真夜中プラトニック
1.陽咲と朔夜
 病院特有の、清潔感がありながら少し落ちつかない気分にさせるこの香りが、苦手だ。


「──では春日(かすが)さん、ゆっくり身体を休めてくださいね。お大事に」


 その苦手な香りに包まれながらベッドに横たわる私に向け、病室のドアの前で振り返った中年男性の医師が労りの言葉をかけてくれる。


「はい……ありがとうございます」


 腕に点滴を繋がれた状態でようやく返した自分の声は覇気がなく、我ながらひどいありさまだ。
 きっとボサボサになっているであろうボブヘアーを、今さらながら手ぐしで整えた。

 穏やかな笑みをたたえた医師はひとつうなずくと、ドアを開けてこの個室から去っていく。
 ベッド脇の丸椅子に腰かけ、私とともにスライド式のドアが閉まるのを見届けていた女性が、身体の向きをくるりとこちらに戻した。


「よかったわ、二・三日の入院で済んで。目の前であなたが倒れたときは、本当に驚いたもの」
「すみませんでした、ご心配おかけしてしまって……それに会社のみなさんにも、ご迷惑を」


 申し訳なさでいっぱいの暗い顔で言うと、私の勤める空間設計事務所『いずみデザイン工房』の社長夫人である(いずみ)歌子(うたこ)さんは、笑いジワの刻まれた柔和な目もとをさらに優しく細めて微笑む。


「気にしないで。大変なときに助け合うのはお互い様なんだから」
「……すみません。ありがとうございます」
「もう、そんなに謝らなくていいのよ。それに上司として、あなたの不調に気づけなかった私も情けないわ」
「そんなこと……」


 ベッドに横たわったまま、ふるふると首を横に振る。
 そんな私に歌子さんはまたふんわりとした笑みを見せ、そっと手のひらで私の額を覆った。


「睡眠不足に、軽い栄養失調に、貧血。会社ではあんなに気丈に振舞っていたけれど、ずいぶん、無理をしていたのね」
「………」
「そうよね……まだ、四十九日も過ぎたばかりだものね」


 触れた場所から染み込む歌子さんのあたたかな体温と優しい声音に、自然と目頭が熱くなる。

 ああ、ダメだ。歌子さんの笑顔を絶やさない穏やかな性格は、もうこの世にはいない母のことを思い出させて……どうしてもこの人の前では、いつもよりずっと弱い自分になってしまう。

 これ以上、みっともないところを晒したくないのに。点滴のついていない左腕を顔に載せながら、ぐっと下唇を噛んで涙を堪えた。
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