真夜中プラトニック
プロローグ
「……陽咲?」
振り向いた彼が、こちらをうかがうようなひそめた声で私の名前を呼ぶ。
自分よりずっと高い位置にあるその顔を、気まずさで見ることができない。しかし彼のコットンパジャマの裾をつまんだ手を放すこともできず、私は無言のまま視線をさまよわせた。
もうすぐ日付が変わろうという時刻。今まさに就寝の挨拶を交わして自室へと入りかけていた彼を引きとめたのは、私自身だ。
だというのに照れくささや相手への遠慮から、どうにもうまく口が動かず──何度も唇を開きかけては閉じることを繰り返した後、彼のパジャマの裾を掴む指先に力を込めた。
「朔夜さん……」
自分でも困りきって、伏せていた顔をそろりと上げながら情けなく呼ぶ。
眦が上向きで人から『猫っぽい』と言われることが多い私の目を、彼の印象的な力強い双眸が、こちらの思考を読み取ろうとするかのようにじっと覗き込んでくる。
そうしてふと、日頃表情の変化が少ない整った顔がわずかに緩んだ。
「今夜も、か?」
まるで幼い子どもにかけるような、やわらかな声音だ。
実際私は六つも年下だし、長身の朔夜さんと違って背も百五十センチ程度しかないから、彼にすれば子どもを相手にするのと同じ気分なのかもしれない。
いっそうの羞恥心と、言葉はなくとも意図を汲み取ってもらえたうれしさ。
その狭間で頬を熱くさせながら目を伏せた私は、顎の下で切りそろえた栗色のショートボブを揺らしコクリとうなずいた。
落ちてきた「わかった」というひとことは、やっぱり優しい響きを持っている。
そのことに安堵すると同時、朔夜さんのパジャマを掴む自分の手にさらに大きな手のひらが被せられたから、少し驚く。
目の前の朔夜さんの部屋ではなく隣に並ぶ私の部屋のドアノブを回した彼が、繋いだ手を引きながら室内へと足を踏み入れた。
そうして窓際にあるセミダブルベッドの手前でするりと手をほどくと、そのまま彼はベッドサイドのシェードランプを灯しベッドへと腰かける。
「おいで、陽咲」
部屋の中ほどで立ちすくんでいた私は、それこそ迷子の子どものような、心細そうな顔をしていたと思う。
無意識なのか、それとも意図的にやっているのか、私を呼ぶ朔夜さんの声はひたすらとろりと優しくて、胸が甘く締めつけられた。
先にベッドへと上がった朔夜さんに続き、私もその隣に潜り込む。
布団の下にある少し冷えた自分の右手に、再び大きなぬくもりが重ねられた。
当然のようにそうしてくれる朔夜さんの優しさでたまらず涙腺が緩みかけ、くしゃりと顔が歪む。
「朔夜さん……」
「大丈夫だ。俺はずっと、ここにいる」
シェードランプのやわらかな光が、まっすぐに私を見つめる朔夜さんの力強い瞳を照らしていた。
彼は一度私の頭を撫でてから「おやすみ」とささやくと、手を伸ばしてランプの明かりを落とす。
まだ目が慣れない暗闇の中、それでも布団の下で繋がった手のぬくもりで朔夜さんがたしかにここにいることを感じ取り、私は心から安堵しながらまぶたを閉じた。
こうして彼と手を繋ぎながら同じベッドで眠るのは、もう何度目になるだろう。
ほんの、三ヶ月ほど前──唯一の肉親であり最愛の兄が、事故でこの世を去った。
私は今、兄の親友だった人と暮らしている。
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