一年限定の子爵令嬢。私を雇った騎士は強面の可愛い人でした
花祭り
ジークハルトの前で泣いた日から、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
パチパチと暖炉の薪が爆ぜる音を聞きながら、床に置いたクッションに二人でもたれ、琥珀色の液体が入ったグラスを口に運ぶ。マリアンヌを見つめるジークハルトの瞳に熱が籠って見えるのは、揺らぐ暖炉の炎のせいではない。
並外れた観察眼を持つマリアンヌがそれに気が付かないはずがない。距離が近づいたところで、身分差は変わらないと分かっていても、自然と笑みが零れてしまう。だから、ジークハルトが帰ったあと、マリアンヌはいつもそんな自分の気持ちを持て余していた。
降り積もる雪のように、マリアンヌの心にジークハルトとの時間が積み重なる。
それは雪が解ける季節がきても、心に根付いたままだった。
※※
花の蕾が膨らみ始め、暖かな風が茶色い髪をふわりと揺らす。
庭の花壇で、部屋に飾る花を選んでいたマリアンヌは鳥の囀りに顔をあげた。
「あと三ヶ月……」
エスティーナはまだ見つからない。平民の生活にすぐ根を上げると思っていた子爵夫妻は、娘の思いの強さを今更ではあるが知り、頭を悩ませ心配していた。
(このまま見つからない方が幸せなのかな)
そんなことを考えながら鋏を握っていたマリアンヌは、突然名前を呼ばれ危うく手を切りそうになった。声の主も予想以上の反応に驚いている。
「すまない、驚かせるつもりはなかったのだが。怪我はしていないか?」
「ええ、大丈夫よ。ところで今日はどうしたの?」
ジークハルトが昼間にくるのは珍しい。それに騎士服ではなく、紺色のジャケットにトラウザーという軽装。はて、と首を傾げたところで今日は休みだと告げられた。
「用事がなければ、少し出かけないか?」
「私に用事なんてないわ。どこに行くの?」
「今日は花祭りだ。トラバンス家にきてからほとんど外出していないのだろう、たまには息抜きも必要だ」
そう言うとジークハルトはマリアンヌの背後を指さす。そこには準備万端、馬車がすでに控えていた。
トラバンス子爵家は王都の端にある。三十分ほど馬に乗ると、だんだん通りが賑やかになってきた。
お城の近くにある広場には沢山の種類の花が咲き誇り、そこが花祭りのメイン会場となっている。通りの両端には露店が軒を連ね、前を通り過ぎる人の足を止めようと、声を張り上げていた。
二人も途中で馬車を降り、その人の流れに加わることに。
「あら素敵」
ふと見た露店の前でマリアンヌが立ち止まった。金細工の店で、細かな彫り物がされた金のブレスレットをマリアンヌは手に取る。露店に出しておくのは勿体無いほど丁寧に作られていた。
「気に入ったのか?」
「そうね。このブレスレット、繊細な透かし彫りが綺麗じゃない?」
まるでレースのように金が細かく編まれている。それでいて留め具など細部はしっかりとした作りだ。
「店主が作ったのかい?」
「ええ、旦那。ですからここにあるのは全て一点ものですよ。普段は山の向こうで店を構えているんで今日を逃すと買えないですぜ」
「はは、そう言われては買うしかないな。ではこれを貰おう」
「はい、ありがとうございます」
ジークハルトがごく自然な動作でお金を払うので、マリアンヌは慌てた。ねだったつもりなどさらさらない。
「ジークハルト様、自分で買うわ」
「もう金は払った。気後れするような値段じゃないんだから受け取ってくれ」
そう言うと、ジークハルトはマリアンヌの右腕にブレスレットを着ける。白い肌に金細工がよく映えた。
「ありがとうございます」
(きっと貴族にとっては高い品ではないのね)
マリアンヌは困ったように眉を下げるも、ここで突っぱねるのはジークハルトに恥をかかせるようなもの。素直に受け取ることにした。
ではと店主に礼を言って立ち去ろうとした時、すれ違うようにひょいっと黒髪の男が現れた。
「親方、食事を買ってきたから店番を変わるよ」
その瞬間だ、ジークハルトの目が見開き瞬き一つした後に、その男の襟首を掴み上げた。
「ロニー! お前こんなところにいたのか! エスティーナは今どこにいる!!」
ジークハルトの怒声が辺りに響き渡る。それに慌てたように店主が仲介に入ろうとするも、ロニーと呼ばれた男が手で制した。
「しっ、知り合いです、大丈夫。申し訳ありませんが食事は少し待っていただけませんか?」
こわばった青い顔は誰が見ても大丈夫ではない。
それでもロニーは覚悟を決めると、震える声で「場所を移動したい」と襟首を掴んだままのジークハルトに頼んだ。
ロニー、ジークハルト、少し遅れてマリアンヌが人気のない裏路地に入る。戸惑いながら着いてきたマリアンヌだけれど、目の前の男がエスティーナと一緒に消えた庭師であることは理解している。
「ジークハルト様、申し訳ございません」
ロニーは薄汚れた路地に入るなり、躊躇うことなく手を付き、額が石畳につくほど頭を下げた。
「……エスティーナは一緒だろうな?」
「はい。二人で小さな家を借り一緒に住んでいます」
震える手に声。ジークハルトはその様子をじっと見る。マリアンヌに出会う前の彼なら間違いなく一発殴って、エスティーナの居場所を聞き出していただろう。でも、今は二人の気持ちが分かってしまう。だから、それが出来ずにギュッと拳を握りしめたまま動けない。
その時だ。タッタっと走る靴音がしたかと思うと、茶色い髪をハーフアップに結い上げた女性が、跪くロニーに覆いかぶさった。
「お兄様、お止めください。悪いのは全て私なんです」
上げた顔にマリアンヌは驚き息を飲む。自分とそっくりの姿は名前を聞くまでもない、エスティーナだと思った。
「エスティーナ、随分探したんだぞ。母上はお前のことを心配するあまり倒れた。皆がお前の帰りを待っている」
「申し訳ありません。……でも、私、トラバンス子爵家に帰るつもりはありません」
まっすぐに見上げてくるその瞳を見て、ジークハルトはまるで妹ではないような錯覚に陥った。
エスティーナがこれほどまでに自分の意見をはっきり言うのを聞いたことはないし、覚悟を決めたような顔を見るのも初めて。
その決意がにじみでる表情に、ジークハルトはエスティーナの思いの深さを知った。
身分を超えた愛を貫こうとしている妹が自分と重なって見える。
そうなると、ジークハルトはもう何も言えない。
とてもではないけれど強引に腕を引っ張って連れて帰るなんて出来なかった。
「……俺とて無理に連れて帰る気はない。だが、せめて俺には住んでいる場所を教えてくれないか。何かあったらと思うと心配なんだ」
ジークハルトの眉間には深い皺が刻まれている。エスティーナの気持ちが分かるとは言え、このままにはできない。せめて居場所だけは確認しておかなくては。
「……分かりました。お兄様、紙とペンもっていますか?」
「あぁ。今日はそれだけ聞いたら帰る。ただ、母上に手紙を書いてくれないか? 側で見ているのが辛いぐらい落ち込んでいるんだ」
「はい。約束します」
エスティーナは小さく頷くと、渡された紙にさらさらと文字を書く。そして、ジークハルトに渡そうとした時だ。やっとその背中に隠れるようにして立っているマリアンヌに気がついた。
「えっ、貴女は?」
エスティーナが驚くのは無理もない。だってそこに自分そっくりの女性が立っていたのだから。
「彼女はマリアンヌだ。行方をくらましたお前の代わりをずっと演じて貰っている」
「私の代わり……じゃ、もしかしてリカルド様との婚約はまだ続いているの?」
「ああ。しかしこうなってしまっては、トラバンス子爵家に実害の少ない婚約解消を交渉しなくてはいけないな……」
深いため息を吐くジークハルトに、エスティーナはもう一度ごめんなさい、と呟いた。そのあとで、でも、と繋げる。
「リカルド様もまた、他の方を愛しているのです」
「リカルド殿が?」
「はい。侍女のイーリアスです。あ、でも勘違いしないでください。私はそのことがショックで駆け落ちしたのではありません。ただ、お互い不幸にしかならない結婚をするのはおかしいと思ったからなんです」
ジークハルトにとっては予想外の言葉に長い沈黙が流れた。
しかし、その沈黙を破ったのもまた、ジークハルトの重いため息。
「貴族とはいったい何なのだろうな」
裕福な暮らしに上質な服、食べ物にも住むところにも困らないのに、何て窮屈な生き方なのだろう思う。一層、全て捨てて只の騎士として生きれたらどんなにいいだろうか。
ジークハルトは最後にロニーの肩に手を乗せ、「妹を頼む」と言ってその場を後にした。
その背中は、広いはずなのにしょぼんとしおれて見えた。