教壇、我愛你。
突然
休みの日。何気なくいつもの実家のキッチンへ向かうと、
音楽が流れてきた。「あれっ、おかしいなぁ、、。」
と私は周りを見渡しても音楽が流れている物は何
もなかったのでした。
よく耳を澄ますと、食洗器から音楽が流れている
ようで、その時母が近くにいたので、
「お母さん、食洗器から音楽が聞こえてくるんだけど、、。」というと、
「変ね、病院へ行きましょう。」と言われ、
その時初めて、幻聴が聞こえるようになってしま
ったのだと痛感した。
母が急いで探した精神科にタクシーで走ること
30分病院の先生からは、
「幻聴ですね、仕事の疲労による。」とだけ言われ、
即入院になってしまったのであった。
何か月の入院になるかは、分からないが、、、。
毎日病棟に閉じ込められ
窓の外をぼんやり見つめる日が続くこと月日は
3ヶ月が経った。
病院の先生からは、
「一旦、退院しましょう。」と言われ、
母と車で元居た実家に帰ることにした。
帰ってから私は、鬱もあるのか脱力感と何も考え
られずぼーっとしてしまう日々を送ることになる
のであった。
学校の皆には学校の先生にも一切連絡できずに
3ヶ月入院していたことつげ体調の良い日に学校に
遊びに来て下さいとだけ言われた。
その日は、また訪れた。また幻聴だ。ベランダに
誰もいないのに
ひそひそ話が聞こえてくる。急いで私は母に、
「また幻聴聞こえてきた!」
と言うと、急いでまた3ヶ月入院していた病院へ
向かった。
また3ヶ月の入院かなぁと思ったが今度は長期の
2年入院になってしまったのであった。
1年間、同じ部屋に閉じ込められて、いつも今何時で、
何月何日か分からない生活。窓から夕日が沈むの
が確認できた時だけ、夕方がきたのだなと分かる
程度であった。
約1年で解放病棟へ移り、ヨガプログラムや
音楽療法と言って音楽の先生がエレクトーンを弾
きながら、カスタネットや鈴などを使って、
患者さんの皆と歌を歌いながら、病院の中庭に
毎日決まった時間出られるようになったのであった。
中にはでは小さな売店があったので、お菓子やジュースを
買ってひと時を楽しんだ。退院が近づくと、
調布駅まで出て、母の付き添いのもとパルコで
買い物を楽しんだり、カラオケでストレス発散す
るのが
週一回の楽しみになっていたのであった。
その日はまた突然訪れた。
急に先生に呼び出され、
「もう退院でいいから。」と言い放たれた。
「そうですか。」とだけ、
私はぼそっとそう返事した。
約2年の月日が経ち自分の年齢も間違えるほどであった。
音楽が流れてきた。「あれっ、おかしいなぁ、、。」
と私は周りを見渡しても音楽が流れている物は何
もなかったのでした。
よく耳を澄ますと、食洗器から音楽が流れている
ようで、その時母が近くにいたので、
「お母さん、食洗器から音楽が聞こえてくるんだけど、、。」というと、
「変ね、病院へ行きましょう。」と言われ、
その時初めて、幻聴が聞こえるようになってしま
ったのだと痛感した。
母が急いで探した精神科にタクシーで走ること
30分病院の先生からは、
「幻聴ですね、仕事の疲労による。」とだけ言われ、
即入院になってしまったのであった。
何か月の入院になるかは、分からないが、、、。
毎日病棟に閉じ込められ
窓の外をぼんやり見つめる日が続くこと月日は
3ヶ月が経った。
病院の先生からは、
「一旦、退院しましょう。」と言われ、
母と車で元居た実家に帰ることにした。
帰ってから私は、鬱もあるのか脱力感と何も考え
られずぼーっとしてしまう日々を送ることになる
のであった。
学校の皆には学校の先生にも一切連絡できずに
3ヶ月入院していたことつげ体調の良い日に学校に
遊びに来て下さいとだけ言われた。
その日は、また訪れた。また幻聴だ。ベランダに
誰もいないのに
ひそひそ話が聞こえてくる。急いで私は母に、
「また幻聴聞こえてきた!」
と言うと、急いでまた3ヶ月入院していた病院へ
向かった。
また3ヶ月の入院かなぁと思ったが今度は長期の
2年入院になってしまったのであった。
1年間、同じ部屋に閉じ込められて、いつも今何時で、
何月何日か分からない生活。窓から夕日が沈むの
が確認できた時だけ、夕方がきたのだなと分かる
程度であった。
約1年で解放病棟へ移り、ヨガプログラムや
音楽療法と言って音楽の先生がエレクトーンを弾
きながら、カスタネットや鈴などを使って、
患者さんの皆と歌を歌いながら、病院の中庭に
毎日決まった時間出られるようになったのであった。
中にはでは小さな売店があったので、お菓子やジュースを
買ってひと時を楽しんだ。退院が近づくと、
調布駅まで出て、母の付き添いのもとパルコで
買い物を楽しんだり、カラオケでストレス発散す
るのが
週一回の楽しみになっていたのであった。
その日はまた突然訪れた。
急に先生に呼び出され、
「もう退院でいいから。」と言い放たれた。
「そうですか。」とだけ、
私はぼそっとそう返事した。
約2年の月日が経ち自分の年齢も間違えるほどであった。