形がわりの花嫁は碧き瞳に包まれる

櫻子が手にしたそれは、柳原商会と、立星銀行との取引が記された手形だった。

全国にある、200余の国立銀行を追いかけるように、今では、数々の私立銀行が立ち上げられていた。

手形には、立星銀行発行と書かれてある。櫻子には、聞き覚えのない名前だった。

「……最近できた銀行だ。いわゆる、振興銀行というやつだが、さて、いつまでもつか……」

頬杖をつく金原が、気だるそうに言った。

しかし……。

銀行との取引と、櫻子と、どう関係があるのだろう。不思議に思いつつ、目を凝らすと、柳原の店は立星銀行から金を借りていた。

──金五百圓

どうやら、500円の金を借りたようなのだが、細かな文字の連なりの中に見つけた返済期日は3ヶ月前になっている。

この、500円の為に自分はここにいるのだろうか。

いや、しかし、取引は店と銀行との間でのことで、金原商店は関係ないはずだ。

「やっぱり、わからないか」

金原が、少し口角をあげ、櫻子を意地悪く見た。

「つまり……」

大学を卒業した者の初任給は、おおよそ50円。もちろん、大学など庶民が気軽に通える場所ではない。ひょっとすると、世を動かす立場になる者が、手にする賃金が50円だと、金原は櫻子へ言う。

「……まあ、店に例えるなら、大番頭なり、そこそこ、判断を任せられている人間の賃金、とでも思えばいいだろう」

そして、櫻子へ向かい、ニヤリと笑った。

何の話か、掴めない櫻子だったが、差し向けられた笑みは、とてつもなく、深い闇を漂わせ、思わず、背筋が凍りつくようなものだった。

「……おまえの家は、番頭の一人、二人も雇えない状況なんだよ」

続けて金原は言った。櫻子には、何のことか、いや、金原が何を言いたいのかがまるで伝わって来ない。

「まったく、これだから。女ってやつは。よく、考えてみろ。50円と500円だ」

ぷい、と、苛立ちを隠すかのように、金原はそっぽを向く。

50円と500円。

それは……。

金原の説明から考えると、番頭格の人間の、ほぼ一年分の給金を、柳原の店は銀行から借りたということになる。

豪商とまで、呼ばれている店が、たかだか、その程度の金を借りるとは……。

それは、もう、人を雇う資産も、力もないことを意味していた。

そして、元々取引のあった銀行からではなく、聞いたこともない銀行から借りている。ということは、すでに、誰からも相手にされないほど、店は傾きかけており、信用を失っているということ……。

櫻子から、さっと血の気が引いた。まさか、そこまで、店が追い詰められていたとは。

だが、これは、3ヶ月前のもの。

それに、店と銀行との取引だ。なぜ、控えとして、金原の手元にあるのだろう。

「おおよそ、見当は、ついたかい?いや、まだ、わかってないか」

金原は、嫌みたらしく、櫻子へ言い、あの碧い瞳を細めた。

「手形にはな、裏書きという仕組みがある。まあ、そんな小難しい事はわからないだろうから、結論だけを述べる」

瞬間、キラリと細められた瞳が光ったような気がした。それは、蛇のもののような冷えた光だった。

櫻子は、震え上がった。とうとう来るべき時が来たのだと。

「……銀行へは、金原商店が代わりに支払った。そして、柳原商会は、金原商店へ、その立て替えた金と金利を払うことになった」

店は、銀行への借金は無い。しかし、その借金を精算する為、金原商店から、金を借りてしまったのだ……。

裏を見てみろと言われて、櫻子は、証書を裏返した。

そこには、また、金五百圓の文字と、金利を返済する旨が書かれてあった。さらに、添え書きがあり、500円の抵当は、店とする。未払いの場合は、柳原家の資産を没収すると、記されていた。

「ま、待ってください。そ、そんな、無茶苦茶な!!どうして、店も、財産も、すべてなんですか!お、おかしいです!」

おや、そうか。と、金原は、櫻子を相手にしていない。

完全に金原の手のひらで、転がされている悔しさから、櫻子は、きっと、見逃しているものがある。金原へ、つけ入る先があるはずだと、書かれてある条件に、じっくり目を通した。

すると。

「こ、これ!金利の額が書いてありません!!」

叫ぶ櫻子へ、金原は、あ?と軽い返事をすると、信じられないことを言った。

「あのな、うちは、そもそも、金貸しじゃないんだよ。皆が、貸してくれというから、善意で貸しているだけなんだ。金融業を商っているわけではない。だから……」

そこまで言って、金原は、ひと呼吸置くと、櫻子へ向き直り、真顔になった。

「うちの、金利は、時価だ。それを承知で、お前の家は、借りに来た。しかし、どうも、先が危うい。だから、お前を押さえただけのこと」

「……時価?!」

そんな、めちゃくちゃな。と、櫻子が口を開く前に、金原が言う。

「お前は、もう金原のものだ。一生、俺のところにいろ!」

……金原のもの。

その一言に、櫻子は、何も言い返せなかった。

不当な事を行っていると、抗議したところで、前に座る男からは、少なからず金を借りている。

そこを突かれれば、万事休す。

借りているという事実は消えない。

でも……。

そんなこと。

金利が、時価、つまり、金原の気分次第だなんて、どうかしている。

やっぱり、自分は、鬼の所へ来てしまったのだ。そして、一生、何かと理由を付けられて、金原のものとして扱われる。

きっと、屋敷も、店も、金原に取り上げられるのだろう。

時価、という名目で、金利を吊り上げ、500円は、いったい、いくらになるのか。

払えない額にして、奪う。最初から、そのつもりで、金を貸している……。

そして、櫻子が、柳原の最初の犠牲となってしまった。

なぜ、最初なのか。櫻子には、そこまで、考える余裕などなく、何もできない自分の力のなさを見せつけられ、打ち砕かれていた。
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