孤独な強面天才外科医は不自由な彼女を溺愛したい
「もう、なんなの」

 手元の鍵を覗きながら、ため息のようにそう零した。
 最初から、玄関の場所を教えてくれればよかったのに。

「帰ろう」

 杏依は顔を上げた。
 ピアノが目に入った。先ほどまで白哉が弾いていたそれは、まだその響きを内包するように優しく、けれどやっぱりどこか寂しそうに佇んでいる。

 弾かない。弾けない。弾いちゃいけない。

 そう思うのに、杏依の身体はどうしてもピアノに吸い寄せられてしまう。

 白鍵に指を乗せた。ポロン、と音が響く。その音は小さいのに、全部の弦に共鳴するように、ピアノ全体が叫んだ気がした。

 ――弾きたい。弾きたいよ、本当は。

 杏依は何かに憑りつかれたように、ピアノ椅子に腰を下ろした。

 左手を鍵盤に乗せ、先ほどまで白哉が弾いていた『別れの曲』を奏で始める。
 左手だけだから、伴奏だけ。けれど、杏依の頭の中には、先ほどまで白哉が奏でていたメロディが流れていた。
< 21 / 85 >

この作品をシェア

pagetop