空と海が出会う場所〜発達障害をもつ私が出会った、小さな恋と希望の物語
8.
フラグにのせる希望
黒板にチョークの字が並ぶ。
そのうちの一つに、委員長が大きく丸をつけた。
「それでは、フラグには〝翼〟の絵を添えることに決定します。
未来に向かって羽ばたいていくような、夢のある絵にしたいと思います」
教室のあちこちから、パラパラと拍手が聞こえた。
真剣に委員長の話を聞いている人もいれば、興味なさそうな顔をしている人も、居眠りしている人もいた。
私はこの前の話し合いの時みたいにノートに落書きをしたりはしないものの、
正直なところ、この話し合いを自分とは関係のないことのように思っていた。
だって、こういう話し合いでは、
〝クラスの団結〟とか、
〝絆〟とか、
そういう明るくてふわふわした言葉がポンポンと飛び出す。
私はまだここに転校してから一カ月しか経っていないし、みんなとなじんでもいない。
だから、そういった言葉はすべて自分の脇をすり抜けて、ふわふわ教室をただよっているみたいに感じた。
黒板に書かれた〝仲間〟の文字を見ながら、私は小学四年生の頃のことを思い出していた。
転校して早々、遠足があって動物園に行った。いろんな動物を見て回る時も、お弁当を食べる時も、一人でポツンと過ごしていた。
期待をすると余計にさみしい。
仲間とか、絆とか、団結とか、最初から自分とは関係ないものと思っていた方がいい……。
机に頬杖をついて、できるだけつまんなそうな顔を作って黒板を眺めていた。
その時、誰かが私の背中を指でつついてきた。
振り返ると、斜め後ろの席にいた月森くんが、私にヒソヒソと話しかけてきた。
「つまんなそうにしてるな」
「つまんないもの」
「はっきりしてるな。馬鹿正直っつーかさ」
月森くんが笑った。
月森くんとは同じ班だったので、フラグの絵について班で話し合いがあった日に、少し会話をした。
その日以降、月森くんは私に時々話しかけてくるようになった。
昨日なんかは、こんなことを彼から言われた。
ーーおまえってさ、変わってるけど、どんなやつか分かったら、わりと面白いやつだよな。
月森くんは、今日も時々授業中なんかに冗談を言ってきては、楽しそうにしていた。
ただ、私には彼が言っていることが冗談か本気かわからないので、「それって冗談?」といちいち聞かないといけない。
「なあ、俺、思ったんだけどさ……」
「何?」
「お前が描けば?」
「何の話?」
「フラグの絵だよ。
海音が描けば?
おまえ、間違いなく、クラスで一番絵がうまいと思うよ。
推薦してやるよ」
私は「ええっ⁉︎」と叫んで思わず立ち上がった。
椅子が派手な音を立ててひっくり返った。
「騒がないでください」
委員長が、メガネを光らせて真面目な顔で注意してくる。
「なあ、委員長、提案があるんだけさ……」
月森くんが手を上げて大きな声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
私は慌てて月森くんの言葉をさえぎった。
「私、絵が得意だなんて思ったこともないし、先生からほめられたことも一度もないよ」
私は今まで、いろんな学校に通ったし、担任になった先生にもいろいろな人がいた。
だけど、私の絵をほめてくれた先生は、その中に一人もいなかった。
それどころか、
「なんで言われたものを描かないの?」
などと、よく叱られていた。
「そっか。ほめられたことがなかったんだ。
宝のもちぐされだな」
と月森くんが言った。
「俺は、おまえが絵うまいの、クラスのみんなに知ってもらいたいんだけどなあ。
班での話合いの時、おまえの絵を見てびっくりしたもん。
細密画みたいなやつを、下書きなしでサラサラ描いてたじゃん。
すごいなと思ったよ」
その時、私の隣の席の男子も、ガタガタと椅子ごと体を私の方に寄せて、
「実は、俺も南さんは絵がうまいなって思ってた」
と言った。
後ろの席の女子もこう言う。
「私も。美術の時間に隣に座ってたけど、細かいところまで凝っててびっくりした」
クラスのあちこちで、ヒソヒソしゃべる声がする。
ーー別に、他に立候補者もいないし、南さんでいいんじゃない?
ーー南って絵うまいの?
ーー私、南さんがノートに絵を描いてるの見たことあるよ。確かにうまかった。
ーー南さんって、しゃべったことないけど……。
ーーちょっととっつきにくいよね。でも、絵はうまいらしいよ。
ーー誰でもいい。
ーー上手な人が描けばいいんじゃない?
ーー別に南さんでいいと思う。
ーー反対はしないよね。
ヒソヒソささやきあう声を聞いて、委員長が、
「賛成者が多いようですが、他に立候補者はいませんか?」
と聞いた。
クラスがしんと静まりかえる。
「それでは、南さんに描いてもらうということでいいでしょうか」
委員長がそう言った時、教室の隅で話し合いを見守っていた担任教師が、
「ちょっと待ってくれるかな」
と口を挟んだ。
担任教師は教壇に上がると、苦い顔をして、
「南自身はやってみたいのか? あんまり興味がなさそうな顔をしてたけど……」
と言った。
「なんか、圧を感じる言い方だな」
と月森くんがボソッとつぶやく。
「興味がないわけじゃないけど……」
と私は言った。
絵は好きだし、好きなことを褒められるのも、任されるのもうれしい。
だけど、私は不安だった。
これまで何度も人との関わりで失敗してきた。
クラスの代表で絵を描くことなんて、私にできるんだろうか?
失敗したくなかったら、クラスの人と極力関わらない方がいいんじゃないだろうか。
「人とコミュニケーションとれないようなやつに、任せない方がいいだろ」
そんな声が聞こえて、私はハッと声がした方を見た。
私をいじめていた男子の顔が、そこにあった。
彼は、自宅謹慎になって以降、暴力をふるわなくなったが、時々こんなふうに意地の悪いことを言うことがあった。
教室がまたザワザワとざわめく。
私は、どうしたらいいかのか分からなくて、教室の真ん中に突っ立ったままでいた。
「えっと……、その……」
言葉がうまく出てこない。
先生や、いじめっ子や、それ以外の生徒らや……、いろんな人の思いが教室にうずまいている気がした。まるで霧みたいに教室にもやがか勝っている。
だけど、自分がそれをうまくくみ取る自信がないので、何と答えるのが正解なのか分からずにいた。
言葉をしぼりだそうと手にギュッと力を込めては、何も言い出せずに手を緩め、またギュッと握りしめることを繰り返していた。
「海音」
教室の後ろの方の席に座っていた晴空が、そう呼びかけてきた。
私はその声を聞いた時に、自分のまわりでうずまいている霧のようなものがスッと晴れたような気持ちがした。
私は晴空の席の方へ目を向けた。
晴空は、いつもの穏やかな顔をしていた。
晴空はいつでも温度が変わらない。
いつも、ほんのりあったかい顔をしている。
私はただそれを見るだけで肩の力が抜けた。
「まずは、おまえの気持ちを聞かせてよ」
晴空がそう言った瞬間、教室は晴空と私だけの空間になったみたいに感じた。
まわりの生徒の存在も音も消えてしまった。
しんと静まり返った教室で、私と晴空は机をいくつかはさんで見つめあっていた。
「……私、やってみたい。だけど、トラブルを起こさないか不安なの」
晴空は、分かった、とうなずいた。
「やってみたいなら、やってみたらいいよ。
不安なことは、みんなで話し合いながら解決しようよ」
私はなんだかすごくホッとした。
人との関わりを避けなくたっていいんだ。
ちゃんとクラスの中で役割をもてるんだと思った。
「じゃあ、決まりだな」
と月森くんが言って、拍手をした。つられるように、教室中から拍手が起こった。
私は戸惑いながら辺りを見回した。
拍手に包まれたのは初めてのことだった。
照れくさくて顔から火が出そうだった。
教室の真ん中でオロオロとうろたえていた。
だけど、晴空が遠くの席から笑いかけてくるのが見えて、私はまたスッと胸が落ちつくのを感じた。
くすぐったい気持ちを感じながらも、晴空に笑みを返した。
続く~
そのうちの一つに、委員長が大きく丸をつけた。
「それでは、フラグには〝翼〟の絵を添えることに決定します。
未来に向かって羽ばたいていくような、夢のある絵にしたいと思います」
教室のあちこちから、パラパラと拍手が聞こえた。
真剣に委員長の話を聞いている人もいれば、興味なさそうな顔をしている人も、居眠りしている人もいた。
私はこの前の話し合いの時みたいにノートに落書きをしたりはしないものの、
正直なところ、この話し合いを自分とは関係のないことのように思っていた。
だって、こういう話し合いでは、
〝クラスの団結〟とか、
〝絆〟とか、
そういう明るくてふわふわした言葉がポンポンと飛び出す。
私はまだここに転校してから一カ月しか経っていないし、みんなとなじんでもいない。
だから、そういった言葉はすべて自分の脇をすり抜けて、ふわふわ教室をただよっているみたいに感じた。
黒板に書かれた〝仲間〟の文字を見ながら、私は小学四年生の頃のことを思い出していた。
転校して早々、遠足があって動物園に行った。いろんな動物を見て回る時も、お弁当を食べる時も、一人でポツンと過ごしていた。
期待をすると余計にさみしい。
仲間とか、絆とか、団結とか、最初から自分とは関係ないものと思っていた方がいい……。
机に頬杖をついて、できるだけつまんなそうな顔を作って黒板を眺めていた。
その時、誰かが私の背中を指でつついてきた。
振り返ると、斜め後ろの席にいた月森くんが、私にヒソヒソと話しかけてきた。
「つまんなそうにしてるな」
「つまんないもの」
「はっきりしてるな。馬鹿正直っつーかさ」
月森くんが笑った。
月森くんとは同じ班だったので、フラグの絵について班で話し合いがあった日に、少し会話をした。
その日以降、月森くんは私に時々話しかけてくるようになった。
昨日なんかは、こんなことを彼から言われた。
ーーおまえってさ、変わってるけど、どんなやつか分かったら、わりと面白いやつだよな。
月森くんは、今日も時々授業中なんかに冗談を言ってきては、楽しそうにしていた。
ただ、私には彼が言っていることが冗談か本気かわからないので、「それって冗談?」といちいち聞かないといけない。
「なあ、俺、思ったんだけどさ……」
「何?」
「お前が描けば?」
「何の話?」
「フラグの絵だよ。
海音が描けば?
おまえ、間違いなく、クラスで一番絵がうまいと思うよ。
推薦してやるよ」
私は「ええっ⁉︎」と叫んで思わず立ち上がった。
椅子が派手な音を立ててひっくり返った。
「騒がないでください」
委員長が、メガネを光らせて真面目な顔で注意してくる。
「なあ、委員長、提案があるんだけさ……」
月森くんが手を上げて大きな声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
私は慌てて月森くんの言葉をさえぎった。
「私、絵が得意だなんて思ったこともないし、先生からほめられたことも一度もないよ」
私は今まで、いろんな学校に通ったし、担任になった先生にもいろいろな人がいた。
だけど、私の絵をほめてくれた先生は、その中に一人もいなかった。
それどころか、
「なんで言われたものを描かないの?」
などと、よく叱られていた。
「そっか。ほめられたことがなかったんだ。
宝のもちぐされだな」
と月森くんが言った。
「俺は、おまえが絵うまいの、クラスのみんなに知ってもらいたいんだけどなあ。
班での話合いの時、おまえの絵を見てびっくりしたもん。
細密画みたいなやつを、下書きなしでサラサラ描いてたじゃん。
すごいなと思ったよ」
その時、私の隣の席の男子も、ガタガタと椅子ごと体を私の方に寄せて、
「実は、俺も南さんは絵がうまいなって思ってた」
と言った。
後ろの席の女子もこう言う。
「私も。美術の時間に隣に座ってたけど、細かいところまで凝っててびっくりした」
クラスのあちこちで、ヒソヒソしゃべる声がする。
ーー別に、他に立候補者もいないし、南さんでいいんじゃない?
ーー南って絵うまいの?
ーー私、南さんがノートに絵を描いてるの見たことあるよ。確かにうまかった。
ーー南さんって、しゃべったことないけど……。
ーーちょっととっつきにくいよね。でも、絵はうまいらしいよ。
ーー誰でもいい。
ーー上手な人が描けばいいんじゃない?
ーー別に南さんでいいと思う。
ーー反対はしないよね。
ヒソヒソささやきあう声を聞いて、委員長が、
「賛成者が多いようですが、他に立候補者はいませんか?」
と聞いた。
クラスがしんと静まりかえる。
「それでは、南さんに描いてもらうということでいいでしょうか」
委員長がそう言った時、教室の隅で話し合いを見守っていた担任教師が、
「ちょっと待ってくれるかな」
と口を挟んだ。
担任教師は教壇に上がると、苦い顔をして、
「南自身はやってみたいのか? あんまり興味がなさそうな顔をしてたけど……」
と言った。
「なんか、圧を感じる言い方だな」
と月森くんがボソッとつぶやく。
「興味がないわけじゃないけど……」
と私は言った。
絵は好きだし、好きなことを褒められるのも、任されるのもうれしい。
だけど、私は不安だった。
これまで何度も人との関わりで失敗してきた。
クラスの代表で絵を描くことなんて、私にできるんだろうか?
失敗したくなかったら、クラスの人と極力関わらない方がいいんじゃないだろうか。
「人とコミュニケーションとれないようなやつに、任せない方がいいだろ」
そんな声が聞こえて、私はハッと声がした方を見た。
私をいじめていた男子の顔が、そこにあった。
彼は、自宅謹慎になって以降、暴力をふるわなくなったが、時々こんなふうに意地の悪いことを言うことがあった。
教室がまたザワザワとざわめく。
私は、どうしたらいいかのか分からなくて、教室の真ん中に突っ立ったままでいた。
「えっと……、その……」
言葉がうまく出てこない。
先生や、いじめっ子や、それ以外の生徒らや……、いろんな人の思いが教室にうずまいている気がした。まるで霧みたいに教室にもやがか勝っている。
だけど、自分がそれをうまくくみ取る自信がないので、何と答えるのが正解なのか分からずにいた。
言葉をしぼりだそうと手にギュッと力を込めては、何も言い出せずに手を緩め、またギュッと握りしめることを繰り返していた。
「海音」
教室の後ろの方の席に座っていた晴空が、そう呼びかけてきた。
私はその声を聞いた時に、自分のまわりでうずまいている霧のようなものがスッと晴れたような気持ちがした。
私は晴空の席の方へ目を向けた。
晴空は、いつもの穏やかな顔をしていた。
晴空はいつでも温度が変わらない。
いつも、ほんのりあったかい顔をしている。
私はただそれを見るだけで肩の力が抜けた。
「まずは、おまえの気持ちを聞かせてよ」
晴空がそう言った瞬間、教室は晴空と私だけの空間になったみたいに感じた。
まわりの生徒の存在も音も消えてしまった。
しんと静まり返った教室で、私と晴空は机をいくつかはさんで見つめあっていた。
「……私、やってみたい。だけど、トラブルを起こさないか不安なの」
晴空は、分かった、とうなずいた。
「やってみたいなら、やってみたらいいよ。
不安なことは、みんなで話し合いながら解決しようよ」
私はなんだかすごくホッとした。
人との関わりを避けなくたっていいんだ。
ちゃんとクラスの中で役割をもてるんだと思った。
「じゃあ、決まりだな」
と月森くんが言って、拍手をした。つられるように、教室中から拍手が起こった。
私は戸惑いながら辺りを見回した。
拍手に包まれたのは初めてのことだった。
照れくさくて顔から火が出そうだった。
教室の真ん中でオロオロとうろたえていた。
だけど、晴空が遠くの席から笑いかけてくるのが見えて、私はまたスッと胸が落ちつくのを感じた。
くすぐったい気持ちを感じながらも、晴空に笑みを返した。
続く~