不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

7 歩き出した未来

 知也に呼び止められたのは、会社のロビーをもう出ようとしたときだった。
 受付を過ぎた辺りの待合椅子に知也は座っていて、彼は藍子をみとめた途端に立ち上がって言った。
「本気でレイリスに戻るつもりか。俺の忠告を忘れたのか?」
「先輩、自分の思い通りにならないとすぐ怒るのやめてください」
 藍子は冷ややかにそれに返して、下からでも知也をにらんだ。
「私のレクのとおりです。レイリスには未来がある。私はそれに力を尽くすつもり」
「それだけか?」
 藍子は周りを気にしながらうなずく。
「警告どうも。でもそれ以上は要りません。私の仕事ですから」
「ここに俺と残るのは、そんなに夢のない未来か? ……藍子」
 付き合っていたときのように呼ばれて、藍子は思わず歩く足を止めた。
 藍子が振り向くと、知也は真剣なまなざしで藍子をみつめていた。
「俺は言ったな。俺となら今すぐにでも結婚できると。……それはまだ有効なんだが」
 時々こういう不意打ちのようなことをするから、藍子は彼が憎らしくなる。
 知也は身勝手で、いつも自分が主導権を取りたがって……ただ、藍子を庇ってくれるところもあった。
 藍子は、一人で生きていくには寂しがりだ。育ってきた国もキャリアも近い同僚の彼なら、一緒に人生を歩んでいくことができるのではと、思ったことがある。
 藍子は目を伏せたが、迷うことはなかった。藍子の中で、もうだいぶ前から答えは出ていたから。
 藍子は正面から知也を見て言った。
「夢見ていると言われたっていい。……私はレイリスに戻ります」
 藍子が知也に背を向けると、背中に声がかかる。
「今は本当に危険なんだ」
「……危険なところだから、心配な人がいるんです」
 はっと知也が息を呑む気配がした。藍子は彼の言葉を待たずに続ける。
「ありがとう。先輩は違う夢を私に見せてくれました。でももう、行きます」
 藍子はロビーを歩き去って、会社を出た。
 レイリスに戻る飛行機の中で、藍子は沈まない太陽を見ながら思っていた。
 エドアルドと結婚、それはきっと外国人の藍子には叶わない。側にいることだって、学生のときのように気安くはできない。
 でもこの十年、エドアルドをみつめて、エドアルドのために仕事ができた。それは満たされた時間で、後悔はない。
 もしかしたら少しだけクリアになった藍子の思いが、レイリスの恋の女神に届いたのかもしれない。
 レイリスの空港の到着ロビーで、藍子は見慣れた人が見慣れない姿で待っているのを見た。
 長身痩躯を学生のようなラフなパーカーとジーンズに包み、目をサングラスで隠しているが、まちがいない。
 彼は藍子のところに歩み寄ると、いたずらっぽくサングラスを下げて言った。
「お迎えに上がりましたよ、アイコさん?」
「……エドアルド、どうしてここに」
 彼はお忍びで街の人々と杯を交わすことで有名な公子だが、それでも厳重に身辺警護がされる立場だ。実際、彼の数歩後ろには周りを警戒しているボディガードの姿が見える。
 エドアルドは藍子の手を取って、王族らしく凛々しい声音で言った。
「まずは君に最大限に感謝を。君の仕事は僕らの国に大きな一歩をくれた。ここに来たのは、そのお礼をこめて君を迎えようと思ったのが一つ」
「もう一つは?」
 彼との付き合いの長さから、藍子は彼に言葉の先を急がせた。彼が身をやつして空港まで来たのは、笑ってばかりいられない事情があるのを察したからだった。
 エドアルドは顎を引くと、じっと藍子を見下ろして告げた。
「君に選んでほしい。……僕の側に来るか、このまま日本に帰国するか」
 藍子は息を呑んで短く彼に返した。
「政変が……起こったのね」
 エドアルドは言いにくそうにつぶやく。
「ああ。現首相が失脚した。しばらく、我が国は不安定な状況に置かれるだろう」
 藍子は今しがた離れてきた日本のことを思った。自分が生まれ育った国、結婚しようと言ってくれた人もいた、故郷のことを。
 でも心は迷うことがなかった。
「選ぶ? ……わかっているくせに」
 藍子は苦笑して、エドアルドの手を握り返した。
「悪い人なんだから。いつから気づいていたの? 夢見るのがあなたばかりになったこと」
 エドアルドは藍子の手に口づけて、上目遣いに笑った。
「僕が女神に願ったからかな。あの、つれなくて魅力的な女性を、レイリスに連れてきてくださいってね」
 エドアルドは藍子を腕に収めて、低い声音でささやく。
「残念だが、最初から君を離すつもりはないんだ」
「……ええ。私も。これから困難が待っていても」
 二人は顔を上げてお互いをよくみつめると、少し笑い合った。
 夜の空港は空の上のように明るくはないが、二人は迷わず手を取って歩き出した。
< 7 / 8 >

この作品をシェア

pagetop