一年限定の子爵令嬢。私を雇った騎士は強面の可愛い人でした
 
 花祭りから一週間が経った頃、マリアアンヌはやっと決心した。長い長い一週間で、その間マリアンヌはじっと自分の心を見つめた。役の人生について考えたことはあるのに、自分自身の生き方を考えるのは初めてだったことに、それこそ自分らしいな、と苦笑いが漏れた。

 その間、リリに頼んでイーリアスのことを調べて貰った。調べる、と言っても婚約者の侍女同士、もともと面識があったので彼女の過去を知ることは簡単だった。

 そして、リリから聞いた話が、マリアンヌの決意を後押しした。



 空気に初夏の気配が感じられるようになった夜、いつものように別邸でくつろぐジークハルトに、マリアンヌは晩酌を自分の部屋でしないかと声をかけた。

「いや、それは……」
「何か問題でも?」
「……誤解を招く」

 マリアンヌはクスクスと笑う。侍女がいるとはいえ、毎夜一人暮らし女性を訪れ今更である。躊躇うジークハルトを尻目にマリアンヌはさっさと席を立ち上がった。扉を開けて振り返り小首を傾げれば、ジークハルトは暫く逡巡したものの結局は席を立った。

「さあ、どうぞ」

 深い意味はないとばかりのサラリとした口調に、ジークハルトは、自分の早とちりに苦笑いを浮かべ室内に入った。
 マリアンヌの演技は完璧で、その平静の中に刹那の気持ちを抱えているなど微塵も感じさせない。

 開けた窓から涼しい夜風が入ってくる。白いレースのカーテンがふわりと揺れ、その度に三日月の下の尖りがチラリと見えた。

 二人はいつものようにたわいもない会話をしながら、杯を空けていった。敢えていうならマリアンヌの飲むペースが少し早い。

 マリアンヌの右腕には、あれからずっとブレスレットが輝いている。ジークハルトはそれが嬉しかった。なんだかマリアンヌが自分の物になったように感じるのは、傲慢で執着心が強すぎると思う。でも、友人が婚約者にせっせと贈り物を贈る気持ちが分かった。自分の瞳の色のドレスなどその際たる物だろう。

「何かいい事があったのか?」

 その問いにマリアンヌは碧い瞳をパチリとすると、次いで困ったように笑う。この夜を人生最高の物にしようと思うあまり、少し笑顔が明るすぎたかも知れない。

「ねぇ、聞いて欲しい計画があるの。エスティーナ様がロニーと一緒に暮らせ且つ、トラバンス子爵家が不利益を被らない方法を思いついたの」

 まるでとっておきの秘密を教えるように瞳を輝かせる。ジークハルトは、マリアンヌの胸の内なんて分からない。でも、その言葉に少し頬を固くした。

「その計画に俺達のことは入っていないのか?」

 ジークハルトの問いに、そこでやっとマリアンヌは眉を下げ泣きそうな笑みを浮かべた。最後まで笑っているつもりだったけれど、限界だった。

「私は貴族として生きられない。ごめんなさい。だからせめて、他の人が幸せになる方法を考えたの。聞いてくれる?」
「……もう決めたことなんだな」
「ええ、ごめんなさい」

 マリアンヌはゆっくり息を吸うと、その計画を話し始めた。確かにそれは多くの人を幸せにする計画で、舞台のシナリオのような物語でもあった。
 
 だから、ジークハルトは反対することができなかった。マリアンヌがトラバンス子爵家やエスティーナのことを考えているのが分かったから。そして、悩んだ末の決意であることが伝わったから。

――その夜、ジークハルトがマリアンヌの部屋から出ることはなかった。



 次の日の朝、マリアンヌは窓から差し込む光で目覚めた。身体がだるく重い。うーん、と気怠く寝返りを打ち横を向くと紫色の瞳と目が合った。
 なんだか気恥ずかしくて目線を反らせようとしたところで、ハッと気づく。

「ジークハルト、もしかして寝ていないの?」
「ああ、ずっとマリアンヌを見ていた」

 マリアンヌは二度その碧い瞳をパチリとすると、見る見る顔を赤らめた。

「なっ、どうして。私、きっと間抜けな顔してたでしょう?」

 涎は垂らしていなかったかと、口元をこっそりと拭く。そんな仕草も可愛いとジークハルトは目を細めた。

「瞬きすら惜しかった。今この瞬間全てを目に焼き付けたいから」
「全て……」 

 ニヤリと笑われては、マリアンヌもう堪らないと枕に顔を埋める。あの初心なジークハルトは何処へ行った? と地団駄を踏みたくなる。
 ジークハルトはそんなマリアンヌをふわりと包むと、額に口づけを落とした。

「ジークハルト、私、今が人生最高に幸せな時よ」

 そう言うと広い背に腕を回す。気が緩むと涙が出そうで逞しい胸に顔を押し付けた。ジークハルトもその腕に力を込める。

 二度と戻らない、かけがえのない瞬間をマリアンヌは心に刻みつける。この思い出があれば、これから先何があっても生きていけると思った。そのために、昨晩ジークハルトを部屋に誘ったのだ。

 それでいて、壁の時計が時を刻むのが恨めしい。少しずつ明るさを増していく部屋が、嫌でも時の流れを伝えてくる。

「時が止まればよいのに」
「奇遇だな。俺も同じことを思った」

 紫色の瞳が泣きそうにぐしゃりと歪む。だから、マリアンヌはそっと頬に手を当て、口付けをした。

 二人は甘く悲しい思いに包まれながら、時計の針の進む音に耳を傾けた。お互いの温もりを忘れないようにそっと身を寄せ、幸せをその音と一緒に身体に刻んでいく。

 
 二人が寝室を出たのはそれから随分経ってから。身支度を整え、用意された食事を摂る二人の様子は誰が見ても仲睦まじい。

 マリアンヌとジークハルトは隣に座り、肩が付きそうな距離で楽しそうに会話を交わす。リリは何も言わない。ただ、涙を見せないようにその場を離れた。

 食事を摂ったあと、マリアンヌ達は用意した馬車でターナ伯爵家に向かった。
 食事前に先触れは出している。だから、リカルドは玄関前で二人の到着を待っていた。そしてその隣にはイーリアスがいる。

「突然伺って申し訳ない」
「いや、至急の用であることは理解している。申し訳ないが、庭にテーブルを用意した。そこで話をしても良いだろうか?」
「ああ、俺達もその方が都合が良い」

 厳しい顔をしたリカルドの後ろをジークハルト、マリアンヌが着いていく。そして、少し距離をあけ、イーリアスが身を縮めその後ろに続いた。

 マリアンヌがそっとジークハルトの腕を引っ張る。

「リカルド様のお顔がこわばっているけれど、何て書いたの?」
「いや、端的に『リカルド殿とリカルド殿の思い人に話がある』と書いたのだが」

(そんな内容の手紙、婚約者の兄から受け取ったら青ざめるのも仕方がないわ。もう少し言葉の選びようもあったでしょうに)

 しかし、そういう鈍いとこもジークハルトらしい。顔を強張る二人の姿を見て、マリアンヌはどう話を切り出そうかと考えた。
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