形がわりの花嫁は碧き瞳に包まれる
櫻子は、抱き抱えられたまま、金原家の中を進んでいる。

恥ずかしさから、顔は火照る一方で、ドキドキとうるさい鼓動が、金原へ聞こえてしまうのではなかろうかと、気が気でなかった。

その金原は、息を切らすこともなく、顔色ひとつ変えずに、櫻子を抱き抱えたまま廊下を歩んでいた。

柳原の家とは異なり、こちらは、玄関から屋敷の奥まで見渡せるのではないかと思える小造な家だった。

とは言うものの、柱や梁に使われている材木は渋く光っており、良質の物を使っていると、櫻子でも分かるほどの品が漂っている。

通りすぎる部屋の襖も、どれも、張り替えたばかりなのかと思える清潔感を漂わせ、もちろん、塵ひとつ落ちていない。

金原が言ったように、裸足の櫻子が歩いてしまうと、廊下に足跡がくっきりつきそうだった。汚れてしまうというのも頷けるのだが、ふと、自分を抱く男は完璧を求めすぎる、つまり、潔癖症なのではないかと櫻子は思う。

世の中には、生活感をも嫌う人間がいて、食事の箸の置き方にすらこだわり、物申す類いがいるという。

もしや、金原という男も、そうなのかと、櫻子が、いぶかしむほど、この屋敷からは、人の暮らしぶりが伺えなかった。

歩む足音だけが、聞こえている。

ここまでで、誰とも出会うことはなく、人払いしているかの様に、見事なほど人の気配はない。本当に静かだった。

着いて来ていた、龍も、玄関のガラス扉を開けると、裏へすぐにまわってしまった。

と、いうことは、小さな家、ではあるが、ちゃんと裏方がある訳で、人もそれなり雇われているのだろう。

金原商店として、店を商っている主人が住んでいるのだから、そして、ここまで、きちんと屋敷を整えるには、やはり、裏方が必要だろう。

それなのに、玄関には、出迎えの女中もいなかった。なぜ、誰にも会っていないのかという不自然さを感じつつ、ちらりと、金原を伺うと、金原も櫻子をじっと見ていた。

「何か珍しいものでもあったのか?」

相変わらず、棘のある物言いだった。

「これからについて、話す」

「……これから」

返って来た言葉は、思いの外、重いもので、これから、ということは、櫻子の立場、行く末をはっきりさせるということなのだろう。

嫁入りなどと、柳原の家で、龍が言っていたが、これは、どう考えても、人攫いと一緒。

そもそも、嫁にと、言ったのは、金原ではなく龍だ。

龍の、その場しのぎの言葉なのかもしれない。

呑気に、鼻をくすぐる香りに、のぼせている場合ではなかった。

覚悟を決めなければならないのか。

でも……。

それは、いったいどの様な、覚悟、なのだろう。

薄々、わかってはいるが、どうしても、櫻子は認めたくなかった。

借金の形に、娘を取られる──。

その先が、どうなるのかぐらい、櫻子も知っていた。

自分は、その借金の形に取られた娘なのだ。

ぎゅっと身をこわばらせる櫻子を、金原は、開かれた襖の前で、やっと下ろしてくれた。

どうやら、客間だろう部屋だった。

ただ、畳の上には、薔薇の花模様が織り込まれた、深い緑色の絨毯が敷かれ、黒檀製に見える、テーブルと椅子が置かれてあった。

奥は障子が閉じられており、縁側と軒先らしき物が映りこんでいる。

完璧な和洋折衷の部屋だが、ここも、折り目正しくと言って良いほど、見事に整えられていた。

櫻子は、どうすればよいのかと、立ち尽くしている。

「早く座れ」

言われて、部屋へ入って良いものかと、櫻子は躊躇する。

あれだけ、汚れると、嫌な顔をしていた金原の様子と、きちんと整えられている部屋の様子に、足を踏み入れて良いのか混乱した。

戸惑う櫻子へ、椅子に座った金原が、じろりと睨み付けてくる。

もたもたするな、と言うことだろう。

絨毯を汚してしまわないかと、心配しながらも、櫻子は、恐る恐る部屋へ入ると、そちらへ、と、勧められるまま、金原と向かい合わせに腰を下ろした。

部屋の雰囲気もだが、金原の一声が恐ろしく、櫻子は俯いた。

そもそも、こんな高級そうな椅子に座るなど初めてだった。

座り方は、これで良いのだろかなどと、余計なことを考えてしまうほど、金原の視線に櫻子は心底怯え切っている。何を言われるのかとびくついている。

そんな、姿など目に入っていないのか、金原は、平然としていた。

自分の屋敷だ。慣れているのもあるだろうが、それにしても、前に人が座っているなど思っていないように、淡々と、懐から何かを取り出した。

「……手形の控えだ」

言って、櫻子へ、金原は証書を差し出して来た。

「……これは……」

「柳原家が、お前に行った事さ」

ふんと、金原は鼻で笑いながら、櫻子へ書き付けているものに目を通すよう要求してくる。

つまり……。この書き付けに、櫻子のこれからが記されている。身の振り方が、記されている。

体が震えた。

わざわざ、こんなものを突きつけなくても、告げれば良いものを。

「どうした?字が読めないのか?」

前にいる男は、自らの処遇を、わざと確かめさせようとしているのだと、櫻子は悔しさから唇を噛んだ。

皆が、なぜ、鬼と呼ぶのか、分かったような気がした。

人を食ったような、この態度。だまって、人を、谷底へ突き落とす……。

だから、鬼、なのだ。

櫻子は、文字は読めると、小さく答えると、これからのことが書かれてあるだろう証書を、恐る恐る手に取った。
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