不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

5 出発前

 日本に発つ日の朝、藍子は本社に勤める先輩から電話を受けた。
 藍子は多少不機嫌に彼、在原知也(ありはらともや)に言う。
「先輩、もう私に連絡しないでほしいと言ったはずですが」
 彼とは二年前まで付き合っていて、結婚の話もあった。けれどエドアルドを胸に残したまま他の人と結ばれることはどうしてもできなくて、藍子の方から別れを切り出した。
 知也は不愛想に、ただ彼なりの優しさを持って藍子に返す。
「だろうな。俺だって不本意だよ。ただ伝えておくべきだろうと思ったんだ」
 しかめ面をした藍子に、知也は電話口で語気を強める。
「……外交筋で、レイリスへの渡航中止が出る見通しだ」
 藍子は反射的に周りで聞いている人がいないか見回す。
 藍子はレクの最終調整のためにレイリス支社に来ていた。幸い閉め切った休憩室はガラス張りで見通しが良く、誰かに聞かれた様子はなかった。
 知也は言い捨てる調子で言う。
「レイリスに戻らないつもりで荷物を持ってくるといい」
 それだけ言って、知也は電話を切った。
 言いたいことだけ言って手を離す、彼のそういうところに相変わらずむっとするが、今はそれより告げられた情報の方が重大だった。
 社内で渡航情報を管理している知也からの情報なのだから、レイリスで何事かが起こるのは確かなのだろう。
 レイリスを一時的に離れるこのタイミングで、聞きたい情報じゃなかった。けれど今更本社への渡航を取り下げるわけにもいかない。
「アイコ、そろそろ出られる?」
 なかなか休憩室から出てこない藍子を心配したのだろう。支店長が入ってきて藍子にたずねる。
 この国では女性はめったに運転しない。支店長が近くまで行くついでに空港まで藍子を送るといって譲らなかった。そうじゃないと単身で海外出張なんてさせられないと、他の同僚たちも口をそろえた。
 携帯電話を握り締めて口ごもった藍子は、たぶん青ざめていた。長く藍子を見てきた彼が、それを見逃すはずもなかった。
 支店長は藍子に、問いかけではなく確かめるように言った。
「よくないことを聞いたんだね」
 とっさに何も言えなかった藍子に、支店長はそれ以上追及したりはしなかった。
 藍子が無意識に逸らしていた目を戻すと、支店長は困ったなというように苦笑していた。
「上司としては君に話してほしいけど、強制はできないから」
 藍子は申し訳なくなって、早口に言う。
「今は言えませんが、日本で仕事を終えて帰って来たときには必ず伝えます」
「レイリスの情勢があまりよくないのは、僕らが一番知ってるんだ」
 藍子ははっと息を呑んで支店長を見返す。支店長は瞳を揺らして、突き放すように言った。
「君が帰ってこなくても誰も責めない」
 きっと初めてレイリス支社に来た頃だったら、藍子は壁を作られていると思っただろう。
 でも一緒に仕事を続けてきた今ならわかる。彼らが口にしているのは、そんなに簡単な言葉通りの意味じゃない。
 藍子は首を横に振って言う。
「冗談と受け取っておきます」
 もっと上手な言い方があったに違いなくても、藍子は支店長を見据えて思いを告げた。
 支店長は眉を寄せて何か言おうとしたが、首を横に振って黙った。
 空港までの車の中、いつも陽気に冗談を言っている支店長はほとんど何も話さなかった。
 藍子は車が停まると、車から降りながら支店長にお礼を言う。
「送ってくださってありがとうございました」
 支店長は窓を開けて藍子を見た。
「さよならとは言わない」
 彼はふと微笑んで藍子に言った。
「君の道中に幸あれ」
 支店長はレイリスで別れ際に告げる言葉を藍子に贈る。藍子はうなずいて踵を返した。
 ずいぶん長いこと、背中に見守られている気配を感じながら歩いた。 
 藍子は待合室でコーヒーを飲みながらレクの資料を読んで、ふと遠い昔に思いを馳せた。
 何度後悔してもしきれないことがある。父があんなに早く逝ったのは自分のせいだ。
 父は元々そんなに体の丈夫な人じゃなかったのに、子どもの頃は病弱だった藍子に振り回されて無理をして、自分の体を壊してしまった。
 子どもの藍子は大好きという思いのままに父に無心におぶさって、大きくなった体で一番大事な人を押しつぶしてしまった。
 好きという気持ちで甘えると、好きな人をひどく傷つけてしまうんだ。二度と大好きな人を傷つけない。父が亡くなったときに誓った。 
 それなのに、どうして私はまた人を好きになっちゃったのかな。藍子は自分がわからない。
 父を失ったばかりだったのに、初めて会ったあの日からエドアルドのことが好きだなんて、誰にも言えなかった。
 ……一外国人の自分が、彼と人生を歩むことはできない。でもせめて、彼の悲願を果たして帰ってこなくちゃ。
 藍子は苦笑してトランクのバーを上げると、搭乗口に向かった。
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