一年限定の子爵令嬢。私を雇った騎士は強面の可愛い人でした
マリアンヌとジークハルトは再び街を歩き始めた。しかし、ジークハルトはうわの空。それは仕方ないことだとマリアンヌも思う。
(さて、どうしよう)
このまま帰っても構わない。でも、マリアンヌからそれを言い出してはジークハルトも気を遣うだろう。
「ジークハルト様、お腹すかない? 何か買ってくるからそこのベンチで待ってて」
「それなら俺も一緒に」
「いいから、いいから。座っていて、すぐに戻って来るわ」
マリアンヌはひらひらと手を振ると、人ごみへと向かった。
露店には食べ物も多く並んでいる。サンドイッチやホットドッグ、串焼き、エール。あちこちから良い匂いが漂ってきた。
(エールは最後にして、とりあえずサンドイッチと、串焼きを買おうかしら)
慣れたように人を避けながら歩く。今日の服装はマリアンヌが以前から持っている綿のワンピース、胸元には安っぽいボタンが三つ並んでいる。エスティーナの知り合いに会うと厄介なので、平民の服を着て無造作に髪をおろし、少し目元がきつく見えるようなメイクをしている。履きつぶした靴で、平然と歩く姿を令嬢と思う人間はいない。
だからマリアンヌはすっかり安心していた。
「マリー……」
そのせいか、普段なら決して振り返ることのない名前で呼ばれた時、ついうっかり声のする方を見てしまった。
視線の先にいたのは、くたびれた服に身を包んだ無精ひげの男。その男の左頬にある古傷が目に入った瞬間、マリアンヌの顔色がさっと変わる。なぜ安易に振り返ったのかと後悔するも、男はにやけた笑いを口に乗せながら近づいてきた。
「マリー? やっぱりマリーだよな」
「違います」
「嘘つけ。えーと、十二年ぶりになるか。まさか昔の知り合いに会えるとはな」
わざとらしい言い方。三文役者でもまだましだとマリアンヌは思う。
獲物を捕らえたような目は、マリアンヌの後を付け声を掛けるタイミングをずっと狙っていたから。
男は身を屈めてマリアンヌの顔を下から覗き見る。
「人違いです」
それでもシラを切ろうと、顔を逸らし立ち去ろうとした瞬間、男の腕が伸びてきてマリアンヌのワンピースの胸ぐらを掴んだ。そして、力を入れたかと思うとボタンが二つ千切れ、マリアンヌの鎖骨が露になる。
「ほら、そのほくろ、やっぱりマリアンヌに間違いない。ところでさっき隣にいた男は誰なんだ?」
「誰のこと?」
マリアンヌはあくまでもとぼけるつもりだ。しかし、男はその細い腕を掴むと無精ひげの汚れた顔を近づけてきた。
「さっき金細工の店にいただろう? 男の怒鳴り声がしたからどうしたのかと思って見たら、隣にお前がいたからびっくりした。平民にしては珍しいその碧い目、一瞬で分かったよ。隣にいた貴族は恋人か? それとも愛人でもやっているのか?」
男の視線がマリアンヌの手首にある金のブレスレットの上で止まる。こんな男に見られたくないと、左手でそれを隠したが、そんなことしても今更なのは分かっている。
「私達の後を着けたの?」
「いや、裏路地まで着いていったら目立つからな。離れた所から見て、そのあとお前が一人になるのを待ってこうやって声をかけたんだ。あのお貴族様の前で名前を呼ばれたらお前だって困るだろう」
にやりと笑った口から見えるヤニだらけの歯。出来る事なら殴ってやりたい。
最悪の状況だけれど、唯一の救いはマリアンヌがエスティーナの代わりをしていたことを知られていないこと。話を聞かれていたらジークハルトやトラバンス子爵家まで恐喝の対象となってしまう。
「それよりここでは往来の邪魔だ」
男はそう言うとマリアンヌの肩を抱くようにして、離れた木の下まで連れていった。
人が少なくなったところで、マリアンヌは男の手を振り払う。触れられた部分が酷く穢れた気持ちになった。
「……で、何の用なのさ」
「へへ、そんな顔すんなって。俺もあれから色々あってさ。十二年冷えた飯食って出てきたら昔の仲間は散り散りになってどこにいるかも分かりはしない。人ごみにいれば誰かに会えるだろうと待っていたらマリーが現れたんだよ。いや、本当、懐かしい」
「それで、目的は?」
聞かなくても分かっているけれど、このままじゃ埒が明かない。そろそろマリアンヌの帰りが遅いとジークハルトが不思議がる頃だ。
「いや、別に大したことじゃない。ちょっと金を貸して欲しいだけだよ。貴族の愛人やってるぐらいだから多少は持っているんだろう? お前の過去を話さない口の堅い昔の恩人に少しぐらい金貨を渡してもいいと思わないか?」
「何が恩人だ。あんたなんか……」
そこまで言いかけた時、男の背後に大きな人影が見えた。ジークハルトだ。
男を押しのけるようにして二人の間に入ると、マリアンヌを背に庇うようにして立った。
「知り合いか?」
答えられないでいるマリアンヌに対して、男はニタニタと汚い笑みを浮かべる。ほの暗い目が怪しく光るのをマリアンヌは見逃さなかった。
「そうか、今はマリアンヌって言うのか。ま、とりあえず今日はこれで帰るよ。じゃ、またな、マリアンヌ」
男は黒ずんだ手を頭の上で一振りしたあと、ポケットにつっこみ猫背気味の背中で立ち去っていった。昔と変わらないその姿に、マリアンヌは吐き気がこみ上げてくる。
「大丈夫か、マリアンヌ」
「ええ。ありがとう」
よっぽど険しい顔をしていたんだろう。ジークハルトが心配そうに眉を下げる。
その顔を見ながら、マリアンヌは潮時だな、と考えた。あいつがこれで引き下がるとは思えない。
マリアンヌがトラバンス子爵家にいる本当の理由がばれる前に姿を消さなければ。
「タチの悪そうな奴に見えたが、どんな知り合いか聞いてもいいか?」
「ええ、少し長くなるけれど聞いてくれる?」
話せばもうトラバンス子爵家には居れない。でも、エスティーナも見つかったのだ。そろそろこの劇に幕を下ろしてもいいはず。
「もちろん、時間はたっぷりある。ただ、その前に腹ごしらえだ」
「……うん」
これが一緒に食べる最後の食事になるかも、とマリアンヌは覚悟を決めながら頷いた。