不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

6 彼女の流儀

 一度深呼吸した後にノックして、藍子は本社の取締室に立ち入った。
 部屋には取締役、他に三人の本社社員がいた。その社員の中に、在原知也もいた。藍子は内心で顔をしかめる。
 元々この案件に否を突きつけている知也がいることで、藍子には威圧感があった。しかも彼は辛辣な意見を下すことで有名で、藍子は仕事では彼と向き合いたくなかった。
 四十がらみの比較的若い取締役は何度か話をしたことがある。ただ彼も、おおらかだが手堅い人で、今回藍子が望む諾を出してくれるかはわからなかった。
 定刻となり、藍子は緊張に身を引き締めながらレクを始めた。
「レイリスの農作物はいずれも十年前に国際基準をクリアした、優良商品がそろっています」
 藍子は全員が一致した認識を持つメリットから切り出した。
 会社がレイリスから輸入を始めたのは、まだ学生だったエドアルドの売り込みがきっかけだった。
「花を筆頭にして、比較的安価な果物類、ヨーロッパにひけを取らない酪農商品。日本での売上実績が高いものばかりです」
 スクリーンに映し出される実績は、エドアルドの誇りが詰まっている。十年前にはなかった道を切り開いてきた彼の功績だ。
 藍子も今回のレクの準備にあたって、この実績に反論はないと確信していた。
 実際、取締役はうなずいて聞いていて、知也も黙ってそれをみつめていた。
 藍子は一度言葉を切って、では、と声のトーンを落とした。
「ここから、懸案となっているリスクについて説明しましょう」
 藍子は華やかなスライドを消して、あえて文字ばかりのスライドを映した。
「ご存じのとおり、三年前にレイリス近隣で四か国を巻き込む内戦が勃発し、陸路輸送が断絶しました」
 とても明るい昼のオフィスでは見せられないが、藍子は陰惨な写真の数々をレイリス支社で見た。日本では遠ざかった戦争は、レイリスには国境をまたいだすぐ隣の出来事だ。
 近隣の内戦自体は半年で終結したものの、爪痕は深かった。陸路輸送も同時期に復活したものの、政情不安に押された輸出制限は今も続いている。
「空路輸送は原油価格の値上がりを受けて、あと三年でコスト超過が見込まれます」
 支社社員にとっては隠したい事実も、説明しないわけにはいかない。藍子は前を向いて淡々と言い切った。
 けれど藍子はレイリス支社の社員として、もう一歩先を彼らに見せる必要があった。
「そこで一年前から始まった、まったく別方向の海路輸送プロジェクトで見込まれる利益……は、今日私が伝えに来たことではありません」
 取締役が軽く眉を上げる。藍子はスライドを切り替えて、レイリスを中心に真っ赤に染まった地図を表示させた。
「私がお伝えしたいのはここからです。もし明日政変が起きて、最悪陸路も空路も完全に止まった場合をシミュレーションしてきました」
 藍子は赤く染まった地図に、会社の損害を次々と積み重ねていく。
「わずか一年で、今まで黒字基調だったレイリス支社の実績がマイナスに突入します。けれど損失を取り返すにも資本は喪失しており、完全な赤字が続くでしょう」
 藍子は目を細めて、本当は口にもしたくない未来を告げる。
「信用の崩壊、貸倒れの連発の財産的損失の先に、人損が現れます」
 同僚の誰かが亡くなる。シミュレーションだとしても、それを想像しただけで胸に激痛が走った。
「近隣諸国で実際に暴動が起きて、現地社員が犠牲になったのは記憶に新しいですね」
 藍子は一息ついてスライドを切り替えた。
「ここに海路輸送を進めていた場合を重ねます」
 最悪のシミュレーションのグラフに青いラインが重なる。海路輸送の実現には最低あと二年はかかる。だから二年間は何も変わらない。
 ただ三年目に、青いラインは緩やかに上昇を始める。実績はマイナスのままだが、表の外にある未来にはプラスに転じるだろう。
「ここ三年が勝負です。海路輸送にはリスクがありますが、輸出を続ける先に確かな効果が現われます。リスクのいくつかを減らし、あるいは人損も避けられる可能性があります」
 長く尾を引くと思われる信用の低下を食い止め、人損も数行斜線で消される。
 藍子は利益を主張しなかった。海路輸送はリスクがあると本社に見られている。藍子はエドアルドに諾を出さなければ、もっと大きなリスクだと語ったのだった。
「シミュレーションは五年で終了しますが、十年後も想定していただければどちらを選ぶか、結論は明白です。以上です」
 藍子が二つの未来を示し終えると、取締役が拍手を贈った。
 暗くしていた照明を戻すと、取締役の笑顔が見えた。
「何度も本社に誘ったね。君がぜひ欲しいと思うからだよ。支社にいたらむしろ想定したくない最悪のシミュレーションを、よくここまで積み上げた」
 それは誉め言葉に違いなかったが、藍子は素直に喜べなかった。
 レイリスでは近いうちに何事か起こる。シミュレーションが現実になる。
 取締役はうなずいて告げる。
「僕から社長に伝えよう。シーザム卿に諾を出すようにと」
 取締役は藍子に望む言葉を与えて、藍子の仕事は終わった。
 知也が一言も発言しなかったのが、藍子には少しだけ気がかりだった。
< 6 / 8 >

この作品をシェア

pagetop