憂いの月
どこからか騒ぎ声が聞こえる。
そして暫くもしないうちに喧騒は大きくなってきた。
「何の騒ぎだろう」
父上は手を止め、立ち上がって様子を伺う。
と、突然動きを止めた。
その瞳には、赤い光がちらついている。
はっと立ち上がり、同じ方角を見ると思わず息を呑んだ。
「......───火事だ」
朱雀門の方角。
下級貴族や豪商人が住む処。
それは轟々と燃え広がりつつあった。
家屋を巻き込み、火は瞬く間に大きくなっているようだ。
「季子、季子は今どこだ」
芳生は血相を変えて駆け出した。
季子のいる敬田院の分所は、都の外、朱雀門のすぐ近くに位置する。
そして念珠と札と何か厳しい紙を押し付け、一言残した。
「観子、これを持って内裏へ行け。内裏のできるだけ奥へ。あそこなら安全だ。私は、季子を迎えに行くから」
そうして焦った広い背中は屋敷を飛び出して朱雀門の方へ。
屋敷はまだ火の手から遠かったが、我らは少ない使用人とともに内裏へ。
朱雀通は人でごった返していた。
自ら水を被り、火消しに励む下人。家財を外に出し主の家を壊せと命じられた仕者たち。
静けさは、もうそこには微塵も残っていなかった。
焼け落ちる屋根、悲鳴と泣き声。
焦げ臭さと汗の匂い。
怒鳴る誰かと蹲る者。
そして行き交う人々が口にしていた名は、ただ一つ。
仙波諒成───
我が国の太政大臣にして関白。
かつ、安逹家が、この我が身と共に大切に養育した男である。
混沌とした薄闇の中、わけもわからず涙する。
今からおよそ1200年前、蛍が僅かに舞う春の宵のことであった。
そして暫くもしないうちに喧騒は大きくなってきた。
「何の騒ぎだろう」
父上は手を止め、立ち上がって様子を伺う。
と、突然動きを止めた。
その瞳には、赤い光がちらついている。
はっと立ち上がり、同じ方角を見ると思わず息を呑んだ。
「......───火事だ」
朱雀門の方角。
下級貴族や豪商人が住む処。
それは轟々と燃え広がりつつあった。
家屋を巻き込み、火は瞬く間に大きくなっているようだ。
「季子、季子は今どこだ」
芳生は血相を変えて駆け出した。
季子のいる敬田院の分所は、都の外、朱雀門のすぐ近くに位置する。
そして念珠と札と何か厳しい紙を押し付け、一言残した。
「観子、これを持って内裏へ行け。内裏のできるだけ奥へ。あそこなら安全だ。私は、季子を迎えに行くから」
そうして焦った広い背中は屋敷を飛び出して朱雀門の方へ。
屋敷はまだ火の手から遠かったが、我らは少ない使用人とともに内裏へ。
朱雀通は人でごった返していた。
自ら水を被り、火消しに励む下人。家財を外に出し主の家を壊せと命じられた仕者たち。
静けさは、もうそこには微塵も残っていなかった。
焼け落ちる屋根、悲鳴と泣き声。
焦げ臭さと汗の匂い。
怒鳴る誰かと蹲る者。
そして行き交う人々が口にしていた名は、ただ一つ。
仙波諒成───
我が国の太政大臣にして関白。
かつ、安逹家が、この我が身と共に大切に養育した男である。
混沌とした薄闇の中、わけもわからず涙する。
今からおよそ1200年前、蛍が僅かに舞う春の宵のことであった。