言うと、
「いいよ。気がすむまでやれよ。待ってるから」
と晴空が言った。
今日は、絵に色をつける作業をしていた。
筆とパレットを持って、縦の長さが自分の身長とほとんど変わらない大きな絵と格闘していた。
色をつけながら、背景が少し寂しいなと感じていた。船の後方のスペースが空いているから、そこに何か描き足したかったが、いい案が浮かばなかった。
私が絵を描いている間、晴空は本を読んだり、宿題をしたり、私が絵に向かっているのをただ眺めたりしていた。
描き終わるまでそばで待たれていても、不思議と気づまりではなかった。
むしろ、そこに晴空がいると感じながら絵を描くことが心地よかった。
もともと、人付き合いが苦手な私が、こんなふうに感じるなんて、不思議なことだった。
だけど、確かに心地よかった。
教室に晴空の気配が溶けていく。
自分の気配もそこに混ざり合う。
教室を、しとしとと雨の音が濡らす。
絵に色を添えるたびに、私の胸はむずむずとした。
自分の気持ちが絵の中で色づこうとしている。
そんなふうに感じた。
いつの間にか晴空が隣に立っていて、感心するような顔で絵を眺めていた。
「おまえの頭の中には、どんな景色が広がってるんだろうな」
とまぶしそうな声でつぶやく。
「一緒に並んだら、おまえが見てるものが見えるかな」
と、すぐ隣に立って、同じ高さに顔を並べて絵を眺める。
「近いよ……」
と、肘でついて遠ざける。
「何? 照れてんの?」
と晴空がニヤッとする。
「照れてない」
ツンとして言う。晴空がおかしそうに笑った。
それから、ふと、笑うのをやめて、真面目な口調でこう尋ねてきた。
「海音はさ、俺がおまえのどこを好きか知ってる?」
私はドキリとした。
「さあ……」
視線をそらして、動揺していないふりをした。
「ちっとも分かんない」
「だろうな」
晴空は笑みを含んだ声でつぶやいた。
「変なの……」
さっきの質問は、どういう意味だろう。
どうして、わざわざ聞くんだろう。
そして、私はどうしてこんなにドキドキしているんだろう。
私の横顔を晴空が眺めている。
視線がこそばゆい。
晴空は、私を見つめながら、
「なあ……」
と話しかけてきた。
「何?」
「今度さ、美術館に行ってみないか?」
私は目を丸くした。晴空に外出に誘われたのは初めてだった。
でも、どうして美術館なんだろう。
晴空が絵が好きだなんて話は聞いたことがない。
私も美術館に行きたいなどと言ったことはない。
「私、絵は好きだけど、美術館に行きたいって思ったことはなかったけど……。
図書館に画集もあるし、ネットでも見られるし」
「本物を見るのは違うと思うよ」
「そういうものなのかな?」
私は考えこむ。
初めてやることには、いつも少し不安を感じた。
それに、人混みも苦手だった。
だから、今まで美術館に出かけてまで、絵を見ようと思ったことがなかった。
「私、本物を見たことがないから分からないけど……」
「行ったことないの? 美術館とか、ギャラリーとか……」
意外そうな顔をして、晴空がこちらを見た。
「ないよ」
「じゃあ、なおさら行こうよ」
なあなあ、行こうよ、とじゃれつく犬みたいな声を出す。少しあざとさを感じるしゃべり方だった。
「やだってば」
納得していないことをするのは嫌いだった。嫌だ、嫌だとつっぱねた。
なのに、晴空はまったく引く様子がない。
ますます、楽しそうな顔で誘ってくる。
根負けした私は、
「分かった……」
としぶしぶ答えた。
「本当は、まだ納得できてないんだからね」
「分かってるって。でも、行ってくれるんだろ。約束だからな」
晴空がニッと口端を持ち上げた。
その顔を眺めて、ちょっと困ったように眉尻を下げる。
結局、いつもこうだ。
私が不機嫌な顔をして見せても、晴空の方が一枚うわてで、うまく丸め込まれてしまう。
数日前、公園でもめた話についても、結局は晴空の提案どおりになってしまった。
「私、やだからね。晴空以外の人に相談なんかしたくないから」
そう言って何度も断ったが、晴空はまったくめげない。最終的には晴空の言葉にうまくのせられて保健室に足を運んでいた。
保健室の先生は時々質問をはさみながら丁寧に悩みを聞いてくれた。
そして、今度、保健室の先生からスクールカウンセラーを紹介されることになった。
「スクールカウンセラーはね、心理相談にのってくれる人よ。人づきあいについてのアドバイスも得意だから、じっくり話をしてみてね」
保健室の先生は、メガネの奥の目を細くして私に言った。
「きっと、あなたの人生にとって、スクールカウンセラーとの出会いが重要な意味をもつようになると思うわ」
保健室の先生の背後にある窓からは、昼間の日差しが柔らかく差し込んでいた。太陽は、私の行く道を指し示すように、空の高みで輝いていた。
「晴空ってずるいよね」
帰りの道中、傘を忘れていた私は、晴空の傘に入れてもらっていた。
「何が?」
と、晴空がとぼける。
「私がどんなにごねても、晴空の思った通りになっちゃうから」
晴空は、ふふっと笑うと、
「おまえは我が強いんだけど、俺の話はちゃんと聞いてくれるからな」
と言った。そう言って、私の頭をポンポンとなでた。
「なあ、話変わるけど、美術館に行く日、いつにする? 俺、今度の土曜日がいいんだけど」
「なんで?」
「その日は、ちょっと特別な日だから」
晴空の声がすぐ隣で聞こえる。高さの違う肩が傘の下で並んでいた。
「何の日?」
と私が聞くと、
「まだ教えない」
と、秘密めいた言葉をつぶやいた。
そして、晴空はこれまで見たことがないような笑みを浮かべた。
親密さと大人びた雰囲気が入り混じる笑みだった。
キスをする直前に浮かべるような、特別な笑みに見えた。
視線を交わしているだけなのに、私はとてもドキドキとした。
しとしとと、柔らかな雨がふる。雨の音が傘ごと二人を包みこんでいた。
続く~