エリート会長は虐げられ秘書だけを一途に溺愛する
 元来口数が多い人ではなかった。親子ならではの会話もほとんどない。父は、妻を失ってからというもの馬車馬のように働くことだけを生き甲斐としていた。悲しみを忘れるように、そして私を育てるという義務感だけを背負って。
 少なくとも、その背中を見て感じていたことは、不誠実な人ではないということだ。
 まして、自分の娘の婚約者を好き勝手に見繕うようなこともしないはずだった。そういう父だと思っていた。
「金に困っているんじゃないのか」
 冷淡なその声にはっとした。この人は一体どこまで調べ上げているのだろうか。
 ……まさかあの人の存在も? だからこそ、こんな提案をされているの?
 たじろぐ私を前に「セキュリティが甘い」と続けた。
「君の住まいがオートロックではないと報告があがっている。それは事実なのか?」
「……事実です」
「君の年齢にしては、ここの会社の月収はいいほうだと思うが」
「十分いただいています。ただ……」
 どこまで話すべきか。必要なものとそうでないものを一瞬で選別しなければならないと理解はしていても、思考が追いつかない。それをおそらく、この人も一瞬で判断したのだろう。
 千隼さんは、ひとつ小さな息をつくと、
「君の引っ越しは決定事項だ」
 異論は認めないといった顔でまた資料に目を落とした。
 仮にここで秘書として働く上で引っ越しがマストになるなら受け入れるしかない。金銭的に余裕ができるのはありがたい。
 たとえばすぐに会長の動きに合わせられるように、できるだけ住まいを会社や会長の家の近くにするというのは珍しくないだろう……ないよね?
「……わかりました。すぐに新しい物件を調べます」
「問題ない。引っ越し先は俺の家だ」
 またしても、とんでもない情報を投下され言葉を失う。
「住所や鍵については、あとで大林に案内させよう」
「つまり千隼さんのご自宅に……?」
「引っ越しは今日中に。それが不可能なら明日は出社しなくても構わない」
 話はこれで終わりだと言わんばかりに切り上げられる。もう私を見ることもない。
 果たして何が解決したのだろうか。身動きが取れなくなっていると、扉をノックする音が聞こえる。千隼さんの許しが出ると、その先にいたのは冴中さんだった。
 会長室にいた私を見ては一瞬、目を瞠ったが、すぐにいつもの秘書スタイルに戻った。
「神崎会長、秘書の件についてお話があるとのことでしたが」
「花宮杏子を今日付けで俺の秘書とする。よって引継ぎを手伝うように」
 簡潔に告げられた内容に、さすがの冴中さんも一瞬理解ができないといった表情を見せた。
< 7 / 20 >

この作品をシェア

pagetop