不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

8 瑠璃色の花束

 藍子がエドアルドの紹介で王立研究所に移ってから、一年が経った。 
 世間ではまだあちこちに政変の陰があって、レイリスはまだ危うさを拭えない。
 でもそこに住んでいる人たちはいつだって、それぞれの日常を生きている。
「さ、みんな。お茶でも飲もう」
 夕方、帰社した社員たちが集まって甘いお茶を飲む。藍子もすっかりその一員だった。
「俺、茶じゃなくて酒が飲みたいな」
「仕事中だろ」
「もう仕事したくないもん」
「あきらめろ。シーザム卿に言いつけるぞ」
 国立農業研究所は、ちょっと男子校のような雰囲気がある。どこからが冗談なのかわからない軽口が飛び交い、年配の男性もお茶目なことを平気で言う。
 藍子も冗談半分、本気半分で言う。
「彼の仕事、本当に容赦ないですものね」
「アイコが言うと説得力があるよね」
 藍子も他の支社では言えなかったことが言える、そういう暖かい雰囲気がある。
 外は氷点下の季節なので、暖房とストーブをダブル使いしてもまだ寒い。そういうときにみんなで飲む熱いお茶は、冷えた体に染み渡るようだった。
 藍子はカップを置いて、願うように言う。 
「ようやくここまで来たのだから、なんとか叶えましょう。海路輸送の実現」
 それを聞いて、皆手を止めた。
 緊張した面立ちで口ひげをなでる社員もいるが、年若い社員は明るく声を上げる。
「きっと朗報ですよ。今日の、シーザム卿のラジオ放送」
 今日の夕方六時、エドアルドから国民に向けて放送がある。
 首相の失脚以来、他国との外交も難しい局面にあった。国民が待望している輸出の再開は、エドアルドの手にかかっていた。
 ふいに誰かがさらりと言う。
「幸運は女神からの贈り物だからさ」
 藍子が顔を上げると、カップを傾けながら陽気に笑う仲間たちがいた。
「俺たちはやれることをやった。シーザム卿も力を尽くしてくださった。あとは、未来に行きつくのを待つのみだ」
 研究所のみんなには、自分の中の陰に入りかける藍子の弱さを知られている。それで当然のように庇う。
 藍子は彼らに力をもらって、ほっと笑う。
「……そうですよね」
 やはり藍子はここが好きだった。エドアルドと歩き出した道の先を見たいと思っている。
「お疲れ様です。そろそろ再開しましょう」
 藍子は仲間たちと顔を見合わせて、仕事の再開を告げた。
 夕方六時はまもなくやって来て、ラジオの向こうからエドアルドの声が告げる。
『まだ日常に不安を感じている国民もいると聞いています。いつも心を寄せています』
 エドアルドは仕事では冷酷な上司だが、この一年、こうして優しく人々に語りかけてきた。大公の甥として、立派に責務を果たしてきた。
『今日は皆さんにお伝えしたいことがあります。……来年から、海路輸送が実現することが決まりました』
 途端、部屋の中で歓声が上がった。藍子も立ち上がって、側の同僚と握手をしてうなずく。
『今すぐ明るい未来が来るわけではありません。けれど農家で作物を育ててきた方、オフィスで交渉をしてきた方、道で安全を守ってきた方、いろんな方の努力が、実を結んだのだと思います。……本当にありがとう』
 率直に礼を述べて、エドアルドは言葉を切った。
 オフィスは大変な騒ぎだった。はしゃぐ若手社員から、抱き合って涙を浮かべる老年の社員もいて、藍子はその中にいられるのが誇らしかった。
『もう一つ……伝えたいことが』
 ふいにエドアルドの声に別の緊張が混じった気がした。
『私の一番大切な人に。学生の頃から私と共に、歩いてくれた君に』
 ラジオの向こう、皆が聞いている中で、エドアルドはその言葉を告げた。
『藍子。……結婚してくれ』
 藍子は心臓がどくんと高鳴って、紅潮した頬を押さえた。
 こんな少女みたいな気持ちを、まだ持っていたなんて。そう思って周りさえ見えなかった藍子に、ぽんと肩が叩かれる。
「受け取ってくれるか?」
 目の前に、腕いっぱいのレイリスの花束を抱えたエドアルドが立っていた。
 藍子はあんまりに驚いて、喉をつまらせて言う。
「どうしてここに……ラジオは」
 エドアルドはいたずらっぽく片目をつぶって言う。
「録音だよ。君を逃さないように。……それで、返事は?」
 藍子はむずかゆい気持ちで、すぐには言葉も出なかった。
 学生の頃、瑠璃色の花に夢見るような気持ちを抱いた。そのときから少しも色あせない気持ちで見つめ続けた人を、そっと見上げる。
 藍子は腕を広げて、花束を抱きしめながら言う。
「……あなたと共に」
 それはレイリスのあいさつで、誓いの言葉でもあった。
 周囲から割れるような拍手と歓声が贈られる中、エドアルドは藍子を抱きしめる。
 その中で、藍子はエドアルドの耳にささやいた。
「逃げられないって、わかっていたでしょ」
 ……だって私、お腹に……だもの。
 藍子が少し悔しそうに言うと、エドアルドは喉を鳴らして笑って、うなずいた。
 瑠璃色の花束は新しい夫婦を祝福するように、きらきらと輝いていた。
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