女避けの為に選ばれた偽の恋人なはずなのに、なぜか公爵様に溺愛されています
25話 夢から醒めてしまっても
ぼやける視界の中でリリアンはその場に座り込みながら、どこからともなく現れた子供を目で追った。
自身の身体より倍以上は大きい大人たちに向かって、軽快な足取りで子供は一歩を踏み込む。振り上げられた拳を易々と躱し、恐れることなく男たちの懐に入っていく。
心配する間もなくあっという間に転がった男たちを見下ろした子供は、フードを被り直してリリアンに向き直った。
「大丈夫?」
「はい。ごめんなさい」
「……?」
自分へ掛けられる憂う声に、リリアンは何度も頷いた。
「なんで君が謝るの?」
「わ、私が迷惑をかけてしまったので……」
リリアンの返答に子供は小さく息を吐いた。それはミランダや使用人たちが、いつもリリアンにする仕草と同じで。
普段通り謝ったはずなのに、何か変なことをしてしまったのだろうかと不安になる。
初めてだったのに。優しく声を掛けられるのも、誰かが心配してくれるのも。こんなに幸運なことはもうないだろう。だからもう少しだけ一緒に居たかったけれど。
「裏路地は人通りが少ないから、これからは一人で歩かない方がいい」
「あ……」
そう言って、そのまま去ってしまいそうな子供に手を伸ばしかけて――手を下ろした。きっとまた、リリアンが何か間違ったことをしてしまったのだろうから。
だから引き止めるのは我慢して、再びその場に座り込んだ。
「っ、俺の話聞いてたよな!?」
突然、振り返った子供が叫ぶから、リリアンは驚いて膝に埋めた顔をあげた。先程とは打って変わった、荒々しい声色と口調に身体が跳ねる。
「裏路地は人通りが少ないって言ったばかりなのに、どうしてまたそこに座るんだ?」
「その、ここがどこか知らなかったの……ごめんなさい」
「はぁ、それなら俺に聞けばよかっただろ」
「聞く……?」
リリアンは首を傾けた。ミランダの授業でも、日常生活でも、分からないことは一人で調べて答えを出さなくちゃいけなかったリリアンにとって〝誰かに聞く〟という選択肢を与えてもらったのは初めてだった。今までは誰もそれを許してくれなかったのだ。
だからこういう時、何て言えばいいのかも分からなくて。
うまく言葉にできないでいるリリアンを、その子供は辛抱強く待ってくれた。
そのおかげで勇気が出たのかもしれない。ずっと心の底にあった言葉を、リリアンは喉の奥から捻り出した。
「じゃあ……もう少しだけ、一緒にいてくれる……?」
「はっ?」
「も、もちろんあなたが嫌ならいいの!無理にとは言わないわ!」
気が抜けたような声に、リリアンは慌てながら手を振って弁解する。図々しいと頭では分かっていても、訂正はしなかった。
「……分かった」
「えっ?」
「だからいいって言ったんだ」
「ほ、本当に……?」
「何を驚いてるんだ。言い出したのは君の方だろ」
確かに言い出したのはリリアンからだけど、まさか本当に叶うとは思わなかった。
リリアンの顔がぱぁっと明るくなる。
「ほら」
「お金は持ってないの、ごめんなさい」
しかし差し出された手に、また表情が沈んだ。今の自分は何もあげれるものがないことに気付いて。
「……そうじゃなく」
下を向いたリリアンの手をぐっと掴んで、彼は自分の方へと引っ張った。
「ずっと座ってるわけにはいかないだろ」
黒いフードから澄んだブルーの瞳が覗く。
それは今日の晴れた青空に、よく似ていた。
***
「……それで抜け出してきたのか?」
「ええ!」
何故あんな所に一人でいたのかと尋ねられたリリアンは、繋がれた手をぎゅっと握りながら説明をする。
彼は「いつもそんな扱いを受けているのか」と不快そうに呟いたけれど、楽しいリリアンの耳には入らなかった。
彼はリリアンの話を沢山聞いてくれた。
好きなことも、嫌いなことも、嫌な顔一つせずに。時々質問が返ってくるのも嬉しくて。
ずっとこの時間が続いてほしいと思った。
けれど、終わりはあっという間にやって来る。
「少々失礼いたします」
近づいてきた同じくらいの年齢の子供が、彼に何かを耳打ちする。「少し待っててくれ」と言われたリリアンは、言いつけ通りに静かにその場で二人を眺めながら待っていた。
「待たせたな……って、どうした?」
「あの子はお友達?」
「友達じゃない」
「そうなの?仲が良さそうだったのに……」
「アイツと俺がか?まさか!」
リリアンの疑問を、彼は心底不満そうに否定した。リリアンに友達はいないから、友達がどういうものなのか分からないけれど……気安く話している二人は、自分の目からはとても仲が良さそうに見えた。
「アイツは陰湿な奴だから近づかない方がいい」
「陰湿って?」
「性格がものすごく悪いってことだ」
「そうなのね。せっかくかっこいいのに……」
「……何?かっこいいって、アイツが?」
「ええ!あの腰につけてるのって剣よね?とっても素敵だわ!」
「……剣?」
リリアンは一人でいる時は、本を読んで過ごすことが主だった。あまり難しい話はよく分からないから読める本は少なくて、その中で特に大好きなお姫様と騎士の話を何度も読み返していた。
「その騎士様に似てるの!」
「……」
似ているのは剣を持ってることだけだったが、リリアンの目にはまるで童話の中の騎士様が目の前に現れたかのようだった。
声を弾ませながら瞳を輝かせるリリアンとは反対に、彼は黙り込んでしまう。
どうしたのかと名前を呼ぼうとして、まだ聞いていなかったことを思い出す。話すだけで楽しくて、一番大事なことを忘れてしまっていた。
「ねぇ、あなたの名前は……」
その時だった。馬車が止まる音がリリアンの声に被さった。段々と近づいて来ている足音に、嫌な予感がする。
夢から醒めてしまうような、そんな音が。
「迎えが来たようだな」
「ま、待って……!まだ、」
終わってほしくなかった。今日だってリリアンばかり話していたから、彼のことは知らない。
名前も、顔も、好きな物も、嫌いな物も、何一つ分からないのだ。
嫌だ、行かないでと泣くリリアンに彼は「君は泣き虫だな」と笑う。
「もう泣き虫はやめるから、だからお願い。そばにいて……」
親からの愛も、大きな屋敷も、豪華な家具も、優秀な家庭教師も、有り余る程の使用人も何もいらない。
ただ側にいてくれるなら、それだけでよかった。
「すぐまた会えるから、もう泣くな」
「すぐっていつ?明日?」
ぼろぼろと大粒の涙を零すリリアンの目元を、彼は優しく拭う。
「そうだな……君が泣き虫をやめれたら、今度は俺が会いに行くよ」
彼が離れていくと同時に、誰かが叫ぶようにリリアンを呼んだ。
「リリアン!」
「お父様……?」
まともに話したこともない父親からは、嫌われているのだと思っていたのに。それがどうだろう。震えながら今、抱きしめられているのだからリリアンは自分の目を疑った。
「すまない……すまなかった、リリアン……」
何度も繰り返し謝る父に、リリアンの唇が震える。泣き虫はやめると約束したばかりなのに、息が詰まって、視界が滲んだ。
「うぅ……っ、うわぁぁん……!」
ぼろりと一度溢れてしまえば、もう止められなくて。リリアンは叫ぶように咽び泣いた。
それから全てが変わった。
家庭教師も使用人も入れ替わり、家を空けてばかりだった父が毎日帰ってくるようになった。
***
『見て、シャーロット様だわ……』
『ユリウス様がまた活躍したみたいよ』
『グレース令嬢は相変わらずとてもお綺麗ね』
『そういえばウィノスティン公爵様が首都に来ているらしいわ』
いつの間にかリリアンは大人になった。
社交界に出ると噂の絶えない人たちがたくさんいて、いつかマダムミランダが言っていた通り、平凡なリリアンは大して目立つことはなかった。
それでも別に構わなかった。元々大勢の人の目に晒されるのは苦手だったから。
『ハーシェル令嬢、初めまして。私はコナー侯爵家次男のドミニク申します。もし宜しければ、私と一曲いかがでしょうか?』
リリアンに声を掛けてくれる人も少なからず居たけれど、すぐに皆リリアンの元を去っていった。
『ああ、リリアン・ハーシェル?弟が凄いだけで、姉の方は平凡で何もない女だったよ。顔は多少可愛いけど、やっぱグレース嬢とかに比べると普通だよな』
陰口を聞いても大丈夫だった。
リリアンが平凡で普通なのはよく知っていたから。
『ユリウス様、どうか私と踊ってください』
『先日の魔物討伐でのご活躍お聞きしましたわ』
『ハーシェル令嬢は羨ましいですわ。ユリウス様のような弟が居るんですもの』
胸が苦しくなっても大丈夫だった。
ユリウスもいつか思い出してくれるかもしれないという可能性を持ち続けていたから。
「大丈夫、大丈夫よ」
リリアンは待つのが得意だったから。
『君が泣き虫をやめれたら、今度は俺が会いに行くよ』
その言葉がある限り、大丈夫だった。
***
「クロード様、ここでユリウスと出会ったんです」
その懐かしい思い出の場所は、記憶と同じままだった。
実は一度、ここの場所がどこなのか知りたくて尋ねたことがある。だけどまたリリアンが居なくなるのではと心配した父は教えてくれなかった。
その後すぐユリウスが家に来て、結局聞けないままだった。
「ハァ…………」
「く、クロード様?」
リリアンの話を黙って聞いてくれていたクロードが、深い溜息を吐きながらその場にしゃがみ込む。興味ないであろうこんな話を長々と聞かせてしまったから怒ったのかと、リリアンは慌てる。
しかしクロードの口から発せられたのは、怒りよりもっと弱々しい、脱力感のあるものだった。
「君は馬鹿だ…………」
「なっ!?確かにユリウスから忘れられてるにも関わらず、しつこく思い出に縋っているのは、クロード様からすれば馬鹿に見えるかもしれませんが酷いです!」
「リリアン、その言葉は俺にも刺さるから」
「はい?どういう意味ですか?」
「……いや、なんでもない。それより、何故その相手がユリウス・ハーシェルだと思ったんだ?」
何だか釈然としなかったけれど、長話に付き合ってもらったのだからこのくらいの憎まれ口は甘んじて受け入れるべきだと、リリアンは呑み込んでクロードの質問に答えた。
「髪色と瞳の色です。銀髪で青の瞳はユリウスだけだったんです」
ユリウスが覚えていないと言った時、もしかしたら他の人の可能性も考えたことはあった。だけどいくら探しても、その二つの条件にピッタリ当てはまるのはユリウスだけだったのだ。
「そういえば、クロード様も青ですね!」
「……」
ユリウスの瞳が晴れた青空のような青なら、クロードの瞳はブルーアワーに包まれた海のようだった。
そして、今はその青もリリアンは好きになった。
「クロード様、ここに連れてきてくれてありがとうございます」
リリアンは曇ることなく、笑ってお礼を伝えた。
いつか思い出してくれると願ってた、その〝いつか〟が来ることは結局なかった。
だからきっと、一人だったらここには絶対来れなかっただろう。自分一人だけが取り残されたこの場所と向き合うのが怖かったから。
だけど、いざ来てみれば不安や恐怖なんてものはなくて。
何も変わらない。
リリアンにとって、何よりも愛しい過去だった。