形がわりの花嫁は碧き瞳に包まれる
金原は、言ったきり黙りこんだ。
眠ってしまったのだろう。
金原商店の社長だから、社長さんと呼んでしまった櫻子だったが、やめろと言われ頭を悩ませた。
皆には、社長と呼べと怒鳴りつけている。かといって、お浜のように、キヨシ、と名前で呼ぶには抵抗があり、もちろん、そんな義理もない。
それより、櫻子は、女中として雇ってもらえたのだろうか。
とっさに言った事ではあったが、女中なら、少なくとも、奧様と呼ばれることはない。
正直、お浜と龍に、奥様扱いされて、櫻子は困っていた。
差し押さえられたモノが、奥様であるはずがない。
金原は、結局、何がしたいのだろう。手形を見せ、柳原の家が作った借金を突きつけた。変わりにと、櫻子を押さえたと言った。
が、妻だとか、奥様だとか。人を持ち上げるような言葉を使う。
からかっているのか?
おまけに、腰ひもで繋ぎ、この家に縛り付けようとする。
決して逃しはしないという、執念すら感じた。
借金の元本を、櫻子と引き換えに帳消しにしたのだから、逃げられては困る。という理由も、分からなくはない。商っている以上、誰しも、いつか突き当たるもの。しかし、その相手が金原とくれば、恐ろしさしかなかった。
利息は時価だと、無茶苦茶な事を通し、押し込んで来た男達を蹴散らす為に、簡単に発砲する。
そんな男のこと。ある日、気が変わったと、突然、別の所へ売られてしまうのではなかろうか。
一番恐れていた事がよぎり、櫻子は、ベッドへ潜り込み掛布を頭から被った。
そういえば、と、隣に身勝手な男が居たのだと、距離を取るため背を向ける。
櫻子が、背を向ける為、寝返りをうった瞬間、片足がベッドから滑り落ちた。その反動につられて、体も一緒に落ちそうになった。
「きゃっ!」
叫びながら、掛布を握りしめるが、どうにもならない。体はそのま床へ落ちそうになる。
他に何も掴む物がなく、落ちるだけの櫻子の体が、何かに引っかかった。
「だからっ!あまり離れると落ちてしまうんだ!やはり、結んでいて正解だったな」
金原が飛び起きて、自分の腰に結んでいる、腰ひもを手繰り寄せる。
かろうじて、片足だけが、ぶらぶら揺れている状態の櫻子へ、眠りを邪魔されたからか、不機嫌そうな金原が、頭ごなしに怒鳴っていた。
「あのな、落ちそうになるまで離れなくてもいいだろ!落ちたはずみで、ランプが転がったら!」
そうだ、枕元にはランプがあった。置かれているテーブルは、小さい。仮に、櫻子がベッドから落ちたら、テーブルも、揺れることだろう。いや、うっかり、テーブルに触れてしまったら、ランプは言うように倒れてしまう。
「あっ……」
自分のせいで、惨事になる所だったと櫻子は息を飲む。
怒鳴られたことは、もっともな事だ。
返す言葉もなく、そして、自分の落ち度を突かれた櫻子は、俯くしかなかった。
「まあ、いい、そのために、結んでおいたのだから」
こうなることが分かっていたのか、金原は、すぐに落ち着いた。
「……結んでいても、危なっかしいか。仕方ない……」
何か、モゴモゴ言いながら、金原は、櫻子の体を引き寄せた。
「えっ?!」
「だからっ!お前が、落ちない為だっ!」
櫻子の腰に手を回した金原は、そのまま、ベッドへ倒れこむ。
当然、櫻子も一緒に。
「……頼む、寝かせてくれ、明日は、早いんだ……」
背後から、櫻子を抱きしめる金原の苛ついた、それでいて、懇願するような声が櫻子の耳をくすぐる。
「ひっ?!」
櫻子の思わずあげた叫びともつかぬものに、金原は、別段反応することもなく、櫻子を抱きしめたまま黙っている。
「しゃ、社長さん……?」
振り返り、金原の様子を確かめることなど、到底出来ない櫻子は、おそるおそる声をかけた。
すると、
「……社長は……無し……夫婦だろ……櫻子……おやすみ……櫻子……」
すうすうと、規則的に流れる金原の寝息らしきものが、櫻子の首筋にかかる。
眠ってしまった、に、違いないが……。
金原は、言った。
夫婦だと。
櫻子と。
たちまちに、顔が火照った。
櫻子が聞いたものは、金原の寝言なのだろう。意味などないのだと、必死に自分へ言い聞かせるが、理由はどうあれ、金原に後ろから抱きしめられているという事実からは逃れられない。
腰に回されている腕をほどく事もできる。が、それは、金原に触れることになる。
たかだか、腕を解き放すだけすら、今の櫻子には困難な事だった。
初めてだらけの出来事に、心臓は、それこそ口から飛び出してしまうのてはないかと思うほど、ドキドキ鳴っている。
このままで、眠るのかと思うと、余計に目が冴えた。
ボーンと、どこかで柱時計が、一回鳴った。続けて、カチカチと、テーブルにある、置時計の秒針が、櫻子の鼓動を煽るかのように流れて来る。
その前には、お浜が作った、いびつな握り飯が盛られている。布巾をかけなければ乾いてしまう。と、思えども、やはり、胸のドキドキが先行して、体が動かなかった。
そんな、緊張しきった櫻子を、嘲笑うかのように夜はしんしんとふけていく。