心を切りとるは身を知る雨
***
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」
その女性客が来店したとき、未央はアトリエで上質紙の色を選んでいた。次の定休日には、朝晴に注文の品の確認をしてもらう手はずになっていて、その準備をしていたのだった。
「未央さーん、店長さんをお願いしますってお客さまが見えてますよー」
のれんの向こうから、ほんの少し面食らったようなしぐれの声がする。彼女はいつも明るく、どんな客でもあたりさわりなく接客しているのに珍しい。
苦情だろうか。未央が腰をあげたとき、のれんの下に車椅子が見えた。ますます近づいてきたしぐれが、声を低めて言う。
「左右田乃梨子さんって方です。ご用件うかがっても、名前を言ってもらえばわかるの一点張りで……」
「左右田……」
未央は息を飲み、のれんを押し上げる。
自分は今、どんな顔をしているだろう。困惑気味のしぐれより、不安を浮かべているだろうか。
「すぐ行きますね」
わざとらしい笑顔になったのは気づいたが、何か言いたげなしぐれを残して、店内へ向かう。
店内の客は、女性ひとりだった。作品を眺めるわけでもない。ただ入り口近くに立っている。
未央がカウンターに姿を現すと、彼女はゆっくりとあたまを下げる。
あの時は、絶対にあたまを下げなかったのに、と未央の中にいらだちが浮かぶ。まだ怒りを覚えるぐらいには許してないらしいと自覚して、未央は戸惑った。
左右田乃梨子は、文彦とともに未央を傷つけた張本人だ。彼女に婚約者を奪われたと話したら、誰もが何かの間違いだと驚くであろう、善人そうなあどけない顔立ちをしている。
今さら、何をしに来たのだろう。
未央は言葉が出ずに黙っていた。すると、乃梨子がためらいがちに口を開く。
「お久しぶりです。お店を出されたと聞いて、一度来てみたいとずっと思っていたんですけど、きっかけがなくて」